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雨のワンダーランド  作者: 針間有年
2/6

マーケット

 展望台を降りると、そこはマーケットエリアだ。

 ヨーロッパを思わせる赤茶色で統一された世界の地面は石畳でできていて、雨に濡れたそれは光を反射し、ぼんやりと明るい。

 雨の中、野外テントを張った露店が並んでいる。その屋根は赤、黄、青、と様々な彩りを見せ、目を楽しませてくれる。

 露店の店主もそうだ。色のついたレインコートを羽織っている。彼と同じ白い仮面をかぶったそれらは、表情もなく、客から無言でお金を受け取り、無言でものを渡している。

 あたりを見渡すと、賑わい、というほどでもないが、それなりに人がいる。

「お客さんの数、増えましたね」

「その方が、寂しくないだろう」

 それは、彼のためか、私のためか。おそらく後者なのだろう。

 私は何も言えずに頷く。それに触れることなく、彼は明るい声で、大げさに手を広げて見せる。

「もう知ってるかな? 新しいパン屋を作ったんだ。お客さんにも大人気! どうかな?」

「いつものところで」

 遠慮がちに言うと、彼は肩を落とす。

「やっぱり、プレッツェル?」

「やっぱり、プレッツェルです」

 答えは変わらないというのに、彼は次々と私が好きといったものをこの街に生み出していく。それはきっと、新しいものが好きだった私を喜ばせるためだろう。そんな自惚れが私を満たしていく。

「じゃあ、行こうか」

 彼はあっけらかんと言った。私たちは横並びに歩き出す。

 マーケットには様々なものが売っている。多くは食べ物で、サンドイッチ、ケバブ、ジェラートなど、どれもおいしそうだ。

「ねえ、あのぬいぐるみ可愛くない?」

 彼が指さしたのは、毒々しい色をした妙にリアルな蛙のぬいぐるみだった。

 私は眉をひそめる。

「あまりセンスがいいとは言えませんね」

「うわ、やっぱりそうなんだ。売れないと思ったよ」

「あっちの方がお土産として嬉しいです」

 私は、ガラス球に閉じ込められた街を指さす。それは梅雨の街を模したスノードームのようなもので、中には雨が降っている。きらきら、と輝くそれは幻想的で、いつまでも眺めていられそうだ。

 彼は顎に手をやる。

「あれはお客さんの提案だ」

「そうだと思いました」

「それはどういう意味かな?」

 私は笑う。彼は不服そうに唸った。

 一つ、また、一つ、傘の数が減っていく。露店も少なくなり、赤茶色の景色を彩るのは私の薄緑の傘だけになった。

 レンガ造りの高架橋が見えてくる。その向こうにある、赤いテントのプレッツェル屋が私たちの目的地だ。

 薄暗い橋の下を抜けると、赤いレインコートを着た仮面が私たちに視線を移す。それは、保温ケースに入ったプレッツェルを二つ包み始めた。

 私はポシェットから財布を取り出す。

「僕が払うよ」

「私の分は私が払います」

「仕方ないな」

 彼はあっさりと身を引く。

「ここで君が折れないことは僕が一番知ってるよ」

 互いに一つずつプレッツェルを買った。それを受け取る彼に、私は傘をかける。陰った視界に気づいたのか、彼が私を振り返る。

「レインコート、着てるから大丈夫だよ」

「プレッツェルが濡れちゃいます」

「それはそうだ」

 彼はプレッツェルを私に預け、左手に松明、右手に私の傘を握った。

 私たちは一つの傘の下、肩を並べて高架橋の下に潜る。名残惜しさに、わざと歩調を緩めた。

 橋が雨を遮る。

「ありがとう」

 彼は傘をたたみ、壁際に立てかけた。

 私たちは、いただきます、と声をそろえ、紙に包まれたプレッツェルを取り出す。雨音を聞きながら、私たちは黙々とプレッツェルを食べた。それはあの日のように、おいしかった。

 

 大学一年生のころだ。夏休みを使い、友人とドイツ旅行を計画した。ドイツ語どころか、英語すら危うい私たちはもちろんツアー旅行を申し込んだ。

 降り立った都市はフランクフルトだった気がする。統一感のある都市の風景に私は目を輝かせる。高い建物に石畳、大きな広場に集まる市場は、私の心を捕らえた。

 私はあまりに模範的な観光客と化し、シャッターを何枚も何枚も切る。気づけば友人とはぐれていた。

 見慣れない土地は私に方向感覚を失わせた。地図すら役に立たない。目に涙を浮かべた私に、酒臭い男性たちが寄ってくる。何か言われているが、異国の言葉で意味が分からない。あまりの恐怖に、私は逃げることもできず、パニックに陥った。

 頭が真っ白になった私の手首を誰かが掴んだ。思わず身体が跳ねる。

「行こう」

 日本人の青年が、私をその場から引き離す。後ろから男性たちのはやし立てるような声が聞こえた。彼はそれを無視し、私を連れ、前へ前へと歩いていく。

 しばらくそうしただろう。彼が私から手を放す。

「大丈夫?」

 聞きなれた日本語にひどく安心して、涙が止まらなくなった。取り乱した彼に、私は何とかお礼の言葉を絞り出す。

 こぼしていた嗚咽が引き、呼吸が整って、気づいた。彼は私と同じツアーに参加している青年だった。友人や家族同士での客が多い中、彼は一人だったから、少し浮いて見えたのだ。

「怖かったね」

 私は反射的に謝る。彼を巻き込んでしまったことがひどく申し訳なかった。だけど、それに対して、彼はなぜか胸を張り、こう言った。

「大丈夫。僕も怖かったから」

 あまりのしたり顔に私は思わず笑ってしまった。

 どうやら、中心地から離れた場所へ来てしまったようだ。彼とともにスマホをにらみながら、元居た場所への道を探る。

 人のざわめきが聞こえ、私たちは顔を見合わせる。中心地近くまで戻ってきたようだ。彼が手を出したので、私は小さくハイタッチをした。

 微笑んでいた彼が、突然声を上げた。私は驚き、びくりと身体を震わせる。

「すごいものを見つけたよ」

 彼は下手なウインクを見せ、私に目配せをした。彼の視線を追うと、そこには赤い屋根の露店があった。

 彼は小走りにかけていき、あっという間にプレッツェルを二つ買ってくる。

「あのお店、テレビで見たんだ。知る人ぞ知る名店って」

 その一つを私に手渡そうとする彼を制する。

「いくらでした?」

「いいよ、僕のおごり」

「いくらでした?」

 その問答を三回続けて、ようやく彼は折れてくれた。私はウエストポーチから財布を取り出し、彼にお金を払う。

「かっこよくおごらせてくれたらいいのに」

「そういうわけにはいきません」

 買い取ったプレッツェルを私は受け取る。二人で、いただきます、と笑いあい、私たちはそれを口にした。

 あたたかくて、塩気がきいていて、とても、おいしかった。

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