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三日間の恋人

作者: 浅井基希

(1)

「突然ですみません! これ、受け取って下さい!」

 冬の朝、藤野真尋は通っている大学の前で見知らぬ女子高生から紙袋を差し出された。

 着ている制服から、大学に隣接している付属高校の生徒であることはわかるが、真尋には面識がない。そう断言できるのは、その生徒が美少女と呼んでも何ら差し支えがない目立った容姿をしていたからだ。

 長い睫に彩られた大きな瞳が印象的で、少し彫りが深い顔立ちをしていて、紅潮している頬がより可愛らしい印象を強くする。艶のある長い髪は軽やかに微かな冬の風になびいていた。

 同性の真尋でも一瞬見とれるくらい、魅力的な少女だった。

「え? 何……ですか?」

 真尋はいきなり差し出された紙袋が一体何を意味するものなのか理解できず、思わず敬語で女子高生に問いかけた。

「あの……バレンタインのプレゼントです」

 真尋はそう言われて今日が二月十四日、バレンタインデーだった事を思い出す。真尋はこういったイベントに興味が全くないのですっかり忘れていた。

 しかし、バレンタインデーといえば女性から男性へと想いを伝えるのが通例だろう。真尋は女性だ。最近では友人に渡す友チョコもあるが、目の前の女子高生と真尋は友人ではない。

「誰かに渡しといて欲しいとかですか?」

 真尋はそう言ったものの、バレンタインの伝言を頼まれるような知り合いはいない。

「いえ、藤野さんにお渡ししたくて」

 女子高生がそう言いかけた途端、高等部の予鈴チャイムが鳴る。

「私、高等部二年の佐倉結季です! 失礼します!」

 女子高生は慌てて名乗った後に紙袋を真尋に押しつけ、一礼をして高等部の校舎へと走って行く。

「ちょっと待って――」

 真尋の呼び止める声も届かず、渡されたプレゼントがむなしくその場に残った。

「これを、どうしろと……」

 真尋は一人呟き、女子高生が去った方向と紙袋とを交互に見るが、どうすることも出来ず小さなため息をつき、紙袋を手にしたまま大学の校舎に向かうのだった。


 真尋は講義の間、手渡された紙袋が気になっていた。バレンタインのプレゼントだと言っていたが、真尋にそれを渡したということによって導き出される答えを無意識のうちに感じ取ってしまい、開封する勇気が出てこない。

 手渡した女子高生――佐倉結季が真尋の名前を知っていた事も引っかかっている。どこかで会っているのかもしれない。しかし記憶にはない。そもそも、何故あれほどの美少女から自分にバレンタインのプレゼントが渡されたのか――取り留めのない考えはまとまらず、講義に身が入らないまま昼休みになってしまった。真尋は紙袋を手に食堂へと向かう。幸い、真尋にはこういう事を相談できる相手に心当たりがあったので、いつもの場所に向かうことにしたのだ。

「あれ、どうしたの深刻そうな顔で」

 真尋の顔を見るなり鋭く見抜いた人物は、いつもと変わりなく窓際の席で昼食を食べていた。テーブルには他に誰もいない。ゆっくり話ができそうだ。

 マイペースに食事を続けている友人は桂木恭子という。真尋とは大学の入学式に声をかけられてからの仲である。

 さっぱりとした竹を割ったような性格の持ち主で、気軽な付き合いが出来る間柄だ。そのキャラクターで友人も多く、面倒見もよいので慕われていて、臆することなく女性好きを公言している人物でもある。本人曰く「女の子が好きだから女子校に入った」そうである。

「……プレゼント渡されて」

「ああ、バレンタイン」

「私、女なんだけど」

 普通ならあげる立場だろう。真尋は今まで誰にもあげたことは無いが、世の一般的な風習ではあげる立場のはずだ。

「何かおかしい?」

 恭子は貰うことが当然だと言わんばかりの答えを返し「私も貰ったよ」とラッピングされた箱をいくつかバッグから取り出して見せる。

「こういう事態が初めてで困ってる」

 真尋は恭子の向かいの席につき、紙袋をテーブルに置いた。

「あ、真尋って受験組だっけ」

 この大学は付属高校からの内部進学と、他校からの受験組とに分けられる。人数はエスカレーター式の内部進学の方が圧倒的に多く、外部からの受験組はそれだけで珍しがられる事も多い。

 内部進学の恭子はそれでか、と一人で納得している。

 恭子によると、学校に伝わる風習でお世話になった先輩や先生にバレンタインのプレゼントを贈るというのだ。

 それ以外にも仲の良い友達や、勿論好きな人にも贈るという。その好きな人も性別を問わずに自由に告白をするとのことだ。

「流石、女子校というか……」

 大学に入るまでずっと共学だった真尋にとっては、軽いカルチャーショックだった。共学の時代もバレンタインデーはそれなりに盛り上がっていたような覚えはあるが、真尋 自身はこういったイベントはただ面倒なだけだと思っているので縁遠い。

「最近は友チョコとか定着してるじゃない」

 そう言いつつ恭子は真尋がテーブルに置いた紙袋を何のためらいもなく探り出す。なかなかの傍若無人振りだが、真尋はあまり気にとめていない。むしろ開ける勇気のなかった真尋にとって、ある意味ではありがたい行動だった。

「この包装紙……あの有名パティシエの店だよ」

 ラッピングを見て恭子が驚く。

 名前を聞くとメディアでもよく紹介されている有名どころ――そういった情報にはあまり詳しくない真尋でさえ名前を知っているくらいの店だった。

「後は――手紙が入ってたよ」

 恭子から「どうぞ」と手紙を渡された真尋は封筒を開けて中身を読む。内容は――ラブレターそのものだった。

「本気みたいなんだけど……好きです。だって」

 突然のプレゼントを詫びる一文から始まるその手紙は、とても丁寧で好感すら持てる内容だった。

 少し癖はあるが、丁寧に綴られた綺麗な文字の手紙だ。真尋の事が好きなのだという気持ちも十分に感じ取れる。何度も読み返しているうちに気恥ずかしさで真尋の頬が紅くなる。

「おお、マジ告白だ。どうするの?」

 恭子は興味津々といった感じで真尋に聞いてくる。その言葉で真尋が恭子の方を見ると、いつの間にか勝手にラッピングを解き、チョコレートを口にしていた。

「ちょっと――いつの間に!」

 どうやら真尋が手紙を呼んでいる間に素早く開封したようだった。真尋は慌ててチョコレートを取り返す。いくら何でもやりすぎだろう。

「いいじゃない、減るもんじゃなし」

「明らかに減ってるでしょうが! 返せなくなったじゃない」

「突き返すつもりだったの? それはダメだよ」

「貰う理由がないのに受け取れないでしょう」

「相手には渡す理由があるんだから、気持ちを大事にしてあげないと」

 恭子は受け取れないと主張する真尋に対して、容赦のない駄目出しをする。

 バレンタインとは言え、告白するにはかなりの勇気を必要とするし、それが突き返されたらその気持ちが踏みにじられる。恭子に――勝手に他人のプレゼントを食べたにもかかわらず――もっともな意見を言われてしまった真尋は言葉に詰まる。

「それに、このチョコもう返せないよ」

 恭子は真尋が抱えているチョコレートの包みを指さす。

「恭子が食べたもんね。勝手に」

 真尋は少し棘のある言い方をする。

「それもあるけど、これ見て」

 恭子は真尋の嫌味を意に介さず、おもむろにバッグから取り出した雑誌をめくり特集ページを見せた。

 そこには貰ったチョコレートと同じ物が紹介されていたのだが――限定五十箱、三万円というとんでもない代物だった。

「さ、三万!?」

 真尋は値段に驚いた。三千円ではなく三万円。一人暮らしの真尋の食費約二ヶ月分だ。

「たかがチョコに……諭吉が三人……」

 真尋は思わず呻いてしまったが、ケチなのではない。一人暮らしで今時珍しい苦学生なので、あまり懐事情が良くないだけだ。実際、今月はあと一万円弱で食費を含めた諸々の生活をしなくてはいけないのである。

「まあ、それだけ本気なんでしょうねぇ」

 恭子は飄々とした口調でかなり重大な宣告をする。

「……もしかして、値段わかってて食べた?」

「何となくは」

 悪びれない恭子の答えに真尋は大きくため息をつく。ほんわかとした満面の笑顔なのがまた小憎らしい。

「……まあ、食べたもの返せっても無理なことだし」

 諦めたように真尋が呟く。戻せと言った所で恭子の胃の中から出すわけにもいかないのはわかっている。

「そうだよ。ありがたく受け取ろうよ」

「付き合う訳じゃないんだよ?」

「貰っておいて、断ればいいんだよ」

「こんな高い物を貰いっぱなしって――私の気が済まない」

 生活がギリギリとはいえ他人様から受けた恩は返さなくてはならない。今回の場合は恩ではないのだが、それでも真尋の信念に反する。変なところで融通の利かない性格をしていると自分でも思う。

「それなら、ホワイトデーにお返しすればいいじゃない」

「ああ、ホワイトデーね……でも、同じ金額の物なんて返せないよ」

 何しろ真尋は金銭的にあまり――というか、かなり余裕がない。三万円のチョコレートと同等の物を要求されても無理な話である。それに確か「ホワイトデーのお返しは三倍」といった風習が無かったか――「三万円 ×三倍=九万円」という数字が真尋の脳内で回る。決してケチなのではない。ただ、生活がギリギリなだけだ 。

「何が良いか本人に聞けばいいよ。佐倉の事だし、そんなに無理な要求はないと思う」

「どうして知ってるの?」

 恭子にはまだ相手――佐倉結季の事は話してないはずだと真尋は疑問に思う。

「へ? ああ、後輩から目撃情報が沢山入ってきてる」

 恭子は甘い物を食べ足りなかったのか、自分が貰ったというプレゼントを開封して食べている。やっぱりさっきの方が美味しかった。と、手にしているチョコレートの送り主に対して幾分失礼な感想を漏らしながら、テーブルに置いてあるスマートフォンを指さした。

 今もまた何かの着信があったようで、着信音が短く鳴った。

「恭子の情報網、凄いな……」

「後輩が気を利かせてくれるから。それに相手が佐倉となれば目立つでしょ」

「有名なの?」

「簡単に言えば、高等部のアイドル」

 恭子はさらっと言い放つと話を続ける。

 高等部二年の佐倉結季といえば、在校生なら知らない人はいない位に有名で、容姿、性格、頭脳、家柄、その他どれをとっても文句の付け所がない。特に、その容姿は特筆すべき所であり、噂では芸能界へのスカウトが途切れることはないという。

 そして学年を問わず人気があり人望も厚い。今日受け取るチョコの量は、学園の記録を作るのではないか――

「待った。なにそれ? 完璧超人な訳?」

 真尋は恭子の説明を慌てて遮る。話を聞いているとあまりにも現実離れをしている。

「いや、勿論欠点もあるよ」

「何?」

 真尋はテーブルに乗り出す。そこまで評判の良い人物の欠点とは一体何なのか――少々下世話だが興味深いことだ。

「貧乳」

 何とも短い恭子の一言だった。真尋はガクリとテーブルへ突っ伏す。大多数の女子にとっては問題なのだろうが、正直なところ真尋にはどうでも良い事である。

「で――どうしてそんな子が私に告白なの?」

 真尋は気を取り直してテーブルから顔を上げ、新たに出てきた疑問を口にする。

 確かに可愛かったし、礼儀正しかった。それは丁寧に綴られた手紙からも察する事が出来る。人気者だと言われても納得に値する。それならば、何故それほど目立たない普通の人間である真尋に告白なのだろう。

「自分で気付いてないの?」

 恭子は不思議そうな顔で真尋を見る。

「なにが?」

 何を気付いてないと言うのだろうか、真尋は首を傾げた。

「真尋はモテるよ。顔もスタイルも良い。ついでに受験組だからウチの学校では目立つ」

「な……嘘でしょ?」

「嘘ついてどうするの。そもそも私が入学式で真尋をナンパしたのも好みのタイプだったからだし。年下じゃなければ押し倒……じゃない、猛アタックかけてたのに」

 恭子はあっさりと言葉にしているが、面と向かって誉められると恥ずかしい。真尋の顔がまた紅くなる。女性好きを公言している恭子が危うい台詞を入れてくる辺り、妙なリアリティまで出てくる。

「真尋は自分の事に疎いよね。磨けば光るのに。って、磨かなくてそのレベルなのも凄いけどね」

 誉められているのか、呆れられているのかよくわからない表現だった。確かに真尋は身だしなみを必要最小限で済ませている。メイクも必要最小限に済ませているし、服にも金額をかけるタイプではない。流行をやたらと追ったりはせず、身の回りは長く使えるシンプルな物ばかりが揃っている。

 髪型にも無頓着――数ヶ月に一度ショートカットにしておき伸ばしっぱなしで放置、肩に近い長さになってきたらまたバッサリと切る。現在はそろそろ切りに行かないといけない長さになりつつある。ロングの方が効率的なようにも思われるが、ロングだとシャンプーやコンディショナー代が意外な出費となる。これもひとえに生活がギリギリな中での工夫である。

