その13 鷲女の谷①
翌朝。
日課の素振りをしようとウルリカの庵から外に出たセドリックは、戸口の前にいくつかの布袋や木箱が置いてあることに気がついた。
そのうちの一つには、見覚えがある。彼が、愛馬の背に乗せていた荷だ。
なぜ、それがここにあるのか──。
不思議に思って荷に近づいたセドリックに、すでに起き出していたウルリカが声をかけてきた。
「ああ、それか。夜の間に、気のいい魔物たちが集めてくれたんじゃよ」
魔物や魔族の中には、太陽を嫌って夜の闇を好む者も多い。セドリックたちが寝ている間に、そのような者たちが森の傍の街道から荷を持ってきてくれたのだという。
木箱の類いはロランドの荷馬車に残っていたもので、ただ残念ながら馬は見当たらなかったそうだから、おそらく逃げてしまったのだろう。
「どうして、我々にこんなに良くして下さるのです?」
ありがたく自分の荷を返してもらいながら、セドリックは訊いた。
彼らは人間だ。ウルリカたち魔族や魔物とは、敵対する存在のはずである。
「昨日、我々をここに案内してくれたのも貴女ではないでしょうか?」
彼らが森を彷徨っていたとき、森の様子は刻々と変化していた。灌木や茂みの位置がいつの間にか変わり、道を作ったり消したりしていた。
まるで彼らをどこかに案内し、同時に追っ手の目から足どりを消してくれるかのように。
あれも、”森の魔女”の仕業だったのではなかろうか。
「それは、お主が自分で考えたのかえ?」
逆に問い返され、セドリックは言葉に詰まった。ウルリカの指摘は、実に的を射ている。
カカカ──と、ウルリカが笑った。
「大方、ユージンの考えじゃろう」
「ええ……」図星を指されて頷くセドリックに、
「素直じゃのう」
と、またウルリカが笑った。
「ユージンは賢しい小僧じゃ。じゃが、お主と違って素直さがないわ。儂のことも、まだ疑っておるようじゃしな」
どう答えていいか分からず、戸惑うセドリックにウルリカが続けた。
「じゃが、それもよい。いや……それがよい。素直さがお主の強み。人の好意に素直に感謝できるところが、お主の良いところじゃ。しかしな……」
そこで、ウルリカが笑みを引っ込めて真顔で言った。
「生き残っていくためには、ときには人の笑顔の裏に何かあるのではと疑ってかかることも必要じゃ。そこを、お主の代わりにユージンがやってくれる。じゃからお主は、素直なままでいられる」
ウルリカの目が、どこか愛おしげに細められた。
「よい兄弟を持ったな」
「はい、本当に」
今度はセドリックも素直に頷いた。
「じゃが……」ウルリカの目が、悪戯っぽく輝く。「双子とは思えぬほどに真逆じゃな、お主らは」
「よく言われます」
セドリックは苦笑する。
そんな彼を見るウルリカの目の輝きが、油断のならない光に変わった。
「本当に、お主らは双子なのかえ?」
「…………」
核心を突いた問いかけに、セドリックは何も答えることができない。
素直さが強みと言われたばかりであるが、いまウルリカが指摘したことは、まさに彼自身がずっと疑ってきたことだ。
──ユージンと自分は、本当に同じ母から産まれた兄弟なのだろうか?
