その1 プロローグ
──かの魔王ヴォルヅガンズの代に、魔王軍の邦土は最大となるであろう。魔王は多くの妃を娶り、たくさんの子を成す。その子らがこの世に多くの災厄をもたらすが、一部の子は魔王を裏切る。やがて魔王は、聖なる魂の騎士イーヴァン・ホーにより滅ぼされるであろう。(ルビアの予言書 第八章三節より)
古の予言書に、”魔王を倒す勇者”として使命されたイーヴァン・ホー。
その命の灯火は、いま聖女ロクサリアの胸に抱かれながら消え去ろうとしていた。
──この戦いが終わったら結婚しよう。
ロクサリアにそう言ってくれた聖騎士の体が、彼女の胸の内で徐々に冷たくなっていく。
ズシン!
重たい足音が聞こえ、ロクサリアはゆるゆると顔を上げた。
豪腕から放った投げ槍で、イーヴァンの体を串刺しにした者がゆっくりとこちらに近づいてくる。
魔王ヴォルヅガンズ──。
三メートル以上はある巨大な体躯が、死にゆく聖騎士と無力な聖女を見下ろしている。
魔王本人がこの城にいたということが、彼女たちにとっては誤算であった。
──滅亡したマクート国の王族の子女が、魔王軍に占領された古城で虜囚となっている。
その情報を得たイーヴァンは、ロクサリアや他の仲間たちと共にこの古城までやって来た。
秘密の地下通路から潜入し、首尾良くマクートの王妃とその子供たちを見つけたまでは良かったが、ただそれはイーヴァンたちをおびき寄せるための罠であったのだ。
大挙して押し寄せる魔王軍の兵に、イーヴァンは王妃と仲間たちを先に地下通路へと向かわせ、自身は地下に続く階段の踊り場に殿として残った。
ロクサリアにも、イーヴァンは仲間たちと共に先に行くように言った。
だが彼女は、愛しい恋人に「わたしもここに残らせてください」とすがったのである。
もしかしたらそれは、”虫の知らせ”というものであったのかもしれない。
イーヴァンと離れるべきではない。ここで離れてしまったら、二度と彼とは会えなくなると、なぜだか強く感じていた。
「わたしは、ずっと貴方のお傍にいます」
そう言う彼女を困った顔で見るイーヴァンに、ロクサリアはさらに言った。
「<転移>の護符が、ちょうど二枚あります。皆が逃げた後、これを使って二人で脱出しましょう」
それでようやくイーヴァンは、ロクサリアが共に行くことを許してくれた。
脱出のために地下通路を使う必要がないならばと、二人は魔王軍を倒しつつ階段を離れた。追っ手の目を自分たちに引きつけ、仲間たちが逃げる時間を稼ぐためである。
イーヴァンは類い希なる勇者であり、神の祝福を受けた<聖鎧>に身を包んだ聖騎士でもあった。顔も含めて全身が聖なる鎧で覆われているが、しかしその姿に全身鎧の騎士のような重厚感はない。
青く輝く神の鎧はイーヴァンの体型を崩すことなくその全身を包み、まるで彼の皮膚や体の一部のように見えた。
その鎧に包まれて、軽快に駆けながら無双状態で敵を斬り倒していくイーヴァンの姿は、人間の騎士というよりもまるで異世界からやって来た仮面の戦士か、この世に具現した神の使徒のようである。輝く剣が、金属よりも硬い魔族の鎧や、幾重にも重なった魔物の鱗を易々と切り裂いていった。
例え彼が手傷を負うようなことがあっても、すぐにロクサリアが<治癒>の奇跡で怪我を治した。一度は壊れたように見える聖鎧が、イーヴァンの怪我の治癒と共にまた元の形に戻っていく。その様子がまた、聖鎧は彼の体の一部ではないかとロクサリアが考える理由の一つにもなっていた。
そうやって襲い来る魔物の軍勢を次々と殲滅していき、このままいけば脱出どころか、この城を制圧することもできるだろうと二人が考えはじめた頃、それは起きた。
彼女たちはそのとき、付近の魔物を全て倒し終え、廊下の一角で一息ついていたところだった。
突然に、暗い廊下の向こうに禍々しい瘴気を感じた。
そちらに目を向けた瞬間、風切り音がして一本の太い槍が飛んでくる。
槍の切っ先は、ロクサリアに向けられていた。
払い落としたり、軌道を変えたりはできない──。
イーヴァンは、そう判断したのだろう。咄嗟に抱きすくめるように彼女に覆い被さってきた。その背を盾として、愛する彼女を守ろうとしてくれたのだ。
聖鎧があれば、傷は負っても致命傷にはならぬであろう──。
その瞬間は、二人ともそう考えていた。
それが、普通の魔物や人間が投げた槍であれば。
イーヴァンの背中に槍が当たった瞬間、全身の骨が折れるのではという強い衝撃を受けたロクサリアは、続いて頬に焼けるような痛みを感じた。
槍の切っ先が、彼女の頬をかすめたのだ。
廊下の壁に当たって動きを止めた槍は、彼女を庇ったイーヴァンを──その心臓を真一文字に貫いて、切っ先が外に飛び出していた。
ゆっくりと崩れ落ちるイーヴァンの体。
