入口
しっとりとした空気が肺を満たす。今年は来ることができた。
こんにちは。あなたが造るワンダーランド。
*
そろそろ、今年度版が出ているはずだ。
薄曇りの空の下、私は書店に向かう。自動ドアが開く。ひんやりとした空気が流れてきた。どうやら、冷房をかけ始めたらしい。
いつも立ち止まる文庫コーナーを通り過ぎ、旅行ガイドの棚を目指す。
時期が時期だ。それは簡単に見つかった。
梅雨の街、と書かれたガイドブックを一冊、手に取る。表紙は去年と変わらず、展望台からの風景だ。
裏表紙が折れていることに気づいた私は、手に持った本を戻し、棚の後ろのものと交換した。レジで会計を済ませる。シールの貼られたそれをエコバックに入れた。
一人暮らしのアパートに帰り、首に巻いたスカーフを取り去る。解放感にふっ、と息をついた。ここには人目などない。
私はベッドサイドに座り、ガイドブックを開く。昨年はどんなエリアができたのだろう。高揚と胸の痛みが混ざり合う。きっと、私好みのエリアができているに違いない。
梅雨の街。それは梅雨の時期だけ開くワンダーランドだ。
といっても、北海道から沖縄、さらには世界中のどこにも存在しない。そういった理の外にある世界なのだ。
都市伝説のような話だが、梅雨の街はカメラに写るし、日本円も使える。なんならATMまである。
そのため、幻想的な世界、というより、観光地、としての印象が強い。雑誌、テレビ、インターネット、様々な媒体で紹介されている。
行き方は簡単だ。雨降る梅雨の日に外を歩けばいい。だが、確実にその街にたどり着く方法はない。
ガイドブックによれば、一日に百人ほどが梅雨の街に招待されているらしい。だが、その招待の基準は分かっていない、と記載されている。彼ですら分からないのだから、私たちに分かるはずもない。
梅雨の街ができて十年が経つ。私でさえ、三度しか行けたためしがない。
ベランダの手すりを叩くその音に顔を上げる。カーテンを開けると、雨の線が見えた。
私はスカーフを巻きなおす。肩掛けポシェットに財布とスマホだけを入れて、玄関に向かう。パンプス型のレインシューズに足を通し、トントン、とつま先を打った。
薄緑の傘を手に取り、私は家を出た。
午後八時の住宅街は寂しい。赤ん坊の泣き声や、家族団らんの笑い声が、追い打ちをかける。
それらを遮断するように、私は傘を打つ雨の音に意識を集める。
ぽつぽつ、や、しとしと、といった文字では表せない音色が頭上から響く。雨粒が砕け散る刹那の、強く、 切ない響きに耳をすませる。
私はわざと深い水たまりに足を踏み出した。
いつもは不快でならない感触だが、この時期は愛しく思える。水たまりがあの街とつながっている気がするのだ。
あてどなく、街灯と街灯を渡り歩く。
ぞわり、と肌が粟立った。この感覚は知っている。私は歓喜した。
目の前に真っ白な光が現れる。それは私を覆いつくした。身体が軽やかに浮き上がる。
ああ、今年は彼に会えるのだ。
*
光が薄らいでいく。
地に足が付く感触とともに、くらんだ目がさえていく。
私は門の前に立っている。
人ひとり分の幅の門、それは水から構成されている。打ち付ける雨に波紋を広げ、輪郭を揺らす。私はそれをくぐり、街に足を踏み入れる。
僅か五メートル四方の空間がこの街の入口だ。そこにあるのはいくつもの水たまりと、小さなあずま屋だけ。
彼はいつも通り、あずま屋の元、木製の椅子に座っていた。
ひざ丈の黒いレインコートに袖を通し、顔には真っ白な仮面をつけている。目鼻口の存在しない、白く塗りつぶされた仮面だ。そして、彼の左手には鮮やかな赤い炎が灯る松明が握られている。
「こんにちは。松明さん」
私の呼びかけに、彼は立ち上がり、レインコートのフードをかぶる。
「その呼び方、ガイドブックにでも載ってたの?」
「その通り」
「道理で最近、そう呼ばれるわけだよ」
彼はくすくす、と笑いながら、あずま屋から顔を出す。
彼の手に握られた松明は、雨の中でも揺らぐことなく燃え盛っている。
「素敵なスカーフだね」
「ありがとうございます」
私は首元のそれに触れ、笑って見せる。展望台から見える景色に目を移した。
「新しいエリアを作ったらしいですね」
「うん。図書館エリア。いかにも君が好きそうだろう?」
「さすが。よく分かってますね」
「行く?」
彼がわざとらしく小首をかしげる。可愛らしいその仕草に小さく吹き出しながら、私はその誘いを断る。
「いつもの場所で」
「分かったよ」
彼はやれやれ、といった風に手を広げてみせた。
展望台から、一つ目のエリアに向かうには階段を下るしかない。百段あるその階段を降りるのはなかなかに骨が折れる。だけど、私は嫌いではなかった。
その階段は石造りで、中に鉱石が入っている。それが雨に濡れ、独特の光を放つのだ。
「見とれてると踏み外すよ」
彼の言葉に私は口をとがらせる。
「三年前みたいにですか?」
「三年前みたいにですよ」
彼は楽しそうだ。だが、それを伝えるのは声と動きだけ。彼の表情は仮面に隠されて見ることができない。
「まあ、だけど、階段が不便って声はお客さんから、上がってるんだよね」
「そうでしょうね」
「よし、エレベーター作っちゃおうか」
彼はひらめいたとでもいうように声を上げ、松明の火をひとかけらつまんだ。そして、それを口に含み、ふっと吐き出す。
湿った空の下、赤い炎が広がる。それは瞬く間にエレベーターを思わせる四角い箱に変わった。
松明の火は彼の願いを叶える。
「さあ、乗って」
それはどこかの空港で見たような上下左右透明の箱だった。
私が足を踏み入れると、さざ波が起きる。柔らかな感触だ。門と同じように、水でできているらしい。
「綺麗ですね」
「そうだろう」
彼が長靴で踏み込むと、さらに大きな波が立った。
中は雨の匂いに満たされている。その湿った匂いはこの街にいることを強く感じさせた。
彼が、控えめに設置された青いボタンに触れる。ポーン、とピアノの単音が響き、エレベーターが動き始めた。
透明の箱が地上に向かって降りていく。
私は街を見渡す。ずいぶん大きくなったものだ。美しい世界、それでいて、とても歪な世界だ。
「満足かな?」
彼の問いに、私は大きく頷く。
「満足です」
「嬉しいな」
彼は照れたように頭に手をやった。感じた軋みを忘れるために、私は彼に意地悪をしてみる。
「一緒に街を見ませんか?」
「……。僕はいいかな」
彼のくぐもった苦笑が仮面の下から聞こえた。高いところが苦手なのは昔から変わらない。
ポーン、と再び音が響き、エレベーターが止まる。
「行こうか」
彼がエレベーターの扉を押さえ、私を外へ導いた。