そして違うというのなら、おそらく両親の実の子でないのは自分の方であろう。
少なくとも、ユージンが父の実の子であることは疑いがない。それほどに彼は、父・ケアードとよく似ている。
だが、セドリックは──。
父母は、幼い頃から彼ら兄弟を対等に扱ってくれたとは思う。だが、それでもときに彼は、両親の自分に対する態度がどこかよそよそしいような──いや、むしろ気を遣われているような空気を感じ取ることがあった。
両親のどちらとも髪色が違うセドリックだが、祖父とは髪の色も瞳の色も同じだから、ここには確かに血の繋がりを感じる。母・シャーリーとも瞳の色は同じだ。
だからセドリックは、戦死したという母の兄弟たちの誰かが、自分の父ではないのかと疑っている。志半ばで命を落とした兄弟の遺児を彼女は引き取り、育ててくれたのではないだろうか。
そしてもしかしたら、彼がこの森で捜している叔父・アゼルスタンというのは──。
「……それでも、私とユージンは兄弟です」
ようやくそう言ったセドリックに、柔らかい顔になってウルリカが言った。
「それでよいと思うよ。ただな、今の話は、儂がお主らを助ける理由にも通じとるかもしれんのでな」
えっ、とセドリックはウルリカの顔を見た。だが、魔女はそれ以上説明するつもりはないようだ。ニタリと口の端を持ち上げて、
「ま、いずれお主にも分かることじゃろうて。それまでは、儂を疑いつつも信じてくれればよい」
と、問答のようにそう言った。
もしかしたらウルリカは笑いかけてくれたのかもしれないが、見ようによっては邪悪な企みをしている顔のようにも思えて、セドリックは少し戸惑ってしまう。
「儂への感謝は、ロクサーヌに返してあげておくれ」
言葉を返せぬセドリックに最後にそう言うと、ウルリカは小屋の中へと戻っていった。
煮ても焼いても食えない魔女の後ろ姿を、困惑しながらセドリックは見送る。
どうやら、はぐらかされてしまったようだ。
何故自分たちにこうも親切にしてくれるのかという彼の問いには、結局はっきりと答えてはもらえなかった。
とはいえ、失ったと思っていた荷物が戻ってきたのは本当にありがたい。
セドリックの知らせを受けて庭に出てきたロランドは、涙を流してウルリカに感謝し、荷の半分をお礼に譲ろうとまで言っていた。
太陽が森の木々の梢を広く照らしはじめた頃、パオラとエルマが荷の中から森での探索や野営に必要なものを分けてまとめ、数日分の食料も用意してくれた。
それらを三つに分けてセドリックとユージンも持とうとしたら、「従者の仕事をさせて下さい」とロランドが言い張ってきかないものだから、結局、かさばるものを中心に彼に背負ってもらうことにする。
ユニコーンの”銀角”の背にロクサーヌと毛布を乗せ、祈るように掌を握り合わせているエルマとパオラに見送られながら、セドリックたちは森の奥へと分け入っていった。
黒い森は、この地方でも有数の広大な森である。
以前に丘の上からこの森を見たとき、森の木々は地平線の彼方まで続いていた。
その広い森の中には起伏に富んだ場所もあり、山や湖も存在している。
ロクサーヌの案内で彼らが目指すのも、そのような場所の一つだ。
灌木の間を縫うように続いていた獣道が、やがて山肌に沿うような山道に変わっていく。登りの道を少し歩いた後、今度は道がゆるやかな下り坂になる。
そうしてやって来たのは、左右に切り立った崖がそびえるV字形の谷だった。”鷲女の谷”である。V字の底の所にわずかに平坦になった場所があり、細い道のように谷の奥へと続いている。
「これだけ高いと、圧迫感がすごいですね……」
壁のように左右に聳え立つ崖を見ながら、ロランドが呟いた。
崖の表面は、灰色の岩肌が剥き出しだ。固い岩盤だから植物が根を下ろすことができないのだろう。足元の地面も岩が中心で、やはり草花はあまり生えていない。ゴロゴロと、大小の丸い岩石が転がっている。
その岩の間に、ところどころ茶色い泥や土のように見える場所があった。そこだけに、地にへばりつくように苔だとか小さな草が生えていたりする。
ときには”道”の真ん中にそのような場所があったりして、固く滑りそうな地面に飽きてきたセドリックは、ふと思いついてその土のように見える場所に足を踏み下ろそうとした。
「やめておいたら?」
突然の声に驚き、セドリックは下ろしかけていた足を引っ込めた。
声が聞こえてきた方──シルバーホーンの背中の上に目を向ける。
そこにはいま、ロクサーヌしかいないはずだった。なのに聞こえてきた声は、明らかに彼女とは違っていた。
「カイ!?」
ユニコーンの背の上で、ロクサーヌがやはり驚いた様子で言った。
