序章1
走る。走る。走る。
それしか術が無いのだ。
鬱蒼とした人為性のない森の中、熊に追われながらただ逃げる以外の選択肢は無い。
自らが前へ進んでいるのか、左右もわからないような鬱蒼とした森のなか、唯一の道しるべは学長から渡されたコンパス一つだった。
朽ちた木々が横たわり、苔や菌糸類が我が物顔で根を貼り、日を奪った高木等はのびのびと根を張り私の行く手をより困難なものにしている。
息も絶え絶え、足がもつれ転ばないよう前かもわからない先へ進むことで精一杯。
ただがむしゃらに走り続け、気がつけば鼻息も聞こえそうなほど近くにいた熊はいなくなり、高木等も苔等もいなくなり開けた草原に立っていた。
命の危機が去ったのか、それさえも考える余裕もなく崩れ落ちそうな脚を前に運び草原を進んだ。
草原の先には質素な小屋が見え、その近くには小さな畑や草花が見える。
学長から渡されたコンパスはその小屋を指してる。
学長いわく私が会うべき相手はあの小屋にいるという。
疲労困憊の頭では草原の異常性に気がつく余裕もなく小屋に向かって歩いた。
小屋へ近づくと隣の畑に質素な外套を着た人影を見つけ声をかけようとした。
しかし躊躇われる。
その人影はおおよそ人であるかが怪しく、羊の頭をし、やけに大きな骨骨しい手で草を毟っているのだ。
怪物か、人か。
それでも今はそれを頼る他ない。
「あの。」
「あの。あなたが魔王様で間違いありませんか」
羊頭は鷹揚と首をこちらに向け、ただ一瞥しただけでまた草むしりを始めた。
「あの。あなたが魔王様ですか」
ようやく草むしりの手を止めた羊頭は再度首を向け
「魔王であるかは知らん。ただこれをそう呼ぶ人々がいることは知っている」
なんとも釈然としない返事を返してきた。
「学長が、リュネット学長が魔王様を訪ねるように言われ、ここに来ました。あなたに魔術を習いたいのです」
羊頭はリュネット学長について思い当たらないようでしばらく思案するような素振りを見せ、ようやく何かを思い出したかのように口を開く。
「リュネットか。そんな者もいたな。久しい名前だ。そのリュネットがこれを訪ねるようにと。まして魔術を習いたいか。魔術などその学長に習えばよいだろう。」
まるで相手にする気が無い様子でぶっきらぼうに返される。
引き下がるわけにはいかない。極めて深刻な危険を乗り越えやっとたどり着いたのだ。
「そのリュネット学長があなたに習うようにとおっしゃったのです。どうか私に魔術を教えてください」
頭を下げ返事を待つ。
羊頭は特に返事もせず小屋に向かって歩き出した。
仕方なく後をついていく。
小屋の中はこれまた質素な空間だった。
最低限の家具と調理場があるのみ。
魔術の極みに触れられると期待してあのような過酷な旅をし、先で出会ったのは人とも知れない怪物。
大層な魔術道具や魔術書が山のように鎮座している光景を想像していた果にはこの光景。
落胆とリュネット学長への恨みは膨らむばかりだ。
「リュネットがこれを訪ねろといったのだろう。確かに旧知の仲ではあるが、魔術などこれに習う必要性がわからないな。あれはなぜこれを訪ねろといった」
「学長はあなたがこの世界で最も優れた魔術師であると、この上ない存在であるとおっしゃったのです。魔術の本質を知り極めるのであればあなたに習うべきであると」
羊頭はまたもしばらく思案する様子を見せため息をつく。
「リュネットの言い分はわかった。だがリュネットとお前の真意がわからん。仮に魔術を極めて何がしたい。魔術などなくても生きていく術などいくらでもあるだろう」
「確かにおっしゃるとおりです。しかし私には魔術を極めるしか道が無いのです。ですからどうか私に指導をつけてください」
すがるように懇願する。