 客観的に見ても世間一般で言われるところの『磨いている』と言うにはほど遠い存在であることは自分でも理解している。それなのに真尋は人気があると恭子は言っているのだ。

「変に飾ってない素朴さが受けるんだよね。良く『あの素敵な人誰なんですか』って聞かれるよ」

 恭子は真尋を上から下まで眺めて「年下じゃなければなぁ」と一人で残念そうに呟いている。

「じゃあ、聞いてきた中に、あの子も混ざってたとか?」

 真尋は恭子の呟きを無視して、疑問を口にする。佐倉結季が真尋の名前を知っていた事を不思議に思っていたが、恭子が教えたのなら納得出来る。

「佐倉はいなかった」

「……どこから名前知ったんだろ」

「だから、人気あるんだってば。それに一人が知ったらコレで一週間以内に全校に広まる」

 情報の伝達はあっという間だ、と恭子はテーブルの上のスマートフォンを指で軽くはじいた。

 恐るべきはスマホを手にした女子高生といったところか。真尋も昨年まではそうだったが、環境の差は大きい。

 実際、今朝の短時間のやりとりが昼に恭子の元に伝わっていた事を考えれば、感服するしかない真尋だった 。

「でも、もし、仮に、万が一、おそらく、多分、うっかり、きっと、もしかして、恭子が言う通りに私がモテるとしたら――あの子以外にもチョコ渡しに来る子がいるはずだよね」

 真尋は思い付く限りの仮定の言葉を並べてから、またも出てきた疑問を口にする。

 恭子の言うように、真尋にそれなりの人気があるのならば、他にもプレゼントを渡しにやってくる人がいてもおかしくはない。しかし、今日は朝から一件、佐倉結季からプレゼントを貰っただけである。

「佐倉が相手じゃ勝ち目が無いと思って身を引くと思うな」

「どういう子なの……佐倉結季は」

 恭子の話で真尋は軽く頭を抱える。一体、佐倉結季とはどれだけ凄い存在だというのか。

「人柄も良いから敵がいないんだよね」

 むしろ佐倉の恋なら応援する人のほうが多いのではないか、とまで付け加える。

「……騙されて罰ゲームやらされてるとか?」

 数分間の沈黙の後に出てきた、真尋が納得できる選択肢はその位である。

「佐倉はそんな子じゃないよ、ホント真尋はこういう話弱いねー」

 恭子はため息混じりに少し哀れむような目で真尋を見る。

「……う」

 真尋は恭子に痛いところを突かれて黙り込む。

 幸か不幸か、真尋はこれまで色恋沙汰には全く縁がなかった。今までに「この人が好きだ」という対象が居なかったのである。好きなタイプを聞かれても思い浮かぶことが無かった。それよりも友人達とバカみたいな他愛ない話で盛り上がっている方が好きだった。

 年頃になり、周りの友人が恋愛の話で盛り上がっていても、あまり興味を持てなかったのである。勿論今までに告白したこともされたこともない。

 以前恭子にその事を話したときには、告白された事に気が付いてなかっただけじゃないのか。と言われた事があるが、記憶を辿っても無かったように思う。

 経験が無い分それが自分自身の身に降りかかると滅法弱い。

 そして、初めての恋愛話とも呼べるものがこういう形でやってくるとは思いも寄らなかったのである。真尋にとって、まさに不測の事態だった。

「初めて告白してくれた相手が美少女で良かったよね」

「いや、余計戸惑うんだけど……何で私が好きなのかわかんないし」

 恋愛耐性のない真尋にとって、いきなり告白されたところで何をどうすれば良いのかわからない。しかもそれが同性で、そして美少女だった日にはなおのこと対応の仕方がわからない。

 そもそも佐倉結季がどこで真尋の事――名前は恭子や同級生から伝わったのだろうが――彼女がどうして真尋を好きになったのかという問題が謎である。

「本人に聞いてみたら?」

「そ、そんなの聞けないよ」

「じゃあ、このまま無視しちゃうか」

 恭子はチョコレートを食べた責任がある事を忘れたかのような口振りだ。

「でも、相手が気持ちを伝えてきたなら、断るにしてもちゃんと返事をするべきだよね……って事はやっぱり話をしないと駄目ってことで、お返しもしないといけないし」

 真尋は腕組みをして考え込む。

「真尋は変な所で真面目だよね」

 恭子の言うとおり、変に真面目だ。不器用なのかもしれないが、それが真尋の性格だった。

 十数分考えた後、真尋はジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。二つ折りで時代遅れの機種だが通話とメールしか使わないので真尋には必要充分なものだった。決してスマートフォンは高いからという理由ではない。真尋の一種のこだわりでもあった。

「……とりあえず、今日会えないかメールしてみる」

 真尋は、『放課後に学校近くのドーナツ店で会えませんか』といった内容のメールを作成。手紙に書かれていた結季のアドレスに送信する。

 結季からの了承の返信はすぐに来た。時間にして数分だったが、真尋は一仕事を終えたような疲労感に包まれる。

「……出鼻をくじかれなくて良かった」

 真尋は心の底から唸り出すように呟く。とりあえず第一関門は突破した。しばらく黙って見守っていた恭子も一安心といった表情をしている。

「恭子にも協力して貰うからね」

「勿論。チョコも食べたし任せなさい」

 恭子は自信たっぷりの笑顔で親指を立てている。

 もしかして面白がられているだけではないだろうか――真尋がそう思ったのは言うまでもない。


(2)

 真尋は駅前のドーナツショップで一人、一番安いドーナツを一つとおかわり自由のコーヒーを頼み、約束をした窓際の一番奥の席に座って、大きく深呼吸をする。

 学校から店に来る途中、見知らぬ女子高生に「佐倉を幸せにしてあげて下さいね」と、ドラマで見るような結婚式の友人代表のスピーチのような言葉を大声でかけられ、危うく公道のど真ん中で盛大に転びそうになった。

 ――あの場面はどう返せば良かったのだろうか。考えてもわからない。いや、今はそれどころではない。腕時計を見ると約束の時間まであと十五分ほどある。真尋はまだ熱いコーヒーを一気に飲み干して気合いを入れた 。

 佐倉結季に貰った三万円のチョコレートのお返しがどうなるかが決まるここ一番の大勝負だ。緊張している 。

 ホワイトデーに倣っての三倍返し――その展開は真尋の総資産が大変危うい状況になってしまうので何としても避けたい所である。

 真尋が考える個人的にベストな展開は、お金がかからなく、なおかつ相手が喜ぶような物であることは間違いないだろう。しかし、相手が喜ぶ物が全く思いつかない。自分がもし逆の立場だったら何を望むか――そう考えてみるが浮かんでこない。恋愛経験ゼロの痛みが身に染みる。

 とにかく話をしてからの事だ。真尋はコーヒーのおかわりを頼み、相手を待ちかまえる。


 約束の時間が少し過ぎた時、待ち合わせの相手である佐倉結季が急いだ様子で店に飛び込んで来た。店内見渡して真尋の姿を確認すると、慌ててテーブルに向かって来る。

「すいません。遅れました!」

 朝には持っていなかった大きな紙袋を二つ、重たそうに手にしている。上から少し中身が飛び出て見えるが、可愛らしいラッピングからして、今日貰ったであろうバレンタインのプレゼントのようだった。恭子の言っていた通り、相当な人気者だ。

「本当にすみません」

 結季は席にも着かず、走って乱れた髪を軽く整えながら真尋に最敬礼で頭を下げている。

「そんなに遅れてないし大丈夫ですよ」

 真尋は時計を見るが、遅刻と言っても約束の時間から五分も経っていない。いちいち目くじらを立てるほどではない時間だ。

「とにかく座って、何か飲んでゆっくりしてからで」

 結季があまりにも息を切らせていたので、落ち着かせようと椅子を勧める。

「すみません」とまた一言謝り結季は椅子に座る。

「飲み物は何が良い?」

 真尋は立ち上がりカウンターに向かう。三杯目のコーヒーのおかわりを貰いに行くついでに聞いただけなのだが、結季は嬉しそうな表情を見せた。

「えっと、アイスティーをお願いします」

 結季は呼吸を整えながら答える。真尋は軽く片手をあげて了解の意思表示をする。

「やっぱり優しい……」

 と、結季が恋する乙女の眼差しで真尋の後ろ姿を見て呟いたが、真尋は知る由もなかった。

 ――数分後。

「どっちが良いかわからなかったから両方貰ってきました……けど」

 真尋はアイスティーのグラスを結季の前に置いてから、手にしていたミルクとレモンが入ったそれぞれの小さな容器を結季に渡す。

 結季は礼を言って受け取り、レモンの容器を開けてグラスに注いだ――のみならず、ミルクの容器も開けてグラスに注ごうとしている。

「それ、分離しちゃうと思うな」

 様子を見ていた真尋は結季を止める。

 ミルクとレモンを両方入れてしまうと、レモンの成分でミルクのタンパク質が凝固してしまいダマが出来る。飲み物としても非常に妙な味になり果ててしまう。

「え? あ、すいません。緊張してて」

 指摘された結季は慌ててミルクの容器を置こうとするが、開封している為にこぼしそうになっている。

「あっと……どうしたら?」

 結季は所在なさそうにミルクの容器を手にしたまま困り果てている。

「じゃあ、こっちで貰います」

 真尋はミルクの容器を受け取り自分のコーヒーに注ぐ。残ったのがレモンで無かったのが幸いだった。レモン味のコーヒーに興味はあるが飲むのは今じゃなくていい。

 容器を受け取る瞬間に軽く互いの手が触れた、結季はすぐに手を引いたが恥ずかしそうに少し赤面している 。

 明らかに真尋に対して恋をしている表情を見せる結季の様子を目の当たりにしてしまうと、真尋の方にも変な緊張感が湧いてきた。


「えーっと、今朝はプレゼントありがとうございます」

 数分の沈黙を破ったのは真尋からだった。お礼を言わなくてはならない義務感が働いたのだ。

「いえ……受け取って貰えて良かったです」

 結季は緊張気味に答えている。

「本当はそのまま返すつもりだったんだけど――」

 真尋の言葉に結季は「やっぱり……」と目を伏せる。少し悲しげな表情が真尋の胸に突き刺さる。

「あ、待って。『つもり』だったんだけど……その、ちゃんとありがたく受け取ります」

「え……」

 結季は顔を上げて嬉しそうに真尋を見つめる。周りの空気まで華やぐような笑顔に真尋は少し気圧される。

「だからその、突き返すとかは無いから安心? して下さい」

 真尋は動揺しながら結季に受け取ろうと思った理由の説明をする。結季はそれを聞いてとても嬉しそうにしている。

「で、友人から高価な物だって聞いて――あ、いや高価じゃなくても貰いっぱなしは良くないからお返しをしようと考えたんだけど、正直な所こういうのに慣れてないから何を返したら良いかわからなくて――」

「私はお返しを期待して渡した訳ではないので、それは気にしないで下さい」

 結季は慌ててそういうつもりではなかったということをしっかりと伝えてくる。

「いや、これは私の気持ちの問題で。ちゃんとお返しをしたいから、させて下さい」

 真尋は頭を下げる。

「と、藤野さん? そんな……頭下げないで下さいよ」

「だから欲しいものとかあったら。って、あまり高い物だと恥ずかしい話無理なんですが――」

 真尋は自分に金銭的な余裕がないことを隠しても仕方ないので正直に伝えた。

「あ、あのっ! じゃあ、お願いがあります」

 その言葉に真尋はテーブルから顔を上げる。

 真尋が結季を見ると、結季は頬を赤らめ、瞳を少し潤ませ、真に迫る表情で意を決したように続ける。

 ――三日間だけ、恋人になって下さい。

 と。


(3)

「――で、約束したわけだ」

 真尋は別の店で待っていた恭子に経緯を説明していた。

 見知らぬ女子高生達に言葉をかけられた話をした時も恭子は大笑いをしていたが、今すぐにでもまた笑い出しそうに口元を歪めている。絶対に楽しまれていると真尋は確信しているが、それを指摘しても仕方がない。今は恭子に頼るしか方法がないのだ。

「それ以外にどうしろって言うの……」

 結季の真剣なあの様子を見ていれば、本気だということは恋愛に疎い真尋でもわかる。そんなに大事な決意で申し出たお願いを断るなんて真尋には出来ない。

 真尋が了承したときの結季の笑顔は、引き込まれそうな可愛らしさを持っていた。純真無垢とでもいうのだろうか、不思議な事にその笑顔を思い出すと「経済的負担が軽く済みそうだ」と一瞬でも考えた自分を恥じたい気持ちになってしまうほどだった。

「初めての恋人が美少女で良かったね」

「女同士で恋人か……」

「何か問題が?」

 女性好きを公言している恭子にそう言われると真尋には返す言葉がない。偏見は持っていないと思っていた。しかし、自分の身に降りかかるとこれほどまでに動揺するものなのだということがわかった。しかも相手が真尋から見ても魅力的に感じるだけに余計にどう対処して良いものかがわからない。

「で、三日間恋人になるって、具体的にはどうするの?」

「来週の土曜日に一日目のデートをする事にしてきた」

 真尋は「恋人になってくれ」と言われてもどうすれば良いのかわからなかったので、素直に結季にどうしてほしいのかを訊いた。そうして返ってきた答えが「デートして欲しい」との事だったので了承した訳である。

「一日目?」

「私のバイトの都合があって、連続は無理だからそれぞれ別の日にって」

 真尋は働く苦学生である。掛け持ちの都合もありバイトが全くない日は月に一、二回。その休日がデートの日取りでもある。

「なるほどね。どこに行くの?」

「え?」

 真尋は間の抜けた表情で恭子を見た。

 恭子も呆気にとられた顔をしている。期待していた答えでは無かったようだ。そもそも答えになっていなかったようだった。

「デートの場所はどこにしたのかな?」

 恭子は幼稚園児にでも言い聞かせるような優しい口調でもう一度聞いてきた。

「……決めてません」

 真尋はデートする日にちを決めただけで、それ以外のこと――行き先や待ち合わせ場所、時間さえも決めていなかったことに気が付いた。真尋は頭を抱え込む。

「真尋は抜けてるね」

 恭子にその事を伝えると、恭子はため息混じりに残念といった感じで口にした。自分ではそれなりにしっかりとしているつもりだったが、どうやら恭子の中では真尋に対する何かのイメージが崩れたようだ。