彼女の後ろには、丸めた毛布が乗せられている。その毛布の間から、一匹の黒猫が顔を出してこちらを見ていた。
ニヒッと、笑うような顔をした黒猫の口が開かれる。
「面白そうだから、ついてきちゃった」
発せられたのは人間の言葉。
こっそり毛布の間に忍び込んで出発を待っていたら、ついウトウトと眠っちゃったよ──。
そう話す黒猫を、呆然とセドリックは見つめた。
「猫が……喋ってる……」
「僕はカイ。ロクサーヌの親友だよ。よろしくね」
モゾモゾと黒猫が毛布から出てくる。その尻には、尾が九本も生えていた。
「魔猫か……」
納得したようにユージンが頷いた。カイと呼ばれたこの猫は、ただの猫ではなく魔物なのである。
「で、どこに行こうとしてたのロクサーヌ?」
言って辺りを見回したカイの目が見開かれ、ピャッとその毛が逆立った。次の瞬間、また毛布の間に潜り込んでしまう黒猫。
「ちょっと! ここ、”鷲女の谷”じゃないか!」
「そうよ?」
腰に手を当ててロクサーヌが言った。
その彼女の仕草と言葉は、なんだか幼い弟を叱っている姉のようだった。どこか気弱げに見える彼女にもこんな一面があったのかと、新たな発見にセドリックの胸が少しほっこりとする。
「これから、”湖の魔女”様に会いに行くのよ。知らずについてきちゃったの?」
「目的地までは、聞いてなかった……」毛布の中から、カイの声がする。「じゃあ、僕はしばらくここに隠れていることにするよ。湖の魔女には会ってみたいけど、ハーピーは怖いもの」
雑食のハーピーは、猫のような動物を襲って喰うこともある。
カイが隠れてしまった毛布を「しょうがない子ね」というように見やった後、ロクサーヌがセドリックに向けて頭を下げた。
「ごめんなさい、セドリック様。勝手についてきてしまったみたいで……。あの子は、カイといいます」
ウルリカの飼い猫だという。最初はただの猫だったらしいが、長年飼っているうちに”森の魔女”の魔力を浴びて尾が一本、二本と増えていき、いつの間にか言葉を喋るようになってしまった。
ロクサーヌが物心ついたころには既にカイは言葉を話していたから、相当に長い年月、魔女と一緒に暮らしていたのだろう。先程はまるで姉と弟のようなやりとりだったが、実はカイの方が、ロクサーヌよりもはるかに年上なのである。
「まあ、私は構わないけど……」
セドリックが苦笑してそう言ったとき、毛布の間から黒猫がぴょこんと顔だけ出してきた。
ジロジロとセドリックを舐め回すように見た後、呟くように言う。
「ふーん。お前が、セドリックか……」
「カイと言ったな。よろしく」
挨拶をして手を出したセドリックに、黒猫が前足を毛布から出して触れてきた。その手をセドリックは握り返す。
奇妙な握手をしながらまた検分するようにセドリックを見た後、カイが言った。
「お近づきの印に教えてあげるけど、その土みたいな場所は踏まない方がいいよ」
カイが登場する前に、セドリックが足を踏み下ろしかけていた苔むした土の部分だ。
「それ、元はハーピーの糞だから」
思わず足元を見てしまったセドリックに黒猫がニッと笑い、ロクサーヌが困ったような表情をした。
「ハーピーの糞か……」ユージンが口を開いた。「そういえば奴らは、垂れ流した汚物をまき散らす不潔な生き物だと聞いたな」
顔をしかめる彼らに、黒猫がすました顔で言う。
「別に庇うわけじゃないけどさ。実際にはそんなに汚い奴らでもないよ。鳥だって糞ぐらいは落とすだろう?」
ただ、ハーピーの場合は体が大きいからその糞の量も多くなる。人間の女性の上半身とのギャップもあって、「不潔だ」という評価が確立してしまったのであろう。
「あまり褒められた行為ではありませんけど、でもこれが森を再生することにも繋がるんです」
ロクサーヌが言った。
長い年月の間に雨にうたれて崩れたり、乾いて風化した糞が岩の欠片などと混じって土のようになる。そこに苔が生え、やがて苔も朽ちて土の一部となり、少しずつその体積が増していく。いつしか小さな草花も生えるようになり、積もり積もってついには樹木が根を下ろす。
森は、そうやってできていくのだ。
ただ実際にこの谷が、緑の萌える森になるには気の遠くなるほどの長い年月が必要だ。おそらくその頃には、ここにいる者はもう誰も生きてはいない。
どこか遠くを見るような目でそう説明してくれたロクサーヌの顔が、突然にハッと強ばった。
その理由は、セドリックにもすぐに知れた。
バサッ、バササッ。バサバサバサッ──。
いくつもの羽音が聞こえてくる。大きな鳥のようなものが、こちらに向かって飛んできている。しかも複数。ハーピーの群れだ。
「ヒヒィィィイーーーン!」
警告を発するように、シルバーホーンが大きくいなないた。