その11 森の泉で
セドリックが見る夢の中に現れた女性。
初め彼は、それが自分を育ててくれた母・シャーリーではないかと思った。
しかし、霧がかかったようにぼやけてはいても、その顔は明らかにシャーリのものとは違っていた。
では、いま赤子のセドリックに母乳を与えてくれているこの人は、顔も名も知らぬ生みの母なのだろうか。
やがて、目鼻立ちが明らかでなかったその顔が、霧が晴れるように徐々にはっきりとしてきた。
そして明らかになる女性の顔。
(この人は……)
夢の中にいるセドリックの、覚醒している部分が気づく。
いま、彼の目の前にいる女性。
それは、昨日一度だけ町の広場で会ったあの女性だった。ほとんどまともに話すことができず、それなのにずっとセドリックの脳裏から離れなかった女性の顔。
その彼女の美しい唇が開かれ、綺麗な歌声が紡ぎ出された。
つい今し方まで聴こえていた子守唄とは違う歌。それなのに、不思議とどこか懐かしい曲──。
パチリと、セドリックは目を覚ました。
眼前にはもう女性の顔はなく、青い空ばかりが広がっている。視界の端に、森の木々の緑色が見える。
体を起こした彼の目に、きれいな水を湛えた泉が目に入ってきた。
そのまま、セドリックは探るように辺りを見回す。
美しい女性の顔は夢の世界に消え去ったが、歌声の方はまだ耳に届いていた。少し先の、岸から泉の中に伸びている大きな岩の向こう側。声は、そちらから聞こえてくるようだ。
懐かしい歌に引き寄せられるように、セドリックは岩の方へと向かった。
耳に入る歌声が、徐々に大きくはっきりしてくる。
岩を回り込むようにしてその向こうを見やり、そして金縛りにあったかのように彼は動けなくなった。
薄布を纏った美しい乙女が、歌いながら水浴びをしていた。心地よさそうに目を閉じ、まだセドリックの存在には気づいていない。
ぼーっと、セドリックはその姿を見つめ続けた。
先程の夢に出てきたのと同じ顔。
夢の中で、赤子のセドリックはこの女性に抱かれて子守唄を聴かされていた。
女性は薄布を纏ってはいたが、いまその布は水に濡れて彼女の体にピタリと張り付き、抜けるように白いその下の素肌の色が透けて見えていた。すらりとした手足から続く、まるで女神像のように美しい体の線も露わになっている。
そして赤子のセドリックが吸っていた、美しい形の乳房も──。
途端に顔が真っ赤になり、セドリックの身体は金縛りから解放された。
彼の体が動く気配に、女性もようやくセドリックの存在に気づいたようだ。目を開いて、こちらを向く。
「きゃあぁぁーーっ!!」
「も、申し訳ありません!」
慌てて女性に背を向け、セドリックは岩陰に隠れた。彼女の姿を見ないようにしながら、弁解がましく言う。
「本当に、申し訳ありませんでした。懐かしい歌声が聞こえたものだから、つい……」
「いえ……。わたしも、迂闊でした……」
パシャン、という音が聞こえる。おそらくは腕で前を隠しながら、女性が水の中にしゃがみ込んだのだ。
しばらく、互いに無言だった。
女性が岸に上がる気配はない。
セドリックも、逃げるようにこの場を去るのはかえって無礼な気がして、そのまま岩陰から動けずにいた。
いや──。
”無礼”というのは、言い訳だろう。
本音を言えば、この場から離れたくないと思っていた。偶然にもまた再び出会えた彼女と、もう少し話をしたいと思った。せめて、名前だけでも聞かせてもらえたら……。
「あの……」
岩の向こうから、彼女の声が聞こえた。
「昨日は……ありがとうございました」
「昨日? ああ……」
──彼女も、自分のことを覚えてくれていた!
その何でもない事実が、セドリックの胸を踊らせる。
「いいのです。騎士として当然のことをしたまでですから。貴女こそ勇気のある女性だと、ほとほと感服しました」
「いえ……」
プクプクと、あぶくの弾ける音がした。彼女が、口まで水につけて照れているのだろうか。
「あの……」
パシャリ、水音。
そして誰かが近づいてくる気配。
「セドリック様……」
岩の向こう側の、すぐ近くから聞こえてくる声。
彼女が、こちらに近づいてきたのだ。
そして呼ばれた自分の名前。
──彼女は、自分の名前も覚えてくれていた!