「連絡した方が良いよ。できれば今すぐ」

 恭子は落胆している真尋を見かねたのか助け船を出す。

「わかった」

 真尋は慌てて携帯電話を取り出し、結季にメールを送ろうとするが途中で固まる。

「デートって……どこに行けば良いの?」

 デートなど一度もしたことがない真尋には、どこに行けば良いのか全く見当がつかない。先程から的が外れっぱなしの真尋に、恭子はやれやれといった表情をしている。

「相手の希望を聞かなきゃ。バレンタインのお返しなんだから」

 恭子の意見は当然のものだったが、それを聞いた真尋が感心していると「やっぱり真尋は抜けてる」と恭子が呟いた。悔しいが真尋は反論することができなかった。


「ねえ――佐倉さんって実は不良とか?」

「はいぃ?」

 デートの行き先の希望を聞くメールを結季に送り十数分後、返信メールを読んでいた真尋の発した一言に恭子は素っ頓狂な声をあげる。

「お礼参りに行きたいって……バットとか持って学校に殴り込むヤツでしょ?」

 昔、真尋の通っていた中学校でそんな騒動があったことをよく覚えている。幸いにも未遂で済んだらしいが、もう一歩で警察沙汰になるところだったと同窓生の間で語り草になっているくらいだ。

「どアホ」

 恭子は冷たい目で真尋を見ている。面と向かって「どアホ」と言われるとむしろ清々しい気分になるが、真尋はなぜ自分が「どアホ」呼ばわりされたのかわからなくて首を傾げる。

「なんでどアホ?」

「お礼参りってのは、神社とか寺に『お願いが成就されました』ってお参りに行くことを言うの。真尋の言ってるお礼参りは不良の業界用語みたいなもの」

「……マジ?」

「マジ」恭子は真顔だ。

 恭子に正しい意味を教えられた真尋はそれきり絶句する。中学時代に刷り込まれた記憶のせいとはいえ、真尋はお礼参りの本来の意味を全く知らずに今まで生活してきた事になる。知らなくても生活はできていたのだから、それほど問題ではないような気もするが、恥ずかしい事に代わりはない。

「真尋は――天然?」

 真尋に対する評価がますますおかしな方向に変わり行く瞬間だった。


「でもさ、これで対等なお返しになるのかな」

 神社に行くだけなら金額的には安上がりなデートだ。大きな出費を占めるのは交通費と食事代ぐらいではないだろうか。三万円のチョコレートとは対等とは言えない。かといって、その金額分をそのままを返せと言われたら経済的に苦しい状態にはなるのだが。

「その辺は気にしなくても良いと思うけど。向こうの希望を聞いてそれに答える。それで良いじゃない」

 ――大事なのは金額よりも気持ち。恭子はそう付け加えた。真尋にしても、それは言われるまでもなくわかっている事だ。

 佐倉結季は三日間でも想い人である真尋と一緒に過ごせるだけで構わないのだろう、しかし当の本人である真尋は結季の事を良く知らないまま、ただ一緒に過ごす。それで果たしてお返しだと言えるのだろうか。

 三日間、恋人にならないといけないのだが、恋人とはどういうものかさえわからない。

「デートまでに出来るだけ相手の事を知ればいいじゃない。何が好きかとかある程度のリサーチはしないと駄目でしょ」

「会う時間も無いのにどうやって?」

 真尋の問いに恭子はテーブルの上に置いてある真尋の携帯電話を指先で叩く。

「会って話すだけがコミュニケーションじゃないよ――メールをやり取りできる状態になったわけだし」

「メールで仲良くなれって事?」

「デートまでに細かい打ち合わせとかあるでしょ? そのついでに世間話を挟むと良いんじゃない?」

「なるほど。参考になります……」

 恭子の的確なアドバイスに真尋は思わず敬語になった。持つべきものは恋愛経験豊富(多分)な友人だ。

「それと。友達と遊びに行くんじゃなくて恋人としてデートしないとダメだよ」

 恭子が駄目押しのように続けた。

「……どうやって恋人みたいに行動したらいいのかわからない」

 真尋はデートをした経験がない。恋人のように振る舞えと言われても全く見当が付かない。

「自分が好きな人にされて嬉しいことをすればいいから」

 そして今までに恋愛対象としての好きな人が居なかった恋愛初心者の真尋にはかなりハードルの高いアドバイスが返ってきた。

「それがわからないから困ってるのに」

「あー、例えば『支払いは私に任せて』って感じで細かい出費なんかは真尋が持つ。個人的にはワリカンのほうがいいと思うけど、今回はお返しのデートだからこれは大事」

「うん」

 真尋は恭子の具体的なアドバイスを真剣に聞いている。メモをとって良いのならそうしたいくらいの心境だが、流石に恭子に笑われそうなので我慢をしているくらいだ。

「堅苦しすぎる敬語なんかも控えめに。真尋のいつもの様子から考えるとできれば使わないくらいでも丁度良い。それで仲の良い感じを出す」

「なるほど……」

 真尋は緊張すると無駄に丁寧な言葉遣いになることがある。それを見越した恭子の的確なアドバイスに真尋は頷く。

「あとはキスしたり」

「――ぐふっ」

 真尋は飲みかけていた紅茶を盛大に気管に吸い込んだ。恭子は時々油断ができない発言をする。

「で、出来るわけないでしょう!」

 真尋は咳込みながら反論する。

「いやぁ、恋人なんだから。気持ちが高ぶればもっと進んでも」

「も、もういい。もういいです」

 他にいないとはいえ、恭子に頼ったのは間違いだったかもしれない。しかしそう思っても、もう遅い。

 どちらにしても「三日間の恋人」は前途多難なものになりそうだと真尋は覚悟した。


(4)

 デート当日、午前九時。真尋は約束の時間の一時間前に駅にいた。初デートの緊張感からか早く目が覚め、家にいても落ち着かなくて予定よりも早く待ち合わせ場所に着いたのである。

 あれからメールを十数回やり取りして得た佐倉結季の情報は『神社巡りが趣味』というものだけだった。

 これから神社に行くのだからそれなりにネタにはなるかもしれないが、情報と呼べるものではない気がする。リサーチがうまくいったかを判定するまでもなかった。

 当たり前だが待ち合わせ場所に結季の姿はまだない。真尋は駅の近くで朝早くから開店している本屋で時間を潰すことにした。

 真尋は入口の大きなウインドウに写る自分の姿を見た。タートルネックのセーターとストレートジーンズ、スニーカー、ダウンジャケットという、どう見てもデート向きではないカジュアルな格好だ。色も無難な落ち着いたダーク系でまとまっている。

 結季の方から「動きやすい格好で」と指示があったのでその通りにしたのだが、本当に良かったのだろうかとの不安感に苛まれている。一応持っている中でも比較的良い状態の物を選んだつもりだが――これで結季が可愛いワンピースなんかを着てきた日にはアンバランスだろう。不安がさらに大きくなる。

 真尋は不安を振り払うように大きく息を吐き店内に入った。ファッション雑誌のコーナーへと向かい、サンプルと書かれている立ち読み用の雑誌を手に取る。真尋はページをめくり目次を確認したが、あまり興味がわかない特集だったのですぐに棚に戻す。隣の棚に移動して何気なく視線を動かすと、棚の前に佐倉結季がいた。

「……佐倉さん?」

「え? 藤野さん?」

 結季は驚きの声を上げた。驚きのあまり手にしていた雑誌を落としそうになっている。

「……まだ時間じゃないよね?」

 真尋は自分の腕時計を見たが、まだ待ち合わせの一時間前だ。時計が壊れてない限り真尋は間違えていない。

「この前遅れたので、今度は藤野さんを待たせないようにって思って早めに……」

「でも、早すぎない?」

 真尋は自分の事を棚に上げているが、幸いにも結季からのツッコミはこなかった。

「あの……初デートなので緊張してて」

 早く来すぎてしまった――結季は雑誌を棚に戻しながら照れた様子でそう話す。

 結季ぐらいの美少女なら、とっくの昔にデートなど余裕で経験しているものだと思っていたので真尋は驚いた。

「デート初めてなんだ……」

「はい」

「私が相手で良いの?」

「はい、好きな人とデートするのが夢でした」

 その迷いのない結季の答えに、真尋は佐倉結季に告白されたのだという基本的な事を思い出した。デートをするという事に気を取られ過ぎていて、すっかり失念していた。

「そうだよね……間抜けな事聞いてごめんなさい」

 初っ端からこの調子では先が思いやられる。真尋の胃が少し痛んだ。


「じゃあ、切符買ってくるから待っててくれる?」

 予定より早くなったが二人で駅に向かい、真尋はそう言い残し切符売り場に向かう。

「切符代を――」

 追いついた結季が鞄から財布を取り出そうとしている。

「あ、今日はお返しだから。電車代とか私が持つから」

 真尋はそれを慌てて止める。どこかぎこちないが恭子に言われた通りの事を実践しようと真尋も必死だ。

「でも」

「いいから」

 真尋は結季を制止して自動券売機に向かう。

 が、しかし。何処の駅までの切符を買えば良いのかわからなかった。そもそも神社に行く事は決まっていたのだが、どこの神社かまでは結季から聞いていなかった。気まずそうに結季の元に戻り、最寄り駅を聞いてからまた券売機の前に戻った。その際にまた電車代を払う払わないのやり取りを繰り返してしまった。この辺りは本当に詰めが甘いと真尋は小さく落ち込んだ。


 無事に行き先までの切符を購入して、駅のホームで電車を待つ。電車が到着するまであと数分あるが、何を話せば良いのかきっかけが掴めなくて静かな空気が流れる。

「今日はお付き合いいただいて本当にありがとうございます」

 その空気を打ち破ったのは結季だった。結季はまだ始まったばかりの今日のデートに対して丁寧に礼を言う 。

「えっと、今日はそういうのは無しで。デートなんだしお互いに気を使わないようにしようよ」

 真尋は自分にできる精一杯のフレンドリーさを全面に押し出した返事をした。これも恭子のアドバイス通りなのだが、意外に役立っているようで、結季は嬉しそうに「はい!」と答え、照れたような笑みを浮かべた。

「籐野さんって素敵ですね」

 結季が照れた表情のままそう続ける。誉められる事に慣れていない真尋は少し面食らう。

「そんなことないと思うんだけど……」

 真尋自身、自分は何処にでもいる普通の人間だと思っていたが、先日の恭子に続いて結季にもそんな風に言われると変な勘違いをしてしまいそうだ。

「でも、優しいですし、シンプルな服も似合ってて素敵ですし、背も高いですし」

 優しいかどうかはともかく、真尋の身長は百七十センチなので、確かに背が高いと思うがそれだけで誉められるのも不思議な気分だ。結季は真尋より十センチ程低いだろうか。 それでも全体的なバランスが良いのかスタイルで見ればもう少し高くも感じられる。

「藤野さんは高等部でも凄い人気なんですよ」

「それ、この前友達にも言われたんだけどホントなの?」

 真尋は恭子が自分を騙そうとしているかもしれないとの疑いを抱いていたので、この際だからと疑問に思っていたことを訊ねる。

「本当です。校内の人気投票で総合三位でしたから」

「……総合三位?」

 人気投票にも突っ込みたいが、総合三位という順位も気になる。何の総合だというのだろうか。

「友達になりたいとか、恋人にしたいとか、他にも色々とあってそれの総合です。三位は不満でした?」

 結季の話を聞いているうちに眉根にしわを寄せて黙り込んでしまった真尋を見て、結季が不安げになっている。しかし、問題はそこではない。

「いや、人気投票がちょっと衝撃で」

「高等部の伝統行事なんですよ」

 結季は楽しそうにそう話しているが、高等部は一体何をしているのか。そもそも女子校の高等部とはこういうものなのだろうか、どうも真尋には計り知れない世界が繰り広げられているようである。

「じゃあ一位は佐倉さん?」

 別に一位が誰でも良かったのだが、結季は人気が高いとの評判なのでおそらくはそうなのだろう――結季の反応を見る。

 今になるまでよく見ていなかったが、結季もまたカジュアルな格好だった。

 細身のジーンズにオフホワイトのボタンダウンのシャツを着て、ユニセックスなデザインのフード付きコートに身を包んでいる。靴はスニーカーだ。持っているバッグも少し大きめのシンプルなショルダーバッグだった。

 結季の服装こそ、シンプルな分だけ着ている人そのものの良さが際だっている。改めて見ても美少女だ。芸能系のスカウトが多いのも納得してしまう。

 ただ一つ、恭子が言っていた貧乳は事実だったのだが、だからといってそれで結季の魅力が落ちるとも思えない。

「えっ……知ってたんですか?」

 結季は虚を突かれたような表情になっている。真尋の予想通りだったようだ。こうなると結季と真尋に挟まれた二位がどんな人なのか微妙に気になってしまう。

「いや、高等部の人気者だって聞いてたから」

「私はただの八方美人だからお情けみたいなものなんです。藤野さんはホントに魅力的だからです」

 図星を指された結季は慌てて頭を振っているが、自信なさげに照れている姿は小動物のようで、思わず守ってあげたくなるような印象さえ受けてしまう。どこか可愛らしいその様子に真尋の緊張も少し解れてきた。

 真尋のフォローをしようとする辺りも何処かしら健気だ――フォローになっているのかは微妙な所だったが。

 それにしても高等部限定の行事とは言え、人気投票一位と三位がデートをしているという事実は、その結果を知っている人間から見たらどう思われるのだろうか――特にこの辺りは学校の最寄り駅なのでお互いに知り合いも多いだろう。知り合いに出くわしたらどうすればいいのか真尋は少し心配になった。

