その10 魔王の“妻”ロクサリアの出産
セドリックが”黒い森”でジェラルドと戦うおよそ十八年前のこと──。
魔王領の最奥にある城の中で、憔悴した様子の女が赤子に母乳を与えていた。
聖騎士イーヴァン・ホーのかつての恋人、ロクサリアである。
彼女が魔王の妻となってから、すでに数年の時が経過していた。
ロクサリアが抱く赤子は、彼女が自身の産道を通してこの世に送り出した者だ。魔王ヴォルヅガンズとの幾度もの契りの果てに、彼女の胎内で育まれた者である。
この子を妊娠したと告げたとき、魔王はその厳めしい顔に珍しく喜色を浮かべた。
ヴォルヅガンズには妻が何人もいるが、妊娠をしたのはロクサリアが初めてである。無事に産まれれば、この子が魔王の長子になる。待望の、魔王の後継者候補だ。
ただ彼女の妊娠は、めでたさ一色というわけにはいかなかった。そこには、いくつかの懸念が存在していた。
一つは、ロクサリアが人間であるということだ。
魔族と人間の間に子供が生まれた事例は、過去にも数多く存在している。
だが、ヴォルヅガンズはただの魔族ではない。魔王なのである。魔族の中でも、最強の魔力と頑強な肉体を持つ者だ。
脆弱な人間の身で、その強大な魔王の子供を産もうというのだから、これは大げさではなく命の危険を伴う相当な難産になるであろうと予想された。
ましてロクサリアの体格は、それほど大きくはない。人間の女性の中でも華奢な部類に入るであろう。体力もそれほどではないと思われる。
その彼女が、無事に魔王の子供を産むことができるのか──。
ロクサリアの周囲の者は、皆そういう不安を抱きながら日々大きくなっていく彼女の腹を見守っていた。
そして彼女の懐妊に関するもう一つの懸念が、魔王の正妃・モーガンルビーの存在だった。
ロクサリアをはじめ多くの妻を持つヴォルヅガンズだが、後宮のようなものは作っていない。彼女たちは、皆それぞれ別々の城に住まわされている。
それは、悋気の強いモーガンルビーのことを気にしての処置だ。嫉妬深いこの正妃が、魔王の寵愛を受けてその子を妊娠した側妃に攻撃を加えてくる可能性は十二分にある。実際、彼女の手にかかって命を落とした側妃だっているという。
ただ、自城にいたところで安心はできない。モーガンルビーが、暗殺者を差し向けてくることも考えられる。
だからロクサリアの妊娠が発覚して以来、彼女の城に住む者達は皆、常に内外からの緊張に晒され続けていた。絶えずロクサリアの体調に気を遣い、一方で外部からの侵入者や攻撃に最大限の警戒を行う。
そうして十月十日の緊迫した生活の末に、ようやくロクサリアが無事に男の子を産み落としたときには、城の者達の顔は皆一様に安堵に包まれた。
だが、その顔もまたすぐに緊張した表情に戻ってしまう。今度は、生まれた赤子を暗殺しようという者に備えなければならない。
ロクサリアの出産を見届けた城の者達は、一人、また一人と部屋を出て行き、生まれたばかりの赤子が産湯につかって体を清められた頃には、ロクサリアの傍に付き従っている者はただ一人だけになっていた。
その者が桶から赤子を抱き上げるのを見届けたロクサリアは、どうにか誰の手も借りずに起き上がり、すっかりと綺麗になった赤子を受け取って初めての母乳を与えた。
気力も体力もほとんど使い果たしてはいたが、気を失うわけにも休むわけにもいかなかった。
彼女には、まだやらねばならないことがある。
「お妃様──」
赤子を彼女に渡した世話係の女が、平坦な様子で口を開いた。やや大柄であることを除けば、どこの城にもいる侍女のように見える女だ。
しかし、彼女の長いスカートに隠された素足には、びっしりと鱗があることをロクサリアは知っている。人間の姿に変化してはいるが、この女の本来の下半身は大蛇のそれだ。
ラミアという、人間の上半身と蛇の下半身を持つ魔族であった。ロクサリアがこの城にやって来たときから、彼女の護衛を兼ねて魔王が任命した世話係である。
「そろそろ、魔王様がいらっしゃる頃かと思います」
仮面のような無表情でラミアが言った。
普段はこの城には住んではいない魔王ヴォルヅガンズが、ロクサリアが産気づいたという報を受けて、取る物も取り敢えずにこちらに向かって来ているという。結局出産には間に合わなかったが、そろそろ到着する頃であろう。
「ですから私も、しばらく席を外させて頂きます。魔王様がいらっしゃる前に、もう一度この部屋の周囲を点検したく思いますので」
出産という難行を終えたばかりの女に対して、ラミアの口調はどこまでも事務的だった。
彼女が表情というものを顔に出したところを、ロクサリアは一度も見たことがない。
ただ、ラミアは感情を顔に表せないのではなく、意識して表さないようにしているのだということもロクサリアは知っている。
無表情を装ってはいるが、自分を見るラミアの目にしばしば侮蔑の感情がよぎることにロクサリアはとうに気づいているのだ。
──魔族から見れば、何の力も持たぬ非力な人間。
見目の麗しさだけで魔王の寵愛を受ける女。
我が身可愛さに愛する恋人を裏切り、その仇の妻となった唾棄すべき者──。
ラミアが、自分を軽蔑する理由は数え上げたらきりがない。
それでも彼女がロクサリアの忠実な使用人として振る舞っているのは、あくまで魔王に対する忠誠心──あるいは、その怒りを買う怖れからである。