セドリックの鼓動が、ますます早くなる。
彼女の天使のような声が、また耳に届いた。
「以前に、どこかでお会いしたことがあったでしょうか?」
その問いかけの意味が分からず、セドリックは一転して困惑してしまう。
彼女の歌声に、なぜだか懐かしい気持ちを感じたことは事実だ。
だが、会うのは昨日が初めてのはず──。
セドリックは答えて言った。
「ええ、昨日……町の広場で……」
「そうではなくて」彼女が首を振る気配がする。「もっと以前に……」
言われて記憶を辿るが、やはりセドリックには、以前に彼女に会った覚えなどはなかった。これほどまでに美しい女性だ。過去に出会ったことがあるのならば、記憶に残らぬはずがない。
ただ、以前に出会った覚えがないのはどうやら彼女も同様のようで、些か不思議そうな様子の声が岩の向こうから聞こえてきた。
「昨日、あの広場でお会いしたとき、セドリック様は私の名前を仰りかけました。『ロクサーヌ』と……」
そうだっただろうかと、セドリックは追想する。
確かに昨日初めて彼女の顔を見たとき、誰かが「ロク……」と呟く声を聞いた気がした。
あれは、自分の声だったのか──?
疑念を抱きつつ、首を横に振ってセドリックは答えた。
「いえ……。意味のない呟きが、たまたまそのように聞こえたのでしょう……。そうですか、貴女はロクサーヌ殿と仰るのですか……」
ロクサーヌ──。
その名を、セドリックは魂の奥にまで刻み込む。
「遠慮なく、ロクサーヌとお呼び下さい」
そう言った彼女が、また近づいてくる気配がした。岩を回り込んできたようで、慌ててそちらに背を向けながらセドリックは赤面をする。
もはや、顔から火が出てしまいそうだった。泉の水に顔をつけて鎮火でもしたほうがよいだろうか。先程のロクサーヌのように。
「やっぱり……お怪我をしていらっしゃる」
すぐ背後から、心配そうなロクサーヌの声が聞こえてきた。
そして脇腹の怪我に添えられる温かい手の感触。
「ろ、ロクサーヌ!?」
「動かないで下さい……」
首だけ動かして、セドリックは怪我をした脇腹を見た。そこに添えられた白いたおやかな手。その手が、ボワッと淡い光に包まれたような気がした。
そのとき。
「ヒヒィィィイーーーン!!」
突然に馬のいななく声が聞こえ、セドリックとロクサーヌの体がぱっと離れる。
「”銀角”!? どうしたの?」
岩向こうの岸に向けて、ロクサーヌが問いかける声が聞こえた。
同時に、セドリックは首筋にチリチリとした違和感を覚える。幼い頃から、危険を察知したときに感じる本能からの警告。
「ロクサーヌ……」
固い声で、セドリックは彼女に話しかけた。
「すぐに水から出て、服を身に着けてください……。私も、すぐに行きますから」
言って、自身の剣と鎧が置いてある場所に走る。鎧を身に着けている時間はないから他の荷物と一緒に素早くまとめて小脇に抱え、ロクサーヌの元に急いだ。
「セドリック様……」
不安げに声をかけてきた彼女の傍には、一頭の白馬がいた。だが、ただの馬ではない。その額には、一本のねじれた角が生えている。
伝説に聞く一角獣かと、セドリックは一瞬身を強ばらせた。この幻獣は、確か清らかな乙女の守護者だと聞いたことがある。乙女に近づく男は、誰であっても許さない。
ロクサーヌの傍にいるユニコーンも、明らかに何かを警戒して敵意を剥き出しにしていた。
ただ幸いなことに、その敵意の対象はセドリックではないようだ。彼の後方の森、その向こうにいる何者かに対して、尖った角の先端を向けている。
その森から、バキベキという音が聞こえてきていた。
生い茂る灌木に遮られた森の中を、木枝を折りながら無理矢理に通ってくる者がいる。
警戒の面持ちで、セドリックもそちらの方に剣を向けた。
ザシュッ、ザシュッ!