 丁度その時、電車の到着を知らせるアナウンスが流れてきた。

「あー電車来たよ。ほら、乗ろう!」

 真尋は知り合いに出会う可能性の多い場所から早く離れたいと、慌てて電車に乗り込んだ。


 神社のある最寄り駅まで急行で四十分弱かかる。使われていた車両がクロスシートだったので、二人掛けの座席に隣同士で座ることになった。肩が少し触れ合うだけで、何故かお互いが謝ってしまうので真尋は気が抜けない。乗ってから数分経つが、結季ともまだまともに言葉を交わしていない。

 お互いの肩に当たらないように、二人ともが緊張している雰囲気があるために、余計に話しかけづらくなっているのだろうか。それに人気投票の話題からどう路線を変更すれば良いのか、打ち解け始めてきたとはいえ会話の技量が足りない真尋にはわからない。思わずため息が出た。

「あの、やっぱり迷惑でしたか?」

 結季が心配そうに、真尋の顔を覗き込んだ。真尋のため息のせいだろう。真尋も内心でしまったと思った。

「あ、そうじゃなくて。その……何を話したら良いのかわからなくて」

 真尋は慌てて迷惑ではないと否定する。どう対応したら良いのかと困りはしているが、今回の事を真尋は全く迷惑だとは思っていない。ただ共通の話題になりそうな事が見つからないのだ。

「あの、それじゃあお願いがあるんですけど良いですか?」

 結季が一生懸命に会話を繋ごうと真尋に話しかける。

「良いよ。なんでも聞くよ」

 真尋はため息をついてしまったことへの申し訳なさから内容を聞かないまま勢いで返事をしてしまう。思わず安請け合いをしたものの「手を繋いで欲しい」とかだったら躊躇してしまいそうだと思った。結季のことが嫌な訳ではなくて、誰かと手を繋ぐという行為そのものが真尋にとってはかなり高いハードルなのだ。


「真尋さんって呼んでも良いですか?」

 結季は隣に座る真尋の様子を伺いながら、恥ずかしそうにそう言った。

「別にかまわないよ?」

 真尋は覚悟していた分拍子抜けした。名字で呼ぶ人は元々少ないので、名前で呼ばれるほうがかえって居心地が良い。あっさりと了承する。

「良かった――私の事も結季で良いですから。ってお願いばっかりですね」

「わかった。結季さんね」

 真尋は素直に結季の名前を呼んだ。呼び捨ては少々馴れ馴れし過ぎる感じがしたので「さん」付けだったが、結季は元気良く「はい!」と返事をしたのだった。


「真尋さんは休みの日は何をしてるんですか?」

 その後も結季が会話をリードしている。

「ほとんどバイトしてるかな」

「遊びに行ったりとかはしないんですか?」

「……行ったことないかも」

 大学に入って一人暮らしを始めてからの短い記憶を手繰り寄せたが、世間一般でいう「遊び」に行った記憶が一度もない。

 大学生にもなれば合コンなどに一度ぐらいは行っていてもおかしくはないのだが、全く行ったことがないし、誘われた覚えもない。仮に誘われても費用がネックになってしまい、それはそれで一大決心を必要とするのだが。

「じゃあ今日は真尋さん的には珍しいんですか?」

「近年稀にみる大事件……かな」

 結季には黙っているが、真尋にとっても生まれて初めてのデートだ。相手が同性で、しかも美少女とだなんて、かなりの事件だろうと思う。きっと普段の生活で遭遇するようなシチュエーションではない。真尋自身もまだ自分が置かれている状況に順応できていない気がする。

「佐倉さ――結季さんは休みとかどうしてるの?」

「バイトと、たまに神社巡りしてます」

「え、バイトしてるんだ?」

「はい。週に二、三日ですけど」

「……もしかして、あのチョコもバイト代で?」

「そうですよ?」

 結季はさも当然と言わんばかりに返事をする。

 知り合いでもなかった真尋に三万円もするチョコレートを贈る金銭感覚からして、結季はどこかのお嬢様なのかもしれないと思っていた――実際に家柄も良いとか聞いていた――が、意外と普通の女子高生だった。

 となると、あのチョコレートが益々重たく感じられる。ただでさえ三万円という金銭的価値、限定五十箱という希少価値に加え、結季が働いて得た貴重なバイト代で購入したという付加価値も更に上乗せされる。

 そして、真尋が想像しているよりも結季は本気なのだと改めて実感することにもなった。

「チョコレート美味しかったですか?」

「うん。少しビターで美味しかった」

 実際には何割かを恭子が勝手に食べてしまったのだが、それは言わない方が良いのだろう。

「お口にあって良かったです」

 結季は嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「手に入れるの大変だったんでしょ? 確か限定五十箱とか聞いたんだけど」

 真尋は恭子に見せてもらった雑誌の記事を思い出す。問題のチョコレートは限定五十箱、価格は三万円。トリュフチョコが二十個ほど箱詰めにされているものだったが、平均してもチョコレート一粒が千五百円ほどだ。箱代なども入っているから実際は違うとはいえ、真尋が最初の一つを口にするまでに数時間悩んだ程の代物だった。勿論、チョコレートにかけた結季の気持ちを考えていたせいもあったが。

「実は……徹夜で並んじゃいました」

 結季は恥ずかしそうに話しているが、何処か誇らしげだ。

「チョコ買うのに徹夜って凄いよね……」

 二月の寒空の下を徹夜で行列とは――バレンタインデーにかける女子の熱意というものは、これほどまでに凄いものなのかと真尋は感心する。自分も女子だが、イベントに興味のない生活をしてきた真尋は改めてそのギャップを実感したのだった。

「真尋さんは誰かに贈ったりとかしなかったんですか?」

「小さい頃なら覚えがあるんだけど、あとはさっぱり」

 真尋のバレンタインの記憶は、小学校低学年の頃だったか、友人数人でお金を出し合って担任の先生にチョコレートを贈った思い出がぼんやりとあるくらいだ。

 それも友人主導だったので真尋は小遣いの一部を友人に渡しただけなので思い出すのにも相当の時間を要した。

「じゃあ、貰ったりなんかは?」

「結季さんが初めてだよ」

「そ、そうなんですか? 私、貰いなれてるだろうと思って、出来るだけインパクトのある物をって思ったんですけど……」

 そのインパクトが強烈だったおかげで、こうしてデートするという事態になっている以上、結季の作戦は成功している。

「確かにインパクトは凄かった……」

「じゃあ、サプライズ成功ですね」

 結季は少し得意げに、どこか憎めない笑顔で真尋を見る。かわいいいたずらが成功した子供のように無邪気な笑顔だ。つられて真尋も笑う。

「真尋さんの笑顔って優しいんですね」

「え。あ、そうかな……? ありがとう」

 真尋は突然結季にそう言われて、自分がデート開始から一度も笑っていなかった事に気がついた。ちゃんとしたデートをしなくてはいけないのに、一度も笑顔になっていなかったのは失礼ではないか、と真尋はまたしても小さく落ち込んだ。

 このままではデートが終わるまでに何度落ち込むことになるのだろう。とりあえずお礼は言ったが、結季の事も誉めるべきだろうか――そう思い結季を見るも、何を誉めれば良いのかもわからない。適当に話して下手なことを口走るのもそれはそれで困る。真尋がそんなことを考えている間に車内アナウンスが目的地の駅に近づいたことを知らせた。 結季も「次ですね」と電車を降りる準備を始める。今日の真尋はタイミングに恵まれているようだった。


 神社の最寄り駅で降りて、数分歩くと両側にお土産などの店舗が建ち並ぶ参道にたどり着く。かなりの賑わいを見せ、少数ながらも外国人の観光客を目にする。

「意外と有名な所なの?」

 人の多さに圧倒された真尋が結季に話しかける。

「はい。あの鳥居が珍しいものらしいです」

 結季が指さした先には三階立てのビルほどの高さの巨大な朱塗りの鳥居が鎮座していた。遠目から見ても立派なもので、こういったものの知識に乏しい真尋でも荘厳なものなのだとわかるくらいだ。

「あれだけの規模で朱塗り――赤く塗られている鳥居だと国内でもここだけなんだそうですよ」

 結季はさらさらと解説を始める。真尋の質問だけに答える押しつけがましくない解説だ。

「詳しいね」

「良く来るので色々覚えちゃいました」

「結季さんは神社を選ぶ辺り、渋いよね」

 真尋は、神社巡りといえばある程度の年齢の人がするものだと思っていた。実際に参道に並んでいる出店のラインナップを見ていても、若年層向けではない印象を受ける。

 小さな下駄のマスコットを売っている店があるが、そのアイテムだけで一店舗として成立しているのが面白い。パワーストーンでできたブレスレットの店もあるが、ブレスレットと言うよりは数珠に見えるデザインが主だ。それがたとえ『恋愛に効くお守り』と謳われていても、数珠に見えてしまう。

「友達からもたまに趣味が女子高生じゃないって言われます」

「神様とか信じてるの?」

 真尋の質問は結季にとって難しかったのか、結季は少し沈黙してからこう答えた。

「こういう場所が落ち着くだけで……でもお願いが叶ったからお礼参りに行かなきゃと思ったんですけど、それだと信じちゃってますよね?」

 結季は可愛らしく小首を傾げるが、表情は真剣だ。信仰とは何か。のような予想外に深い話に入ってしまいそうなので真尋は慌てて違う話題を結季に振る。

「そういえば私、お礼参りに凄い間違った知識を持ってたんだよね」

 真尋は結季からお礼参りに行きたいとのメールを受け取った時の一件を話す。

 真尋の評価が「天然」に定着しそうな勢いだった。おそらく恭子の中ではもう認定されているだろう。

「でも厳密には間違いじゃないですよ」

 結季は話を聞いて楽しそうに笑っている。

「私は小学校の高学年まで汚職事件をレストランのお食事券だと思ってましたよ?」

 良くある聞き間違いの類だ。真尋も昔同じ間違いをしていたと話すと、結季は「ですよね」と少し安心したような微笑みを見せる。

 結季は笑顔が似合う――綺麗な笑顔だ。無理をしていない自然な微笑みといった表現が似合う。結季が笑顔になる度に、不思議と真尋も楽しい気分になる。この笑顔を見られるのなら少々の失敗談くらい引き替えにしてもかまわないと思えるほどだった。


 参道を数分歩き、巨大な朱塗りの鳥居の下にたどり着いた。真尋はそのスケールに圧倒される。

「うわー。なんか……凄いね」

「中の本殿も立派ですよ」

 結季と共に鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れた真尋には、結季が「落ち着く」と表現した意味が感じ取れた。

 大抵の神社には鎮守の森とも呼ばれる樹木が茂る場所が作られている。文字通り木々がこの場所を鎮め、守っているのか、賑やかな参道からそれほど離れていないのに喧騒が遙か遠くのように聞こえる。

 普段自然に触れる機会がない真尋にとってはこの空間が心地よく感じられた。

「ここが本殿です。私がお願いしたのは奥社なんで、もっと奥のほうにあるんです」

 結季に案内されたそこには、鳥居に負けないくらいの立派な社殿があった。朱塗りの柱と白い壁が鮮やかでいかにも神社といった趣だ。参拝客も多く、小さな行列ができていた。二人の目的地ではないが、本殿にも参拝をしてから奥に続いている道へと向かう。

「ここが奥社?」

 真尋が想像していたよりも近い場所に小さな社があった。本殿から数分細い道を歩いた程度なので結季の言うように「もっと奥」だという感じは薄かった。社にはすずなりに絵馬がぶら下げられていたので、奥社といってもやってくる人はそれなりに多いのだろう。

「もっと奥です。ここから一時間半位かかります」

「い、一時間半? それで動きやすい格好って言ってたの?」

 真尋は思わず声が裏返った。ここから一時間半も歩くとなると結構な距離だが、そんなに奥に社があるのだろうか。

「そうです。山道みたいになっているのでスカートだと歩きにくいんです」

 そう言って結季が指さした方向を真尋が見ると、そこには見紛うことなき『山道』があった。

「お参りって意外とアクティブなんだね……」

 真尋が想像していたお参りとはかなりかけ離れている。もっとのんびりと散歩する程度の物だと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。


(5)

「ここで半分ぐらいです」

 山の中腹にある売店兼休憩所にたどり着いたのは、登り始めて小一時間ほど経った頃だった。

 ここまでの半分の道のりは、結季の言っていた山道みたいという生半可なものではなく、一応階段らしきものもあるのだが自然を活かした荒々しい造りで登るのもそれなりに ハードな山道そのものだった。それでもまだ半分だということに真尋は少なからず衝撃を覚えていた。まさかのデートにまさかの登山。予想外のことだらけだが体力はそれなりにあるのが唯一の救いだろう。

 登り続けていたせいか冬なのに汗が出る。勿論喉も渇くが、所々の休憩所に設置されている自販機のドリンクを見ると、真尋が容易に手を出せない価格にはね上がっていた。

 この山道を登って運ぶ手間などを考えれば妥当な値段なのだが、市価の倍はないだろうと真尋は心から思う。下手をしたら三本、ディスカウントショップなら五本は買える値段だ。登る前に買っておけば良かったと後悔してしまいたくなるほどだ。もっとも最初から値段が上がると知っていたなら荷物になるとわかっていても家から飲み物を持参していただろう。真尋はそういう性格だ。