聖鎧が、儚い光となって消え失せる。
「イーヴァン様!」
「君が、無事で良かった……。君を守ることができて……」
私は本望だ──。
その最後の言葉は、もうはっきりとした声にはなっていなかった。
涙に濡れる瞳で彼の身体を抱きしめたロクサリアの耳に、ズシンという音が聞こえてくる。
廊下の向こうから姿を現したのは、巨大な黒い鎧武者。
イーヴァンを貫いた槍を投げた者──。
魔王ヴォルヅガンズだった。
数多の魔物を個の力で支配している魔王の投げ槍は、イーヴァンの全身を包む聖鎧をものともしなかった。
自身の手でイーヴァンを──魔王を滅ぼすと予言された者を、その力をつける前に早々に殺すため、ヴォルヅガンズは直々にこの城まで赴いていたのだ。
「予言など、当てにならぬものだな……」
嘲笑するかのように、ヴォルヅガンズが言った。
「もう少し苦戦するかと思っていたのだが」
もはや動かなくなったイーヴァンを見下ろす魔王の体が、徐々に小さく変化していく。聖騎士における聖鎧と同様、魔族も戦いの時には姿を変える者が多い。
その変身を解いたということは、イーヴァンとロクサリアはもう魔王の脅威ではないと判断されてしまったのだ。
巨大な黒い鎧武者に代わって現れたのは、いかにも粗野な顔立ちをした偉丈夫だった。人間のような姿に変わっても、相当に筋骨逞しい大男である。
まるで山賊の首領のような髭面の野卑な男が、動かない恋人の体を呆然と抱くロクサリアをじろじろと品定めするように見てきた。
「聖女ロクサリアか……。噂に違わず美しいな。人間の騎士などには勿体ないわ」
そう言った魔王の目には、下卑た光が宿っていた。
「お前たちのせいで、余は大事な妻を一人失った」
イーヴァンたちが逃がしたマクートの王妃は、無理矢理に魔王の妻にされていたのだ。
「だが、余を滅ぼすと予言されていた者を殺すことができ、さらにお前のような美しい女が手に入るというのなら、交換条件としては悪くない」
いったい何の話かと魔王を見たロクサリアに、ヴォルヅガンズは言った。
「聖女ロクサリアよ。お前は殺すには惜しい女だ。余を愛し、余の妻になると言うのであれば、お前の命は助けてやろう」
(なっ──!)
ロクサリアの身体がわなわなと震えた。
目の前で愛する恋人を殺されたばかりの者に対して──しかも、殺した張本人が発するものとしては、あまりにも非道な言葉。
ロクサリアが反駁しかけたその時、突然に彼女の頭の中に白い閃光が走った。
(あっ……!)
脳裏によぎるのは、昨夜見た夢の光景。そこで聞いた預言の詞。
神が、彼女の夢に現れて授けてくれた奇跡──。
どうして、今まで忘れていたのだろう。
いや──必要になるその時まで忘れているからこそ、天啓なのか。
顔を伏せ、ぶつぶつとロクサリアは小さく祈りの言葉を呟いた。
彼女のその仕草を葛藤ゆえと理解したのか、返答を待つようにしばらく黙っていたヴォルヅガンズが、やがてまた口を開いた。
「余を滅ぼすと予言された者以外は、生かしておいてもたいした脅威にはならぬ。我が妻の一人も、お前が手に入るのならば惜しくはない」
ロクサリアがここで魔王の妻になれば、逃げた彼女の仲間やマクートの王妃は追わぬ──。
魔王にしてみれば、口説き文句としての交換条件なのであろう。
「だが、お前が『はい』と言わぬのならば……お前も奴らも、見せしめとしてここで殺さねばならぬ」
交換条件の次は、脅しの言葉。
きっとマクートの王妃も、こうやって無理矢理に魔王の妻にされてしまったのだろう。
祈りを終えたロクサリアは、ゆっくりと顔を上げて魔王を見た。
「ここで死にたくは……ありません」
彼女は生き続けなければならない。神の言葉に従うためにも。
例えその結果、どんな立場に身を置くことになろうとも。
目の前で散ってしまった恋人を裏切ることになろうとも──。
途切れ途切れに、しかしはっきりと彼女はその言葉を口にした。
「貴方の、妻に……なります」
ヴォルヅガンズが、ニタリと満足げな笑みを浮かべた。野卑な顔にある両の瞳に、好色な光が宿っている。
「ならば、まずは愛の誓いの口づけでもしてもらおうか」
瞬間、ロクサリアの身体が固くこわばった。
それでも一度ぎゅっと目を閉じた後、イーヴァンの遺体から離れてロクサリアは立ち上がる。
おずおずと魔王に近づいてゆくイーヴァンの元恋人。
自身より頭一つ分以上も高い魔王を見上げながら、ロクサリアは爪先立ちになって背を伸ばした。合わせるように、魔王が腰をかがめてくる。
その魔王の分厚い唇に、ロクサリアの可憐な唇が触れた。
「これで、お前は余のものだ」
ギュッと彼女を抱き寄せながら、魔王ヴォルヅガンズが満足そうに言った。
「余にはまだ世継ぎがおらぬ……。いずれ、お前が産んでくれることを期待しているぞ、我が妻・ロクサリアよ」