いきり立ったユニコーンが、右の前足で何度も地を蹴る。
そして茂みの向こうから姿を現した者を見て、セドリックの体に緊張が走った。
魔族──。
全身が棘のような剛毛に覆われた黒い巨体。髪の毛も、まるで無数の太い針金のようだ。
人型ではあるが、普通の人間を単純に大きくした場合より、さらに全身の筋肉が発達していた。腕回りなどは、セドリックの胴よりも太いのではないか。
黒色で刺々しいことを除けば、その魔族は一見したところでは食人鬼に似ている。
かつてセドリックは、祖父の領内に現れたその怪物を倒したことがある。あのときのオーガは、祖父によれば「かなりの大物だ」という話で、この手柄がセドリックの騎士としての将来を皆に期待させるきっかけとなった。
だが、いま目の前にいる怪物は、あのときのオーガよりもさらに大きかった。一.五倍以上はあるだろう。セドリックの倍を優に超える身長だ。
先程の”バキベキ”という音は、人の背丈ほどの灌木の間を無理矢理に通る音ではなかった。この黒い魔族が、高所にある木の枝を折りながら進む音だったのだ。
見上げるほど高い位置にあるその魔族の耳まで裂けた口には、赤黒い液体がベットリと付着していた。つい今し方まで”食事”をしていたのだ。獲物となったのは、鹿か何かだと信じたいところだった。
その口元よりもさらに赤い、燃える石炭のような魔族の目がこちらの方に向けられた。
血のついた口が、ニタリと持ち上がる。下卑た笑いのように、セドリックには思えた。
「まさか……こうも早く出会えようとはな……」
そう言った魔族の目は、セドリックではなくロクサーヌの方に向けられていた。理由は分からぬが、魔族の狙いは彼女なのだ。
チラリとセドリックはロクサーヌを見た。気丈に魔族を睨み返しながらも、彼女の瞳にはわずかな恐怖の色ある。その傍ではユニコーンのシルバーホーンが、彼女を守るように角を魔族に向けている。
剣を正眼に構え、セドリックは魔族とロクサーヌの間に割って入った。
「貴様……」
ようやくセドリックに気づいた様子の魔族の目に、怒りの色が宿る。
魔族の左頬には、斜めに大きな傷跡があった。
どこかで見覚えのある傷の走り方だったが、まさかなとも思う。なにより、先刻セドリックがあの男につけた傷よりも、はるかに大きな傷だった。人間の剣では、あれほど大きな傷はつけられないだろう。
「殺してやるッ!!」
そう吠えた魔族が、セドリックに向かってきた。
この体格差では、足を止めての戦いは無茶だ。敵は武器を持っていないが、巨大なその拳の一撃を剣で受け止めることはできない。あっさり折られることは目に見えている。
動き回って攻撃をかわし、隙を見て相手の足に斬撃を叩き込むしかない。
ロクサーヌから離れるように、セドリックは走りだした。
魔族の目が、彼を追う。
その間合いに入った瞬間、セドリックは横に跳んだ。
案の定、一瞬前まで彼がいた地面に魔族の拳がめり込んでいる。
その腕に、渾身の一撃を叩き込む。
ガヅゥゥウン!!
分厚い鉄の甲冑に剣をぶつけたような衝撃。
魔族の黒い硬質な皮膚は、まさに天然の鎧だった。表面に少しの傷はつけたようだが、さほどのダメージにはなっていない。
「セドリック様!」
ロクサーヌの声が聞こえてきた。
「逃げるんだ、ロクサーヌ!」
セドリックも叫び返した。
盾も鎧もなく、剣一本で、しかも手負いの身。
この魔族に勝てるとは──残念ながら思えない。
(ならばせめて、彼女が逃げる時間を稼ぐ!)
「仲が良さそうで結構なことだ!」
皮肉げに言いながら、魔族が左拳を振り上げる。
ドゴォォオン!!
大地が大きく揺れる。
たたらを踏みながらも攻撃をかわしたセドリックは、ロクサーヌの所にだけは行かせまいと、なおも魔族の前に立ち塞がる。
「何度も邪魔をするな、小僧!」
魔族が、また拳を振り上げた。
巨体の魔族だから、動きも大きい。今なら、その懐に飛び込める。
(だが、飛び込んでどうする?)
彼の剣で、魔族の硬い体に有効打を与えるのは難しい。それは、先程すでに証明済みだ。
懐に飛び込めば拳からは逃がれられるが、体当たりや膝蹴りを食らったらおしまいである。
そう考えていたはずなのに、なぜだか足が勝手に動いていた。
魔族の巨体に近づいていくセドリックの体。
「グフフッ!」
薄笑いを浮かべた魔族の片足が動く。やはり、蹴りを繰り出してくるつもりだ。
今から後方に跳んで、蹴りの間合いから逃れるのは難しい。
両側には彼を逃がすまいと、巨大な拳がすでに準備されている。左右どちらに跳んでも、追撃の拳が襲ってくる。
(詰んだ……!)