「何か飲みます?」

 自販機の前で購入をためらっていた真尋に結季が声をかける。

「……やめとく」

 元の値段がわかっている物に倍の金額を払うことがどこか釈然としない――手間を考えれば妥当だとわかっていても――ので買わないことにした。自身の節約思考が憎らしい。

「紅茶ならあるんですけど」

 結季は休憩所の椅子に座り、バッグから少し大きめの水筒を取り出した。

「……一杯いただきます」

 一瞬の迷いを振り切った真尋は恥ずかしそうに答える。

 結季が差し出した水筒のカップには冷たいミルクティーが注がれていた。真尋は礼を言って受け取るとそれを一気に飲んだ。山道を登って火照った身体に丁度良い冷たさと甘さが染み渡る。

「ごちそうさま。でもよく持ってきてたね」

「上に行けば行くほど色々と値上がりしちゃいますから」

 馴れているが故の対応である。結季は意外と真尋に近い考えを持っているのかもしれない。真尋の中で親近感が沸いた。

「でも、そろそろお昼の時間だから。何か食べないとだよね」

 休憩所は簡単な食事も出来るよう小さな店になっている。ここでも上に行くほど値段が上がる法則にしたがって、うどんやそばが下の店の一・五倍程に跳ね上がっている。しかし、食事はしっかりと食べておかないと、登山に近い運動をしている今、エネルギーが足りなくなるかもしれない。

「実はお弁当も持ってきてるんですけど……」

「本当? じゃあ……遠慮なくいただきます」

 結季は何から何まで驚くほどに準備万端だった。真尋がバレンタインのお返しをしないといけない立場なのに、それが全く出来ていないのではないかと不安になってしまうほどだ。

「二人分なんで可愛いお弁当箱がなくてタッパーなんですけどね」

 そう言いながら取り出したタッパーの中には、卵焼きと唐揚げが綺麗に詰められており、彩りにはミニトマトとブロッコリーが添えられている。もう一つのタッパーにはおにぎりが詰まっていた。おかずにはピックが用意されているので箸を使わなくても良い心遣いも嬉しい。勿論おしぼりもしっかり準備している。

 簡単なメニューでまとまっているが、真尋の理想とするお弁当の形だった。難を言うなら二人分にしては量が少し多い所くらいだった。

「凄い! お弁当って感じがする。これ作ったの?」

「はい。お口に合うかわかりませんけど、食べて下さい」

 結季がおかずの入ったタッパーを差し出す。真尋はいい色に揚っていた唐揚げを一つつまんで口にする。

「美味しい! 料理上手なんだねー」

 唐揚げの味付けがしっかりとしていて、染み込み具合もちょうど良い。

 続いて差し出されたおにぎりも米自体が良いものなのかとても美味しい。中に入っていた梅干しも、ほんのり甘みさえ感じさせるような塩加減でまた絶妙だ。結季によると佐倉家代々の手作り梅干しなのだそうだ。

「こんなに美味しいご飯食べるの久々かもしれない」

 思わず漏れ出た真尋のほめ言葉に結季は照れている。

「お口に合ってよかったです。沢山あるのでもっとどうぞ」

 気をよくしたのか結季がどんどん食べるように勧めてくるが、結季自身もそう言いながら結構早いペースで食べているので全く押しつけがましさがない。

 下手をしたら二人で弁当をむさぼり食っているようにも見える光景だった。


「真尋さんは普段料理しますか?」

 弁当を半分ほど食べ、一息ついた辺りで結季が雑談を始める。

「私は早い、安い、が最優先だから味はちょっと……調味料が足りないからこれでいいや、みたいな」

「臨機応変で良いじゃないですか」

「でもカレー作るのにルーが無いとか致命的でしょ?」

「砂糖と醤油があれば肉じゃがに出来ますよ?」

 結季は簡単な調味料だけで応用の利くメニューを即座に見つけだす。

「玉葱だけで?」

 玉葱だけのカレーを一般的なカレーと呼んでも良いものだろうか。市販のカレールーが入れば体裁が整うかもしれないが、もはやカレーですらない気もする――真尋の料理は大体がこんな感じである。

「……真尋さん、ちゃんとご飯食べてます? これ沢山あるのでもっと食べて下さい!」

 玉葱オンリーカレーの話を聞いた結季はおにぎりの入ったタッパーを真尋に差し出す。

 当たり前の結果かもしれないが、結季に心配されてしまった。うっかりとはいえこの話題はデートに向いてはいなかったようだ。真尋は今日何度目かの小さな反省をした。

「そうだ、お弁当のお礼」

 真尋は思い出したように立ち上がり自販機でペットボトルの緑茶を二本買って一本を結季に渡す。結季の水筒の中身はミルクティーなので、ご飯ものとは相性が良くないだろうという考えだった。いくら準備が良いといっても、もう一本水筒を持っているようにも思えない。こういう時には考えずに使うところも真尋である。

「ありがとうございます! いただきます」

 結季はたった一本のお茶なのにすごく嬉しそうに受け取った。

「ご飯と緑茶は合いますね。日本人で良かったーみたいな気分になります」

「お茶漬けとか最高だよね」

「それに漬け物があったら無敵ですよね」

「あー、凄いわかる。ご馳走だもんね」

「――」

 結季が一瞬言葉に詰まった。真尋はまたやってしまったと後悔した。漬け物がご馳走だとすぐに口走る食生活はあまり良いものとは言えないだろう。事実、漬け物は美味しくて栄養もあり、ご馳走と言える物なのだが、今の話の流れではあくまでも副菜的な物としての扱いだ。そもそも主題のお茶漬けがご馳走のカテゴリーに入るのかさえも疑わしい。

 真尋はこのままどこまで反省と後悔を繰り返すことになるのだろうか。そう思っていたら結季が笑い出した。

「真尋さんって面白いですね」

「そ、そうかな? 自分ではそんなつもり無いんだけど……」

 結構な数の失態を重ねている真尋だが、恋する少女にはすべてが良いほうに変換されるのだろうか。結季は楽しそうにしている。

 そんな様子を見ていた真尋も、結季本人が楽しそうにしているならこの失態も多分問題は無いのだろうと思うことにしたのだった。


 二人はペットボトルのお茶を飲んで、少しの休憩をしてから再び山道へと向かった。


(6)

 山の頂上に、その社はあった。

 一目見ただけで長い歴史を感じさせるような古びた建物だが、それ故に何か御利益がありそうだと思えるような社だった。

「……やっと着いた?」

 真尋から思わす声が漏れる。登ってみるとそれほど高い山ではなかったが、それなりの疲れと登り切った爽快感は真尋にとって新鮮なものだった。

「はい。お疲れ様でした!」

 同じ山道を登ったはずの結季は真尋よりも元気にしている。慣れているからなのか、基本的な体力の差なのか、とにかく元気そうだ。

 真尋が改めて社を見ると、ここまで登る人もかなり多いらしく大量のお供えが並んでいた。その多くは近くの売店で売られている御神酒だった。

 ここでも結季はバッグから小さな酒のボトルを取り出した。話を聞くと、売店にある御神酒は未成年だと購入できない可能性があるということで家から持ってきたらしい。結季はやはりここでも準備が良い。結季は社の空いている場所に酒瓶を供えてから社の前に立ち、柏手を打って手を合わせる。

 真尋はお参りの作法がよくわからないので、結季の邪魔をしてはいけないと少し後ろで黙ってその様子を見ていた。結季は熱心に何かを呟いているが詳細は真尋には聞こえなかった。

「真尋さんもなにかお願いごとがあればどうぞ」

 お参りを終えた結季が後ろにいた真尋のほうを見て場所を譲る。

「え、じゃあ何かお願いを――って。もしお願いが叶ったらまた登るって考えたら難しいもののほうが良いのかな」

 登り切った爽快感は何にも代え難いが、正直なところしょっちゅう登山はしたくない。真尋の性格上、もし願い事が叶うとやはりまたここに来なくてはいけないと思うだろう。それなら最初から難しいものにしておけばいい。というわけだ。

「お礼参りは強制じゃないので大丈夫だと思いますよ」

 結季が苦笑しながら答える。

「そうなんだろうけど、登らなきゃいけないって思っちゃいそうで……」

「その時はご一緒しますよ?」

「それは心強いかも」

 またあの弁当を食べられるならそれもありかもしれない。などと思った真尋だった。


 真尋は手を合わせて無難に健康維持を願った。同じ神頼みなら生活が楽になるようにくらいは願っても良さそうなものなのに――と真尋は心の中で自分に突っ込んでいた。

「あー。一仕事終えた気分」

 お参りを終えた真尋はそう言うと大きく伸びをした。

「だけどこれから下らないとですね?」

 登ったからには下らないといけない。当たり前な結季の指摘に真尋の表情がにわかに曇る。

「そうだった……」

 あの山道をまた歩くのかと思うと――下りなので幾分楽だろうが――真尋は大きな溜息をついた。

 そんな真尋を見て、結季は楽しそうに笑っていたのだった。


(7)

 あれから――帰りの山道は登りよりもはるかに楽なものだった。登った後の達成感で若干気分が高揚していたのかもしれない。登りの三分の二ほどの時間で下りることができた。

 参道も帰りの電車もかなり混んでいたので、二人はこれといった会話ができずに地元の駅まで戻ってきた。


 今日のデートが上手く行ったのかどうか、真尋には判断が難しい。結季の様子を伺うと、満足している様子ではあるが実際の所はわからない。

 感想を聞くべきか、聞かなくても良いのか。大体デートの感想というのは本人に聞くものなのか、そもそもデートになっていたのか――真尋は迷っていた。

「今日は楽しかったです。ありがとうございました」

 真尋が迷っていたら結季の方から今日の感想を伝えられた。「楽しかった」という事は上手く行ったという判断で良いのだろうか――評価は素直に受け取った方が良さそうだが、今日一日を思い返すと結季に世話になりっぱなしだった気もするので真尋としては複雑な気持ちだった。

「こっちこそ色々ありがとう」

「真尋さんはやっぱり優しいですよね」

 結季は嬉しそうだ。

「え?」

「私のわがままに付き合わせちゃったのに怒ってないですから」

 真尋は今日の結季の行動を思い返すが特にわがままな印象はない。飲み物を用意したり、弁当を作ってきたりと、わがままとは正反対だったと思う。

「どっちかと言えば結季さんの方が優しい人のような気がするけど」

「予告なしで山道を登らせましたよ?」

「確かに驚いたけど、お弁当も美味しかったし、楽しかったよ」

 礼を言うつもりだった真尋だが、食い気が真っ先に出てくるのは我ながらどうなのだとまたもや後悔した。

「それなら良かったです。そうだ、これ使ってください」

 結季から手渡されたのは雑貨屋の小さな袋だった。

「入浴剤です。筋肉痛になっちゃうと大変なんで、これ結構効果あるんですよ」

「ありがとう。というか準備良いね」

「私も筋肉痛になった事があるんで……あとマッサージも忘れないで下さいね」

 結季は本当に準備のいい人だと真尋は感心しながら、またお礼を言う。

「そうだ。もう一つお願いがあるんです」

 結季が急に何かを思い出したように真尋に訊ねる。真尋も「なに?」と返事をする。

「握手してもらって良いですか?」

「握手? あの、なんで?」

 何故ここに来て握手なのだろう。別れの挨拶にしても握手は不自然だ。

「その……デートなのに手を繋いでなかったなーって思い出しました」

 結季は少し頬を赤らめながらそう言った。

「あ……確かに」

 それは真尋が一番心配していたことだった。

 今日は友人同士――厳密に言えば友人でもないのだが――のお出かけではなく、恋人としてのデートなのだ。恭子に散々言われていたことなのに注意していたのは最初だけで、すっかり真尋の頭から抜け落ちていた。

 恋人らしい振る舞いが何かと問われた時に、真尋の頭に真っ先に浮かぶのは『手を繋ぐ』もしくは『腕を組む』というものだった。恋愛経験のなさが如実に表れた結果だが、それは仕方がないと心の中で自分に言い訳をする。

 真尋は一瞬のためらいのあと「こんな手で良ければ」と右手を差し出した。


「真尋さんの手、冷たいですね」

 この真冬に手袋もせず、ポケットにも手を入れてなかったからだろう。「ゴメン」と謝る真尋に反して、結季は嬉しそうにしている。

「手が冷たい人は、心が暖かくて優しい人だ。って祖父が言ってたのを思い出しちゃいました」

 真尋は嬉しそうに話す結季に苦笑しながら手を離した。

 そういう話を聞いたことはあるが、信憑性は定かではないし、少なくとも真尋は「自分は優しくない」と思っている。

「迷信ですけど、結構当たってるかもしれませんよね」

 結季が真尋の考えを見透かしたようにそう言った。

「えっ……」

「それじゃあ、また。連絡待ってます」

 深く一礼してから結季は去っていった。


 結季を見送った後、真尋は握手した手をじっと見つめて先程の言葉を考えていた。

 自分が優しい人間だったらどれだけ良いことだろう。せめて真尋のことを真っ直ぐに好いてくれる結季にはそう思われていたい。そんなことをふと思った真尋だった。


(8)

 真尋は早朝、夜も明け切らないうちから寒さと筋肉痛を相手に戦いながら自転車のペダルを漕いでいた。筋肉痛の原因は勿論、昨日のデートである。神社にお参りするぐらいなら楽だろうと思っていたが、蓋を開けてみると、かなり体育会系なものだったと言える。標高は低かったとはいえ、山道に何百段もある階段を上るのはそれなりのスポーツだった。

 昨日の別れ際、結季に貰った入浴剤も使ったが、効果は今一つだったようだ。マッサージが足りなかったのかもしれない。真尋は太股が張ったような痛みに耐えながら自転車を漕ぎ、バイトに向う。

 真尋のバイト先の一つである小さなカフェ「ループ」では早朝五時の開店準備から午後五時まで、休憩二時 間を含めて十二時間勤務をしている。時給千円でまかない付き、コーヒーなども飲み放題。拘束時間は大きいが、仕事自体はそれほど忙しいというわけでもなく、真尋にとっては好条件の職場だった。事実、収入の大半がここでの給料である。

