畦道、そして、暗闇
また、ここへ来てしまった。私たちは呪いのようにこの場所へ引きずり込まれてしまう。
薄暗い道に蛙の合唱と雨音が混ざり、静かな夜を作り上げている。
カン、カン、という音がどこからともなく響く。やがてそれは私たちを囲んだ。
小さな、仮面の子供たちが背の高い竹馬を操っていた。私たちを器用に避けながら、飛んだり、跳ねたり、回ったり、と、現実ではありえない動きで、私の目を楽しませてくれる。
俯いていた顔が自然と上がった。
彼が振り返る。
「ここもにぎやかにしてみたんだ」
レインコートの裾から灰が流れていく。それを目に映しながら、私はそのことに触れない。
「どうして竹馬なんですか?」
「君が驚いていたから」
懐かしい話に目を細める。
あの日、私は軽自動車の助手席に座っていた。左手の薬指には指輪が光っている。
「そんなに緊張した?」
「それはもう」
私は大きく息を吐く。彼の両親への挨拶を済ませた帰りのことだった。
私は呼吸を整えながら、窓の外を見る。田んぼや畑、平屋の家など、行きは緊張して見えなかったものが見えてくる。都会に生まれ育った私にとって、彼の故郷は物珍しかった。
この辺りで一番大きな建物が見えてくる。小学校だ。そのグラウンドの大きさに、私は驚き、そして、そこで遊ぶ子供たちの姿に目を見開いた。
「竹馬」
「どうしたの?」
「今の時代にもあるんですね」
感嘆した私に、彼が声を上げる。
「竹馬で遊ばなかった?」
「はい、初めて見ました」
今度は彼が感心したように息を漏らした。
やがて、雨が降り出す。
軽自動車は畦道を徐行する。大きな通りに面した。
坂道だった。雨で視界が悪かった。その運転手は言い訳がましく喚いた。
トラックが軽自動車を跳ね飛ばした。
竹馬に乗った仮面の子供たちはいつの間にか姿を消していた。
私たちはあの日と同じ暗転した世界にいる。
闇の中に、私と彼の姿が浮かび上がる。彼の左手で燃え盛る松明が、暗闇に降りしきる雨を映す。それが、この世のものとは思えないほど、美しい。
彼が暗闇の中に、腰を下ろす。
「あと三十分くらいかな」
私たちは、今まで三度、この暗闇で静かに別れの時を待った。だけど、今回は違う。
「どうして、この街を造ったんですか?」
私の問いが暗闇に吸い込まれていく。沈黙が訪れる。
答えに詰まったのか、答えを探していたのか。私には分からない。
彼は前を見つめたまま、声を発する。
「君が震えていたから。君が泣いていたから」
そして、私を見上げた。
「僕は君に笑ってほしかった」
この空間は私たちの理解を超えていた。暗く果てのない闇だった。ただ、雨と私たちだけが存在していた。
私たちは歩き、叫び、助けを求めた。何も起こることはなかった。
時計は意味をなさず、電波も届かない。空腹を感じることもなく、雨の冷たさに震えることもなかった。それがなおのこと恐ろしかった。
ことの異常さに、私の心は蝕まれていった。足を動かすことさえ億劫になった。
私はその場に蹲る。彼は私を元気づけようと様々な言葉をくれた。暗闇の中、明るい声が空しく呑み込まれていった。
どれくらいそうしていただろう。その空間に変化が起こった。白い人影が現れたのだ。
黒い仮面をかぶったそれらが手に掲げた松明は、どこまでも神秘的で私の心を捕らえた。
私は一言呟いた。
「綺麗」
彼の動きは速かった。白い影に飛びつき、抵抗するそれを振り払い、松明を奪い取った。なおも縋りつく影を蹴飛ばし、踏みつけた。やがて、それは灰になり、形を失った。ほかの影は何事もなかったかのように、果てのない闇に消えていく。
あれほどまでに獰猛な彼を、私は初めて見た。
彼はすぐにその松明の使い方を理解したようだった。
口の中に火を含み、吐き出す。そうすることで願いが叶うことを知ってしまったのだ。
元の世界に帰ることを、私たちは何よりも願った。だが、それが叶うことはなかった。それだけは叶わなかった。それ以外のことはすべて彼が望んだ通りになった。
雨を避けるための家を作ってくれた。二人の思い出の地を作り、私を笑わせようとしてくれた。寂しいと言った私のために、人に似た仮面の何かを作ってくれた。
そのうち、彼は口から灰を吐くようになった。それでも彼は止まらなかった。
私は悟った。彼は私にすべてを捧げてくれる。その命でさえも投げ打とうとしている。
止めることはできなかった。彼の顔を曇らせる気がした。私は、私に笑顔を向ける彼の隣にいたかった。
「だけど、光は私を迎えに来ました」
私の話を静かに受け止め、彼は頷く。
光に飲み込まれ、目を開けた私は、病院にいた。彼は三日前にこの世を去っていた。
「あなたは私のためにたくさんのものを捨ててくれました」
湿ったスカーフに手をかける。一つ、息を吸うと、私はそれをほどいた。
「だから、今度は私が捨てます」
私の首には一本の赤黒い痣が走っている。彼が息を呑んだ。
梅雨の街の都市伝説だ。雨降る梅雨の日に命を落とせば、この街へ来ることができる。その話を、彼は笑って茶化した。だから、私は信じた。
縄で己の首をくくった。
「今回は失敗してしまいましたが、次は必ず」
私は笑顔で言った。
恐怖に負け、ずっと決意を固められなかった。だが、今回、ここへ来て、私は決断できた。それが誇らしかった。
「あなたの隣にいたいのです」
彼からの言葉はなかった。その代わり、彼は黙って、松明を地面に落とした。白い仮面でそれを見つめると、彼は力いっぱい火を踏みにじった。何度も何度もそうした。
火が、消えた。
暗闇に私たちの姿だけが浮かび上がる。荒い息を整え、彼が口を開く。
「君には光が見えるだろう?」
彼の背後に、うすぼんやりとした光が浮かぶ。それはゆっくりとしたスピードで、私に向かってくる。
私の視線を追って彼が振り返る。そして、もう一度私を見て、言った。
「だから、さよならだ」
明るい声だった。たまらく憎らしかった。私の決意を切り捨てるような言葉に、怒りにも似た感情が溢れ出す。表情を隠す白い仮面に苛立ち、私は傘を放り投げる。彼の仮面に手を伸ばす。彼が身を引く。私の方が速かった。
仮面が外れた。
現れた懐かしい顔は、灰の色をし、ひびが入っていた。そして、唯一、生気のある瞳は潤んでいる。
「私はあなたの隣にいたいです」
「僕も君の隣にいたいよ」
光は無慈悲に私に歩み寄ってくる。もう一度、私の思いを告げようと、深呼吸をした。だけど、彼は私を抱きしめた。
レインコートの隙間から、灰が零れ落ち、私の肌に触れる。彼は私の背に手をまわした。私もそうした。だが、互いに強く抱きしめることはできない。そうすれば、彼の身体は崩れてしまう。
もう、光はそこまで来ている。
彼の震えた声が聞こえた。一生懸命、一言ずつ、彼は私に伝えた。私はその言葉を受け入れることができず、返事をしなかった。
光が私をさらった。