なぜ懐に飛び込んでしまったのか──。
自分の行動を後悔するセドリック。
(!?)
そのとき、手に持つ剣が突然に青い輝きを放った。
(また、この光!?)
今日、三回目の幻の青い光──。
剣だけではなく、その柄を持つ両腕も青い光に包まれていた。
その光が収束し、腕全体を包み込む。
何も身に着けていなかったはずのセドリックの両腕が、青く輝く甲冑に覆われていた。
(いったい──?)
考える間に、その両腕は動いていた。
真横に一文字に振るわれる剣。
青い光の残像が消える間もなく、上段に構えた剣を間髪入れずに振り下ろす。
何もない空間に、青い光の十字架が生まれた。
「ギアアァァァーーーッ!!」
蹴り上げかけていた魔族の足に、十字型の傷が刻まれる。真っ黒い血が、噴水のように吹き出す。
「グ、グオオォ……ッ!!」
片足をやられた魔族の巨体が傾く。
巻き添えを食わぬよう、倒れる魔族から跳んで離れるセドリック。
すでに、腕を包む青い甲冑は消えていた。
(今のは……なんなんだ?)
そのわずかな戸惑いの間に、地に片手をついて倒れるのを防いだ魔族が、片膝を立ててこちらを睨みつけてきた。わなわなと震える拳が、ギュッと握りしめられている。
「セドリック様!」
聞こえてくる声。セドリックは、慌てて声のした方を見た。
「ロクサーヌ!?」
──逃げていなかったのか、どうして!?
「わたし一人で逃げるのは嫌です!」
そう言いながら、ロクサーヌが片手を突き出す。
「こちらを見ないで、セドリック様!」
言い終わった瞬間、彼女の手から眩い光の帯が迸った。
思わず目を背けるセドリック。
真っ直ぐに進む光の帯が、魔族の目玉に命中した。
「グア゙ア゙ァァーーァアッ!!」
両目を押さえて苦しみ悶える魔族。
横から見ていても、正視できないほどに眩い光の帯だった。それをまともに目に当てられたのだから、たまらない。瞳を灼かれ、しばらく視力を奪われることだろう。
パカラッ、パカラッ!!
セドリックの背後から、馬の駆ける音が聞こえてきた。
ユニコーンのシルバーホーンだ。
「乗れ」と言うように、その背を彼に向けてくる。
ありがたく飛び乗ったセドリックは、同じく駆け寄ってきたロクサーヌに手を伸ばし、彼女を馬上に引っ張り上げた。
二人が乗ると同時に、シルバーホーンが走りだす。
「グッ、グオオッ……ま、待て……」
みるみるうちに、そう言う魔族の姿が遠くなっていく。森の木々に隠れ、やがてその黒い巨体が見えなくなる。
「セドリック様……」
その声で、ようやくセドリックは背中にロクサーヌがしがみついていることに気がついた。
彼女の体温と柔らかい肢体をはっきりと意識してしまい、戦いの後で治まりかけていた胸の鼓動がまた一段と高まってくる。
「こんなときですけど……」
言いながら、ロクサーヌの手が傷ついたセドリックの脇腹に伸ばされた。
先程、少しだけ見た淡い光。
傷口が、その温かい光に包まれる。
ズキズキと感じていた痛みが、みるみるうちに引いていった。
「ロクサーヌ……。君は、聖女だったのか……?」
彼女がいま使ったのは、神に仕える神官や聖女が使う<癒し>の奇跡のように思えた。先程魔族を悶絶させた眩い光も、確か聖女たちが護身用に使う術と同じものだ。
「わかりません……」ロクサーヌが答えた。「いつの間にか、自然と使えるようになっていたのです。でも……たぶんわたしは、聖女なんかではないと思います」
傷の癒しを終えたロクサーヌが、ギュッと一層強くセドリックの背中に抱きついてきた。
体だけでなく、その額もセドリックの背中に強く押しつけるようにして、ロクサーヌはボソリと呟いた。
「だってわたしは、魔王の実の娘なのですから……」
魔王の天敵である神の寵愛を受けた者であるはずがない──。
衝撃ですぐに言葉を返せずにいるセドリックに、半分泣いているようなロクサーヌの言葉が聞こえてきた。
「ごめんなさい……。忌み嫌われて、当然ですよね……」
それでも、わたしは──。
彼女の言葉は、そこで途切れた。