 店長の紗英は本人曰くまだ二十代だというが、落ち着いた雰囲気を持つ女性だ。一人しか居ない従業員――真尋ともすぐに打ち解けなにかと世話を焼いてくれる。働き初めてもうすぐ一年だが非常に良い雰囲気の職場だった。余った食材を持ち帰らせてくれるのも大きな魅力の一つでもある。


「おはようございま――」

「おいっすー」

 店のドアを開けた真尋の耳に飛び込んできた挨拶は紗英ではなく、聞き慣れた友人の声だった。まだ朝の五時にもなっていなのに、何故か恭子が店内にいたのである。

 恭子は真尋がここでバイトを始めてから数ヶ月後には常連になってしまった。真尋のバイトが休みの日に店を手伝ったりしている事もあるようだが、開店前に店にいるというのは珍しい。

「あ、真尋ちゃんおはよう」

 紗英が厨房から顔を覗かせ挨拶を返す。

「店長、開店前なのに良いんですか?」

「恭子ちゃんなら問題ないわよー」

 紗英はのんびりとした口調で返す。

「さすが紗英さん。そういうところ好きです」

 年上が好みの恭子にとって、紗英はストライクゾーンど真ん中だと言っていたが、本人を目の前にしてこうも簡単に「好き」だと口に出来るものかと真尋は感心する――自分だったら恥ずかしくて無理だと思う。もっとも紗英は「あはは」と笑って軽く受け流しているのだが。

「これから仕事なんだから、悪いけど相手出来ないよ」

 真尋は店の奥に入り、シンプルな白いシャツと黒いショートエプロンの制服に着替えながら大きな声で恭子に伝える。

「えー昨日の事聞きたいのに」

 恭子はふてくされた声で抗議する。

「そうよ、私も聞きたいわ。デートの話」

 次に真尋の耳に飛び込んできたのは店長の声だった。

「……なんで店長が知ってるんですか?」

 聞くまでもなく恭子が伝えたのだろうとは思うが、一応確認を取ってみた。

「恭子ちゃんから聞いたんだけど?」

 やっぱりか――真尋はため息を付く。この様子では他にも言い触らしてないかと心配になる。

「紗英さんも聞きたいですよねー」

 恭子の声が聞こえる。

「あの真尋ちゃんがデートだ。って聞いて気になっちゃって」

 着替え終わった真尋は厨房に入り手を洗う。

「『あの』って私にどんなイメージを持っているんですか?」

「んー、恋愛に奥手?」

 物腰は柔らかいがズバリと言い当てられてしまった。紗英の洞察力はかなりの物だ。関係ないかもしれないが流石に二十代で店を構えただけの事はある。

「開店準備が終わってからにしましょうよ」

 朝のカフェは忙しい。モーニングサービスに提供するサラダやゆで卵の準備や昼からのランチの仕込みもある。無駄話をしている場合ではない。

「それなら、恭子ちゃんが手伝ってくれたから大丈夫。開店までゆっくりと話出来るわよ」

 真尋が恭子のほうを見ると得意げにVサインをしている。

「話聞く為だけにそこまで?」

「だって、気になるじゃない。私も協力してる訳だし」

「だからって仕事場まで来なくても……」

「反省会だよ。早い方が良いかな? って」

 いくら早い方が良いと言っても限度がある。朝五時前に友人のバイト先にやってきて、なおかつ仕事を手伝う恭子の行動力には呆れを通り越して感服すら覚える。もっともバイト代はしっかりと受け取っているらしいが。

「反省することなんてないよ」

 真尋は困惑した表情で答える。心配してくれているのは有り難いが、興味本位の覗き見的な気配が感じられるからだ。しかし、協力を頼んだ以上邪険にも出来ない。

「まだ二日恋人期間が残ってるじゃない。より良くする為の作戦会議だよ」

 そう言われると真尋には返す言葉がなかった。


(9)

「さて、朝ご飯を食べながら話をしましょう」

 紗英が用意していた朝食をテーブルに運ぶ。

 朝のまかないはまだ客のいないテーブルを使い紗英と二人、ゆっくりと食べるのが習慣である。今日は恭子が居るので並べられた食事は三人分だ。

 淹れたてのコーヒーの芳香が漂い、真尋の空腹の虫を刺激する。真尋は誘惑に負けて素直に席に移動した。

「さあ、いただきましょうか」

「いただきまーす」

「……いただきます」

 三者三様の挨拶をしてから紗英はコーヒー、恭子はトースト、真尋はベーコンエッグに手を伸ばした。

「で、感想は?」

 食事が四分の一ほど進んだ所で恭子が真尋に問いかける。

「山道が意外とキツくて。今、筋肉痛……」

「じゃなくて。盛り上がった話とか」

 山道がキツい以外で真尋の印象に残っているのは、結季の弁当を食べながら交わした料理の話だった。料理の話だが、玉葱カレーの話はインパクトがあったのか結季に同情されたと伝える。

「デートで同情されてどうするの。しかも世話になりっぱなしじゃん」

 恭子は眉間に皺を寄せている。

「でも結季さんは楽しそうにしてたし」

 そう言いながらも、やはりデート向きの会話ではなかったのかと真尋は後悔する。

「良いじゃない、真尋ちゃんの日常が覗けるし」

 不安そうな真尋を見かねたのか、紗英が助け船を出す。しかし、日常がこんな調子だと知られるのは若干恥ずかしい気もする。やっぱり失敗だったかと真尋は少し落ち込む。

「まあ、相手が楽しんでたなら……っていうかいつの間に『結季さん』なんて呼び方になったの?」

 恭子はトーストをかじりながらニヤついた笑顔を浮かべる。

「向こうが『結季で構わないです』って言――」

「なら、呼び捨てにしてあげないと駄目じゃん!」

 興奮気味に真尋の言葉を遮った恭子は責めるような口調だ。勢い余っているのかテーブルの空きスペースを平手でパシパシと叩いている。

「ゴ、ゴメン――ってなんで怒られてるの?」

 真尋も恭子の勢いに負けてつい謝ってしまったが、恭子が何故怒っているのかの理解がいまいち進まない。

「恋する乙女の気持ちを理解してあげなよ、鈍感なんだから」

「いや……鈍感って言われても」

 恭子は真尋に一体いくつレッテルを貼るつもりなのだろうか。「抜けてる」「天然」と来て、今度は「鈍感」だ。

「好きな人から親しげにファーストネームを呼び捨てにされたら、こう、胸の奥が疼くものなんだよ?」

 恭子は腕を組み、難しい顔で力説している。残念ながら真尋にはその辺りの心理がよくわからない。

「……そういうものなんですか?」

 真尋は横に座っている紗英に視線と疑問を投げかける。少なくとも恭子よりは頼りになるはずだ。

「んー、自分だけがその人にとって特別って感じに思える時もあるかな? 特に耳元で囁かれると――」

「あああ、相手は誰ですか!」

 さらっと際どそうな発言をした紗英に恭子が慌てて詰め寄る。

「昔の恋人」

 紗英は懐かしそうに答える。

「ば、場所は?」

「そうね――ソファで映画を見ながらとか」

「……そういうのが好きなんですね?」

「嫌いではないけど?」

「じゃあ、今度試させてください」

「あはははは、面白いねー恭子ちゃんは。あれ? そういえば真尋ちゃんのデート相手って女の子なの?」

 紗英は恭子のアタックを笑って流し、その上に今更な疑問を口にしているが、恭子の方はかなり真剣だ。若干目が血走っている。

 二人は当事者そっちのけでピントのずれた会話を繰り広げている。真尋は話の中心から逸れたことを喜んでいた。この間に早く朝食を食べてしまおうとベーコンエッグをトーストに乗せて一気にかじりつき、コーヒーで流し込んだ。

「で、次はいつデート?」

 真尋が食べ終えて一息ついたとき、放り出されていた話題が戻ってきた。急激に話が戻ったので飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになる。

「決めてない。休みが出来たら連絡するって言っておいたけど」

「早めに決めてあげないと、準備とかあるんだから」

「準備って……心の準備?」

 真尋は実際にかなりの心の準備をしていた。いざデートが始まってみると若干空回りに終わった気もするが 。

「あれ? 佐倉から聞いてないの?」

「何を?」

「あの子、新学期に入ったら海外に行くって話だよ」

 初耳である。昨日、結季はそんな話は一切しなかった。

「ホームステイとか?」

「いや、なんかヨーロッパの実家に帰るとか。だからデートも早めに決めてあげないと渡航準備が大変じゃん?」

「実家? ヨーロッパが?」

「あれ、知らなかった? おじいさんが外国の人だよ」

「……知らなかった」

 初めて聞くことだらけだ。結季が神社巡りを好きなのも物珍しいからなのだろうか。

 しかし何故デートをした当事者よりも外野の方が事情に詳しいのだろう。真尋が無頓着なだけかもしれないが、謎である。

「だから真尋が楽しい思い出を作ってあげないと駄目なんだよ」

「そこでどうして……って、そっか」

 理由はともあれ、日本に慣れている人が外国へ行って生活をするのは大変な労力がいるだろう。

 真尋は自分が初めてこの街に来たときの事を思い出す。見慣れない風景、見知らぬ人、一時期落ち込みかけた事もあるが、言葉が通じたからこそまだ救いがあった。ところが結季は言葉も通じない――外国語は話せるのかもしれないが――生活習慣もまるで違う外国に行くというのだ。

 おそらく、結季は日本から遠く離れる前に、想い人である真尋に勇気を出して気持ちを告白したのだ。もしかしたら結季にとってはそれだけで良かったのかもしれない。

 しかし、事態は転がり、三日間とはいえ『恋人』として真尋と一緒に過ごす事が出来る。それならば、良い思い出を心に残して貰う方が結季の為になるだろう。真尋も事情を知った今、もっと楽しくすごさせてあげれば良かったとの罪悪感を抱かなくても済む。

「そんな重大な話なら私も協力しないとね。早い所だと……来週の日曜なら休みに出来るわよ?」

 紗英がいつの間にかシフト表を取り出していとも簡単に言う。既に赤いペンを手にしており、今すぐにでも『休み』と書きたそうにしている。

「いや、でも……」

 休むとバイト代が減るので、真尋としては出来れば避けたい。しかし早めに日付を決めないと結季のほうに迷惑がかかるかもしれない。こういう時の優柔不断さが真尋に重くのしかかる。

「鉄は熱いうちに打てって言うじゃない。スピードが大事だよ?」

 恭子が真剣に語っている。

「そうね、こういう事は早い方が良いわね」

 紗英も恭子に同意している。

「そういうもの……ですか?」

「「そういうもの」」

 紗英と恭子の二人の声が揃った。

「……わかりました。来週の日曜日にお休みいただきます。結季さんには後でメールしておきます」

 恋愛に疎い真尋はその言葉に従うより他に道はなかった。ここで抵抗しても、この二人が相手ではきっと無意味に終わる。

 約一時間ほどの反省会らしきものが終わったところで恭子は帰っていった。それでもまだ朝の六時を少し過ぎた所だ。開店時間は六時半なのでそろそろ常連がやってくる頃だ。 真尋はコーヒーサイフォンをセットする 。

 開店前から変に疲れた気もするが、とりあえず今の課題は筋肉痛と戦いながら仕事をこなすことだった。


 モーニングサービスの時間が過ぎて、次のランチタイムまでの休憩時間、真尋と紗英の二人で新たな会議が開催されていた。

 真尋にとっては少なくとも恭子よりも頼りになるであろう紗英が相談に乗ってくれると思うと心強い。恭子には悪いが安心感が違う。

「映画にショッピングってデートの王道ですよね?」

 休憩時間に真尋が結季に宛てて送っておいたメールの返信が、『映画が見たいので近場のシネコンがあるショッピングモールに行きたい』との内容だったのだ。

 真尋はデートのことはよくわからないが、多分このプランが王道なのはなんとなくわかる。

「学生の定番ね。青春だわー」

 紗英はそう言うと懐かしそうに笑っている。紗英の年齢を考えるとそれほど昔ではないと思うが、遠い目をしている。

「……私、映画館初めてなんですけど大丈夫ですか?」

 真尋は映画館という所に行ったことがない。テレビやレンタルで済ませる方が安く済むという理由だ。しかし、こんな事になるのなら社会経験として一度は行っておけば良かったと思った。