とはいえ、彼女がロクサリアの胸に抱かれている赤子の身を心配しているということだけは、本当であろう。
この子は魔王にとっての初の子で、しかも男の子だ。
ラミアは、”数いる妾の一人の世話係”から、”魔王の長男の世話係”に出世したことになる。
先に部屋を出ていった他の者達も同様で、魔王の長男の──将来魔王になるかもしれない者の幼少期からの側近としての地位を保つべく、彼らはいま忙しく動き回っている。
彼らのその地位も、まだ盤石とは言えないからだ。ロクサリアが産んだ赤子の命を狙っている者がいる。
これまで彼女の妊娠を──おそらくは流産を期待して静観していたその者が、しかし無事に出産が終わったことを知って動き出すであろうことは、容易に想像ができることだった。
魔王の正妃モーガンルビーも、いま妊娠しているという話だ。
ロクサリアや他の側妃が生んだ子が死ねば、モーガンルビーの子が魔王の長子となれる。正妃の産んだ子供であるから、その場合は確実にその子が魔王の後継者となるであろう。もしも女の子であった場合にも、婿をとって魔王を継がせればそれで良い。
激情家であると同時に冷酷でもあるモーガンルビーは、「妾の生んだ子が魔王の後継ぎになるなどけっして許さぬ」と、他の妻が産んだ子供の命を虎視眈々と狙っているに違いない。
魔王ヴォルヅガンズがこの城に急いでいるのは、この凶暴な正妃の魔の手から我が子と側妃を守るためでもあるのだ。
その魔王がやって来る前に、ラミアは自らの目で部屋の警備に不備がないかを確認しておきたいのだろう。
「お願いします」
憔悴した顔に緊張の表情を紛れ込ませつつ、ロクサリアはそう頷いてみせた。実のところ、ラミアがそう言い出さなければ、自分の方から部屋の周囲を確認してくれと頼むつもりだった。
相変わらず無表情のままのラミアが、部屋を出て行く。
その後ろ姿を見送り、扉が完全に閉まったことを確認したロクサリアは、いつの間にかスヤスヤと眠ってしまった赤子を揺り籠に寝かせると、懐から肌身離さず隠し持っていたものを取り出した。
それは、かつて彼女が愛する人と共に、滅亡した国の王族の救出に赴いた際に使おうとしていたものだ。<転移>の力を秘めた護符である。
(イーヴァン様……)
あのときは結局、彼女がこの護符を使うことはなかった。愛する人の骸を残し、自分一人だけで脱出することなど、到底できようはずもなかった。
しかし、皮肉にもそのおかげで温存することができたこの護符を、いま彼女は目の前の赤子を救うために使うことができる。
愛する者の命を守るために──。
今しがた部屋を出て行ったラミアの慇懃無礼な態度に、ロクサリアは一度も怒ったことがない。
お互い様だろうと思うからだ。
本心を押し隠し、与えられた立場に相応の振る舞いを演じているのは、ロクサリアも同じである。
ラミアに限らずこの城にいる全ての者に、彼女はかけらも心を許してはいない。
勿論、夫である魔王・ヴォルヅガンズに対しても。
魔王の妻としての今日までの生活は、ロクサリアにとって本当に恥辱と屈辱、そして辛苦と罪責感にまみれたものだった。
それでも彼女が、欺瞞に満ちあふれたこの生活に耐えてきたのは、今日この日のためである。
揺り籠の中で眠る赤子を、ロクサリアはじっと見つめた。
彼をこの世に送り出すために、彼女は今日までずっと“魔王の妻”としての生活に耐え忍んできたのだ。
そしてこの城にいる者が誰も信用できない以上、この赤子を守るためには、ロクサリア自身の手で信頼できる者のところに逃がしてやらねばならない。
護符を赤子の胸の上に置き、ロクサリアは神への祈りの言葉を唱えはじめた。
愛する恋人を裏切り、その恋人を殺した者の妻になるという大罪を犯した自分の願いを、はたして神が聞き届けてくれるものか──。
そのロクサリアの不安は、どうやら杞憂であったようだ。
祈りはじめてすぐに、赤子の体が淡い光に包まれる。
神は、彼女の祈りを確かに聞き届けてくれたのだ。
揺り籠の上には、もう赤子の姿はどこにもない。彼女が指定した者がいる所に転移した。
「──様。どうか、よろしくお願い致します」
小さく、ロクサリアはそう呟いた。
心の中に、今も愛するイーヴァンの顔を思い浮かべながら。
※※※※※
聖騎士イーヴァン・ホーが魔王ヴォルヅガンズに倒され、魔王の妻となった聖女ロクサリアが産んだ赤子も行方知れずとなった。
この後、魔王の妻たちが相次いで出産し、ヴォルヅガンズは正妃モーガンルビーの産んだ男の子を世継ぎとして定める。
自身を滅ぼすと予言された者を殺し、後継者もできて勢いづいたヴォルヅガンズは人間達への侵攻を強め、いくつもの国が滅んで魔王領に併合されてしまった。
ただ、聖騎士のお膝元であるノーザンルビア王国をはじめとする人間側の抵抗も激しく、幾度もの激戦の末に膠着状態に陥った魔王と人間との争いは、やがて休戦のような小康状態へと移行していく。
互いに多くの死傷者を出して戦力が削られた結果、両軍ともに戦力の回復と自領の安定統治に努めざるをえなくなり、自然と大規模な戦いや侵攻が減ったのである。
そしてロクサリアが赤子を逃がしてから十八年。
物語の舞台は、再び”黒い森”に戻る。
魔王を滅ぼすと予言された者が、もう一度その全身に聖鎧を纏うことになるまで、あともう少しのことである。