私には魔術を極めるしか道がないのだ。
何としてでも眼前の羊頭に魔術を習う他ない。
しばらく沈黙が続き、下げた頭の分の痛みが背中と腰に溜まってきた頃、ようやく羊頭は動き出した。
引き出しから古びた便箋とペンを取り出し何やらしたため始める。
しばらくしてそれを封筒に仕舞うと渡してきた。
「これをリュネットに渡せ。魔術を教えるかについてはリュネットの返事を聞いてから考えよう」
渡された封筒を受取り鞄に仕舞い、思案した。
ここまで死にものぐるいで来たのだ。
またあの道中を戻り熊や狼に怯えながらあの道を引き返す。
心の底から鬱屈とするような工程だ。
学院へ帰るどころか森を抜ける前に死に絶えて獣か樹木の養分になるのが関の山だろう。
「しかし、しかし。ここまで来れたことも奇跡のような道のりだったのです。生きてたどり着けたことさえまだ実感がありません。またあの森を引き返し学園に戻るなどできるとは思えません。無事に学長へこの手紙を渡せるかも。ですからどうか今からでも指導をしていただけませんか」
必死にすがりつくが羊頭はろくに取り合う様子もない。
心底落胆していると羊頭は棚から小さな箱を持ち出し手渡してきた。
受け取ると同時に羊頭が私に手を向け何やら魔術を行使し始める。
「森を抜ける必要は無い。街の近くまで送ろう。それなら良いだろう」
その意味を問う前にと私の視界は急激に転換し、気がついたときには街道に立っていた。
わけがわからない。
目前には見慣れた町並みがある。
3ヶ月前に出立した住み慣れた街だ。
呆然としながらも、少なくともあの森を抜ける無謀な旅路をしなくても帰ってこれたことだけはわかった。
望む結果を得られた無かったことに落胆しながらも疲弊した体を休めたい一心で寮に戻ることにした。
3ヶ月ぶりの自室だ。
風雨にさらされず、些細な物音に怯えることもない。
旅路の疲れに身を任せ間もなく深々と眠った。
翌朝学長室を尋ねる。
「学長。帰りました」
「ああおかえり。観たところ五体満足で済んだようだね」
「冗談じゃありません。何度死にかけて傷まみれになったことか」
「てっきり腕の2本や3本くらいなくなって来るかと思ったのに。賭けに負けたじゃないか」
学長はかつかつと笑いながら物騒なことをいう。
冗談じゃない。人の生死に何を賭けていたというのか。今すぐ目の前のババアを蹴り飛ばしたい一心を堪えるので精一杯だ。
「それで、あれは、魔王はなんて言っていた。指導はつけてくれそうか」
「それなんですが、取り合ってくれませんでした。ですが手紙を渡されて学長に渡すようにと言われています」
羊頭から渡された手紙を学長に渡す。
学長は手紙を斜め読みし封筒に戻してテーブルの上においた。
「この手紙の他に何か受け取ってないか。あればそれもくれ」
「小さい箱を受け取っています。これは何なんですか」
「これは魔道具の一種だ。ペアになっている魔道具同士で連絡が取れる」
学長は箱を開けて何やら操作し始めた。
しばらくあれやこれやして一段落したようで箱を閉じた。
「明日の昼にまたここに来なさい。そのときに今後のことを検討しよう」
「はあ。わかりました」
結局手紙の内容も箱で何をしたのかもわからないまま学長室を後にして、普段通り授業に戻ることになった。
あれだけ死にそうになってやっとの思いで帰ってきたというのに、何一つわからないままである。
学長といいあの羊頭といい、一体なんなのか。
3ヶ月も授業を休み、這々の体で冒険をしたというのに何一つ進展している予感がしない。
森に入った初日からそうだが、すっかり旅前の期待感も消え失せ後悔ばかりが肩にのしかかる。
授業に身が入らないままその日もまたぐったりと寝込むのだった。