「チケットカウンターに行って『学生二枚』で何とかなるわよ。それに今はほら、画面をタッチするだけで買えたりもするし」

「できますかね……」

 デート自体も初めてだが、それにまつわる諸々の事も初めての経験ばかりで目まぐるしい。少しの期待で胸が躍ると共にそれよりも大きな不安が真尋の頭をよぎる。

「真尋ちゃんなら大丈夫。昨日だってちゃんと出来たんでしょう?」

 紗英から根拠のないお墨付きを貰ってしまった。

「反省会したわりに結論は出てませんよ?」

 反省会自体も、主に恭子によって途中で大いに話が脱線した後、次の予定を半強制的に決められたようなものである。

「デートって相手が怒ってなければ大丈夫なものよ」

「一応『楽しかった』って言われましたけど……」

「じゃあ、次も同じ感じでいけば大丈夫!」

 真尋は紗英の力強い言葉に少しずつ勇気づけられる。

「反省会リターンズ!」

 店の外に準備中の札がかけられているにも関わらず、ゲンナリする台詞と共に恭子が店に舞い戻ってきた。真尋は大きく溜息をついた。

「もう済んだでしょうが」

 真尋が呆れ顔で恭子を見遣った。

「いや、結論出てないじゃん」

 恭子は自分が話を脱線させていたわりに、結論が出ていなかった事をきっちりと覚えていた。真尋は心の中で舌打ちをする。

「結論もなにも次の予定も決まったよ?」

 恭子に簡単に次の予定を話すと「王道すぎる」との評価が出てきた。

「だから作戦とかわざわざ考えなくても大丈夫だと思う」

「でも、これじゃあただ買い物に行く友達同士だよ?」

 恭子は真尋に詰め寄り、真尋の心臓の辺りを指で軽くつつく。

「……それで良いんじゃないんですか?」

 真尋はその迫力に気圧されてしまい、相手の出方を伺うように、つい敬語になってしまっている。

「『恋人になって下さい』って約束だったでしょ? 恋人の対応で接しないと」

「そうだった……恋人――」

 真尋は頭を抱える。真尋は恋人の定義が何なのか未だにわかっていない。恭子に聞くとまた脱線しそうなので聞くつもりはないけれど。

「佐倉の印象はどうだった?」

 黙り込んだ真尋に恭子が訊く。

「え、えーと。笑顔が可愛くて、しっかりしてる」

「それだけ?」

「一生懸命な感じで凄く良い子――かなぁ」

「好き? 嫌い?」

「急に二択を迫られても……そんな……」

 恭子は矢継ぎ早に質問を投げかける。

「恋愛感情なしで。好きか嫌いか」

「……好き。かな」

 真尋の中では結季のことを恋愛感情なしでも『好きだ』と言い切れるだけの判断材料をまだ持っていないので曖昧な返事になっってしまった。

「よし、次は真尋からもその好きだって気持ちを出していこう」

「どうやって?」

「手を繋ぐ、身体に触れる」

「意味がわからないのだけど」

 どこをどうすればいきなり手を繋ぐという話になるのだろう。恭子の提案はいつもどこか一足飛びのような気がする。

「でも好きなんでしょ? あ、恋愛感情抜きで」

「だからって手繋ぐの?」

「友達でも手ぐらい繋ぐでしょ」

「恭子と繋いだことないじゃん。前に避けたでしょ」

「私だから嫌なのかなと思ってたんだけど」

「そうじゃなくて、誰かと手を繋ぐとか触れられたりするのが苦手なんだってば」

 真尋が恭子と出会ってすぐの頃、やたらとスキンシップをとりたがる恭子をかわしていた。何度か続くうちに恭子の方もそうべたべたと引っ付いてくることはなくなった。恭子より年下だということが判明して、恋愛対象ではなくなったからなのかと勝手に思っていたが、恭子も恭子で気を遣ってくれていたらしい。

 真尋は恭子が苦手なのではなく、相手が誰であれ過剰なスキンシップが苦手だ。女子校ならではの習慣だと思っているのだが、真尋にはその習慣がないのでついつい避けてしまうのだ。未だに馴れなくて必要以上に人との距離が近くなると思わず避けそうになってしまう。

「スキンシップが苦手な人って結構多いわよね。私も苦手なほうなのよね」

 二人のやりとりを聞いていた紗英が頷いている。紗英はその辺りをわかっているのだろう。真尋に対して最初から過剰なスキンシップというものをしてこなかった。だからこそ真尋にとってこの店の居心地が良いというのもある。

「ですよね?」

 紗英の言葉に真尋は強力な味方を得た気分だ。

「そういうの苦手なのかー」

 恭子が頭を抱え込んだ。

「そう。だから手繋ぐとか無しで作戦を――」

「紗英さんへのハードル高いなあ」

 顔を上げた恭子が悔しそうに呟いた。

「そっち!?」

 恭子は紗英が絡むと途端に本題から脱線する。今回の件に協力しているからこそ、こうして真尋の仕事場にまで来てくれているのだが、この姿を見ていると本当は真尋のことはどうでもよいのではないだろうかと疑いたくなる。

「で、好きだって気持ちを押し出すんだけど――」

 また話が本筋に戻った。

「好きって言っても恋愛じゃないんだよ?」

「じゃなくてもいいから出すの! 好きな人から好きオーラ出されて嫌がる人間はそんなにいないから」

「そういうものですか?」

 真尋はまたもや紗英に助けを求める。

「両想いならそうね」

「両想いとかいうのには遠い気がするんですけど」

「あら、好きに尺度は関係ないわよ」

「尺度……ですか?」

「そう。遠いも近いも、早いも遅いもないの」

 紗英は時々まだ二十代とは思えないような意味深い――ともすれば意味のわかりにくい――ことを言う。

「そういうものですか……」

「だから、真尋ちゃんが丁寧にその気持ちに向き合えば、相手も喜ぶわよ」

「はあ……」

 恋愛をした経験のない真尋にはイマイチわからないけれど、そういうものなのだろう。

「流石紗英さん! 良いこと言う!」

 恭子が拍手をしている。紗英も満更ではない様子で少し照れている。そんな紗英を見て恭子が「可愛いなあ」などと言っている。協力してもらっておいて悪いが、今回に関しては恭子は何をしに来たのか真尋は少し疑問に思うところだ。

「じゃあ、その……す、好きだって感じを押し出せるように――というか、結季さんが喜んでくれるようにがんばってみます」

 早く結論を出してこの場から解放されたい真尋の言葉で反省会が終わった。

 ――と思われたが、まだ試練が残っていた。

「そういえばさ、真尋ってデート向きの服持ってる?」

「え?」

 恭子の素朴な疑問で何かが振り出しに戻った。

「デートに着られるような『ゆるふわ愛され系』みたいなのとか」

「ゆるふわ愛され系……」

 真尋は恭子の言葉をそのままオウム返しする。大体のイメージとして女性らしいフリルやレースでもあしらわれているようなふわっとした服なのだろうとの理解はできるが、残念なことに真尋はその辺りに該当する服は持っていない。

「真尋のスカート姿も見たことないなー。スカート持ってる? ワンピースとかさ」

「あ、それなら前に紗英さんに貰ったのがあるから――」

「貰っ……た?」

 ヤバイ。恭子の様子を見た真尋は直感的にそう思った。恭子は紗英が絡むと話が妙な方向に脱線する。

「ああ、その――私あんまり服持ってないから可哀相に思って! 多分!」

 真尋は慌てて言葉を繋げるが、恭子は押し黙ったままだ。

「でもあれはフォーマルだし、ちょっとデート向きではないわね。結婚式なんかのおよばれ用かしら」

「ええー高そうなやつじゃないですか」

「高ければいいってものでもないわよ」

 紗英は苦笑いだ。貰っておいて今更なのだが、真尋が高そうだと言ったことを否定しない辺り、本当に高いものではなかったのだろうかと真尋は少し不安になるが、貰ってしまった後なのでどうにもならない。

「私も紗英さんのおさがり欲しい……」

 しばらく沈黙していた恭子がうめくようにそう呟いた。

「でもあれが駄目だったら何を着れば良いんでしょう?」

 真尋はそれを無視して紗英と相談をする。恭子が持ち直すまでもう少しかかるだろう。それほど長い付き合いではないが、その辺りの機微は大体わかるようになってきた。

「うーん。例えば――」

 紗英は店内のマガジンラックからファッション誌を取り出してページをめくっていく。

「こういうのとか?」

 見せられたページには真尋が今まで着たことのないような淡いピンクのワンピースが載っていた。見出しには確かに『ゆるふわ』と書かれている。

「……これですか」

 写真を見た真尋はそれきり絶句した。今までに着たことのない系統の服なので自分に似合うかどうかの判断がつかない。

「まあ、これは極端というかカジュアル系の真尋ちゃんにはどうかしら」

「じゃあなんで見せたんですか」

「耐性をつけてもらおうと思って」

 紗英が笑顔で答える。嫌みのない爽やかな笑顔だ。もしかしたら紗英も真尋のこの状況を楽しんでいるのではないだろうか。

「結局のところ私はどういうものを着れば良いんですか?」

 デートに挑むための良識として前回と同じ服は駄目だろう。しかし雑誌で見せられた服は真尋にとってハードルがかなり高い。今持っている服の中でその他に適当な服も思いつかない。真尋はまた頭を悩ませる。

「よし。今から二人で一緒に買いに行きましょうか」

 真尋の様子を見ていた紗英がそう切り出した。

「えっ! 一緒に? 二人で?」

 紗英の言葉に真尋よりも恭子が先に反応した。

「そう。お買い物デート」

 楽しそうに紗英がそう言った。

「ううう。なんで真尋ばっかり……」

 回復してきていたはずの恭子にまたダメージが加わったようだ。テーブルに突っ伏してそのまま動かない。

「今からってお店があるのにどうするんですか。それに私、予算がないんですよ?」

 生活費のこともあるが、そこからやりくりする次のデート代のこともある。前回のデートでは世話になりっぱなしだったのだから、次の映画代くらいはお返しとして真尋が負担したいところだ。悲しいことに真尋には余分なものを(厳密には余分ではないが)買っている余裕はない。

「ああ、お店は私が店長なんだから午後から臨時休店で大丈夫よ。予算も私が――そうね特別ボーナスということでどうかしら?」

 紗英は割と突拍子のないことを言い出す。

「そんな。甘える訳にはいきません」

 真尋はそれを断ろうとするが――

「どうして?」

 紗英が落ち着いた口調で訊いてきた。

「え……」

 そう訊かれると答えられない。単に紗英に迷惑がかかるからというだけでは、紗英本人が良いと言っているのだから断る理由にはならない。真尋は理由を見つけ出そうと思考を巡らせる。

「臨時休店は私が休みたいから。特別ボーナスは真尋ちゃんが努力した結果でしょう? それがたまたま重なっただけ。甘えじゃないわよ?」

紗英は真尋の考えていた断る理由を先回りの回答で塞いだ。

「そう言われると返す言葉がないのですけど……」

 言おうとしていた理由全てを先回りされた真尋は困り果ててしまった。

「それでいいの」

 紗英がはっきりと言い切った。真尋が紗英には敵わないと思った瞬間だった。


(10)

 結局紗英に押し切られて、臨時休店からの買い物デートが決まった。

 かき入れ時の休日に、それほど重要でもない理由で休む店など真尋はあまり聞いたことがない。

 真尋としては店の経営が心配になるのだが、紗英は自分の店にもかかわらずそんなことは全く気にしていないようだ。経営者たるもの、それくらいのことで動じないほうが良いのかもしれないと思わせるほどに、至って普通――というよりは楽しんでいるように見える。

 紗英は店のシャッターに『臨時休店』と書いた紙を鼻歌混じりで貼り付けている。

 その後ろでは恭子が眉間に皺を寄せて苦悶の表情をしていた。紗英が恭子のアプローチに気付かないどころかその友人の真尋と二人で買い物――しかも紗英は買い物『デート』と言っている――に行くことになってしまうだなんて、恭子にとっては悔しくてたまらないのだろう。

 真尋は勝手にそう解釈しているが、恭子の本音はわからない。訊くのも少し怖い。

「さあ、行きましょうか。真尋ちゃん」

 店のシャッターの施錠を確認して、紗英が駅の方向に歩き出した。足取りは軽い。やはり楽しそうだ。真尋は慌ててその後をついて行く。

 後ろから恭子の恨みがましさがこもった「いってらっしゃい」という声が聞こえたが、そこまで無念ならなぜ一緒に行くと言わないのかが不思議だと真尋は思った。しかし、恭子にも何か意地があるのかもしれない。酷いとは思うが、とりあえず放っておくことにした。


(11)

 真尋と紗英は駅前にある、ブティックまでやって来た。

 駅前の一等地にあるため、駅を利用する時には誰もが必ず目にする店だ。真尋も毎日のように見ている。もっとも、店構えが高級そうなので真尋は一度も店内に入ったことはない。

「さて、楽しいお買い物ー」

 紗英が勢いよく店のドアを開けて入っていった。真尋は紗英の後ろに隠れるような足取りでそっと店に入った。

「いらっしゃいませ――って紗英さんじゃないですか」

 洗練された雰囲気の服装をした店員が、親しげに紗英に挨拶をする。様子を見るに、紗英はこの店の常連のようだ。

「今日はどうされました?」

 店員が紗英に訊ねる。

「この子に似合いそうな服を探しに来たの。しかもデート用」

 紗英がそう言って後ろに隠れていた真尋を店員の目の前に引っ張り出した。真尋に店員の視線が注がれる。どこか居心地が悪い。というかあまりじっくりと見られると気恥ずかしい。

「なるほどーうん。どちらかというとパキッとした感じの服が似合うかもしれませんね」

 真尋を数十秒眺めた店員がそう言った。

「でしょう? 私もそう思ってたの」

 紗英も店員の意見に同意しているが、二人が言っている「パキッとした服」というのはどういうものなのだろうか。ファッションに疎い真尋には想像が付かない形容詞だった。

「じゃあとりあえずこれとこれを試着で――」

 店員が何着かの服をセットアップで持ってきて真尋に渡した。

 折りたたまれた状態だったが、真尋の見た範囲では、どれも落ち着いた色合いでデザインもシンプル――ワイシャツを重ね着にしたようなカットソーだったり、シンプルなプリーツスカートだったり――というものだった。

 これが紗英たちが言う「パキッとした服」なのだろう。こういったことは専門家に任せるのが一番だ。真尋は言われるがままに試着室へと向かい、中に入った。試着をしようとして、真尋は何気なく服に付いているタグの値段表示を見て絶句した。一枚のカットソーが一万円台後半なのだ。他のシャツやスカートも全てその辺りの価格帯だった。

 この値段を前提として、全身をコーディネートしてもらったら――真尋の部屋の家賃を軽く超える。紗英は特別ボーナスだというが、すんなりと貰うにはいくらなんでも心苦しい。試着をすることですら躊躇ってしまう。

「どうかしら?」

 試着室のカーテンの外から紗英の声が聞こえる。真尋が悩んでいる間に数分経っていたようだ。

「あ、今着ます」

 真尋は慌てて服を着替える。しかし、慎重に、何処かに引っかけたりしないように――

 そうして着替え終わった真尋がカーテンを開けた。

「あの……どうですか?」

「うん。やっぱりパキッとした感じが似合うわね。これにしましょうか」

 紗英は真尋の姿を見て優しく微笑む。やはりこれが「パキッ」とした服だったようだ。

「えっと……さっき値段見ちゃったんですけど、こんなに高いものはやっぱり――」

 試着しておいて今更とも思うが、真尋の頭に「遠慮」の二文字が浮かぶ。いくら特別ボーナスとはいえ、高すぎる。

「ああ、私ここのオーナーだからいつでも割引価格でお得に買えるの」

 だから心配しないで。と紗英が言った。

「そうなんですか――って、え? えぇ?」

 真尋は驚く。聞き間違えていなければ「この店のオーナーだ」と言ったはずだ。

「割引がそんなに珍しい?」

 紗英は驚いている真尋を不思議そうに見ている。

「いや、そうじゃなくて。紗英さんカフェのオーナーですよね?」

「そうよ?」

「で、このお店もオーナーなんですか?」

「そうよ?」

 紗英は真尋が何を不思議がっているのか全くわかっていない。

「そんなに手広く経営してるとは思いませんでした」

「ああ、それが珍しかったの? でも、このくらいは普通だと思うわよ」

 紗英はさらっと言ってのけているが、真尋にとっては普通じゃない。それにしても紗英の不思議さがまた深まってしまった。


(12)

「特別ボーナスだって言ったのに、まだ気にしてるの?」

 真尋と紗英の二人は「ループ」へと戻るために歩みを進めていた。

 真尋は店の紙袋を抱えて申し訳なさそうに、紗英は楽しそうに、それぞれ表情が違っていた。

「だって、特別ボーナスだとしても、全部で五万円を超えたんですよ?」

 あれから――靴も必要だということで、近くにある紗英の知り合いの靴屋に寄り道をして、今回選んだ服に合う、本革のブーツまで揃えて貰ったのだ。

 割引をしてもらったとはいえ、真尋の部屋の一ヶ月分の家賃を軽く超えてしまった。

「日頃の真尋ちゃんの働きに対してだと足りないくらいだわ」

 紗英はさらっとそんなことを言っているが、どう考えても買い被りだろう。

「そんなに働いてないと思うんですが……」

「そんなことないわよ。お店にいてくれて助かってるんだから」

「でもですね……」

 やはり何処か心苦しい。買ってもらった服の紙袋が実際の重さ以上に重たく感じる。

「よし。それじゃあ寂しいお姉さんの夜遊びに少しつき合ってもらおうかな?」

 紗英はそう言うと真尋の手を引いて、繁華街へと方向転換した。


 二人は落ち着いた雰囲気のバーにたどり着いた。

 店に入るとカウンターの中にいた初老の人の良さそうなマスターが紗英を見て「やあ、いらっしゃい」と笑顔を向ける。

「彼女にはシンデレラを。私はオペレーターにしようかな」

 紗英は店内の一番奥の椅子に腰掛け、スマートにカクテルの注文をする。真尋はその隣に座った。

「私未成年なのでお酒は――」

「大丈夫。シンデレラはノンアルコールカクテルだから」

 落ち着いたバーで躊躇いなく注文する紗英はかっこいい。大人だと真尋は感心する。

 数分後、二人の前にグラスが並べられた。

「はい。かんぱーい」

 紗英がグラスを持ち、真尋のグラスに軽くコツンと合わせた。

 紗英はそのまま一気にグラスの半分くらいまで喉に流し込んだ。

 その様子に呆気にとられたが、真尋も乾杯と返してからノンアルコールカクテルを口にする。要するにジュースなのだが、今までに味わったことのない複雑な味だった。

「あの……どうしてここまで良くしてくれるんですか?」

 暫くの沈黙の後に真尋が訊く。紗英とはカフェのオーナーと従業員という立場だが、仕事場以外での接点がそれほどあるわけではない。

「うーん。真尋ちゃんほっとけないんだもの」

「頼りないですかね……」

「そうじゃなくて、こう――愛でてたい?」

「愛でるって……紗英さん酔ってます?」

「うふふふ。酔ってません」

 酔ってないと自己申告する人は酔っている。との話を真尋は耳にしたことがあるが、紗英の場合はどうなのだろう。様子を見ても普段よりは少し上機嫌だなといったくらいだ。グラスもいつの間にか空になっていて、次のカクテルのおかわりを頼んでいる。

「何でも一生懸命でしょう? そういうところがいいのかもね」

 マスターから差し出されたグラスを一気にあおり、一息ついた後に紗英がそう呟いた。

「何がですか?」

「さっきの話の続き。真尋ちゃんをほっとけない理由」

「一生懸命――そんなことは無いと思うんですけど」

「ほめ言葉は素直に受け取ること」

 紗英はそう言うと真尋の額を指でツンと突いた。

「……はい」

「いい子。お姉さんはキミを持って帰りたい」

「ぶっ――」

 紗英の突然の言葉に真尋は飲みかけていたシンデレラを吹き出した。恭子が耳にしたら一生恨まれそうな予感すら覚える台詞だった。

「あの……かなり酔ってますよね?」

 ちゃんと会話のキャッチボールはできているが、普段の紗英ならそのようなことを言わない――はずだ。

「うふふふふふ」

 紗英は真尋の問いには答えず、ただひたすら上機嫌に笑っている。

「ああ、紗英さんがこうなったら帰らせる頃だよ」

 カウンターにいたマスターが落ち着いた声で真尋に言う。紗英のグラスはいつの間にか空になっていたが――まだ二杯目だったような気がするのは真尋だけだろうか。ペースが速すぎるのか、それとも頼んだカクテルがアルコールの強いものだったのだろうか。

「わ、わかりました。連れて帰ります」

「タクシーに突っ込みさえすれば一人でちゃんと帰る人だからね」

 マスターは慣れた様子でそうアドバイスをした。

「はい。そうします。あ、お会計――」

 真尋にはおそらくここの代金を払えるほどの持ち合わせがない。といって紗英の財布を勝手に触るのはマナーが悪いだろう。

「ツケとくから大丈夫だよ」

 真尋はマスターに礼を言ってから紗英を連れて店を出た。紗英も素直についてくる。大通りに出てすぐにタクシーも捕まえられたので、若干無遠慮に紗英を後部座席に押し込めた。押し込める間も紗英は上機嫌に笑っていたので、真尋にすれば少し心配だが、紗英の理性を信じることにした。

 それにしても酔っぱらいというものはこういうものなのか。また一つ真尋の社会経験が増えた一日だった。


(13)

「わーイメージ違いますねー」

 デート二日目。ショッピングモール入り口近くの待ち合わせ場所に現れた結季は、真尋の姿を見て興奮気味にそう言った。

「そ、そうかな……」

「いつもジーンズのイメージだったので、スカート姿は新鮮です。可愛いです」

 結季が頬を紅潮させてはしゃいでいる。普段見慣れない姿というものはこれほどまでに人をはしゃがせるのだろうか――真尋自身も普段着慣れてない服を着て、気分は少し高揚しているけれど――褒められるのは悪くない気分だ。

 そう言ってはしゃいでいる結季は、この前紗英に見せてもらった雑誌に載っていたような、ふわっとした色合いのワンピース姿だった。結季のイメージによく似合っていると思う。

「いや、そんな……恥ずかしいけど、ありがとう。結季さんも可愛いです」

 真尋が素直に感想を述べると、結季が更に頬を赤らめてソワソワした感じになった。その様子がなんとなく可愛らしくて真尋も自然と笑みが零れる。

 この分だと今日のデートはなんとかなりそうだ。真尋がそう思った矢先――

「あの……今日は手を繋いでもらえませんか?」

 結季が突然そんなことを言い出したのだった。

「えっ。えっと――うん」

 真尋は一瞬の躊躇いの後で了承した。真尋が苦手とする身体的な接触だが、恋人として過ごさなければならないのだから、それが当然なのだろう。そう割り切ることにしたのだ。

 だが、どちらも手を差し出さない。どうやって手を繋ぐきっかけを作ればいいのだろうと、真尋は乏しい経験で考える。そして――

「あの……お手をどうぞ」

 と、舞踏会でダンスを誘う人のように右手を差し出した。――何かが違う気がしたが、真尋には最善の策だったように思う。

 結季の反応が一瞬固まったが、「真尋さんって面白いですね」との言葉と共に、すぐに自らの左手を真尋の手の上に重ねた。 

「じゃあ、行きましょう」

 若干浮かれているような結季が真尋を引っぱる形になり、二人は店内に入っていった。


(14)

「えっと、映画見たいんだっけ?」

 真尋が手を繋いで歩くのにも慣れた頃、映画館のフロアにたどり着いた。

 歩いている間、特に他の人からジロジロと見られることもなく、平穏だったと真尋は思う。自分が意識するより、誰も他人の事なんて気にしていないものだ。

「はい。気になってた作品があって――」

 結季が言うには予告編を見ただけだが、なかなかにスリルがある作品らしい。結季は真尋の好みに合うのかと心配していたが、真尋は映画をジャンル問わずに見られるタイプなので、心配は無用だと答えておいた。

「じゃあチケット買ってくるね」

 真尋は結季の手を解き、シネコンの入り口にあるチケット販売端末へと向かう。映画館は初めてだが、こういった機械は大体初心者でもチケットを買いやすいようにわかりやすく表示されている。

 真尋はタッチパネル式の機械に向き直る。思った通り、わかりやすくチケット購入を促す画面が表示されていた。

 何にかはわからないが、勝ったも同然だ。真尋は意気揚々と指定されたチケットを購入した。

「あの、チケット代を――」

 真尋がチケットを手にして、待っていた結季の元に行くと、やはり結季が財布を出していた。

「今日はお返しだから。私が持つからいいよ」

 無事にチケットを購入できて意気揚々としている真尋は、これ以上ないほどの満面の笑顔で結季にそう返した。たかがチケットくらいで――とも思うが、真尋にとっては大きな進歩だ。

 真尋のその様子があまりにも堂々としていたからなのか、結季もこれ以上ないほどに喜んでいた。


(15)

「すみませんでした……」

 映画を見終わった後、結季が消え入りそうな声でそう謝った。

 結季が謝った理由は映画の内容にある。

 序盤はミステリータッチの内容で話が進み、中盤になって何故かゾンビが大量に出没してパニック映画と化し、最終的には主人公とヒロインの濃厚なラブシーンで終わるという訳のわからない展開だったのだ。B級とも呼べないその作りは本当に謎でしかなかった。なぜこれを公開できたのかという疑問さえ浮かぶ。

 そう思ったのは真尋と結季の二人だけではなく、客席を後にする人たちは全て複雑な表情をしていた。

 真尋が思うに悪い意味で名作だったかもしれない。二度と見ることはないと思うが――

「結季さんが悪いわけじゃないと思うんだけど……」

 真尋は精一杯のフォローの言葉を探している。

「でも……でも、あんなラブシーンとかがあるなんて」

「あの展開からああなるなんて誰も予想できないんじゃないかな」

 真尋もレンタルで映画をよく見るほうだが、あんなジャンルがごった煮になったような展開の作品は見たことがない。結季が見たという短い予告ではそれを見抜くのも無理な話だろう。

「あんな映画を見たかっただなんて、変な子だって思われちゃうかもって」

 結季が今にも消え入りそうなほどの弱々しい調子で呟いた。

「そんなこと思わないよ」

 映画が変だっただけで、少なくとも結季は変な子ではない。それだけは確実に言えることだ。

「そうですか……?」

「そうだよ。ある意味思い出には残る映画だったでしょ?」

 真尋は無理矢理にポジティブな解釈をしてそう答える。

「……言われてみればそうですけど」

 結季はまだ何処か困ったような顔をしている。

「私は、結季さんと一緒に見れて良かったと思うよ? 思い出になるでしょ?」

「えっ――」

 真尋の言葉に、結季が頬を赤らめた。

「そんな風に思ってもらえるんですか?」

「だって、デートってどんなことでも大事な思い出になると思うんだけど……違うのかな」

 真尋はデートをしたことがない。しかし、一般的にはデートというものは思い出を作ったり、親睦を深めたりするものだろう。そんな中で今回のような予想を反した展開で印象に残るというものは少ないのではないだろうかと真尋は思う。

「えっと――そういう風に言ってもらえて嬉しいです」

 結季が溢れんばかりの笑顔でそう返した。その表情を見ると、何故か楽しい気分になれる真尋だった。


(16)

「お昼までまだ時間あるね。何処か行きたいお店とかある?」

 ショッピングモールの案内板の前で真尋は結季に訊く。

「あ、それならゲームコーナーに行きたいです」

「じゃあ行こう。四階だっけ?」

「えっと……」

 結季は何かを言いあぐねている。真尋の印象ではわりとハッキリしているように思える結季だけに、言い淀むのは珍しいことだ。

 しかし、真尋は結季を急かさず言葉を待っている。

「い、一緒に、プリクラを撮ってもらっても良いですか?」

 数十秒の沈黙の後に大きく深呼吸をした結季から出たのはそんな言葉だった。

「……は?」

 はたして一大決心をして言う事なのだろうか。真尋の口から間の抜けた声が漏れる。

「駄目、ですか?」

 結季はかなり切羽詰まった表情になっている。何がそんなに深刻だというのか。

「別に構わないけど……何でそんなに緊張してるの?」

「記念に写真が欲しいんです。真尋さんが写真嫌いなのは知ってるんですけど――」

「ま、待った。写真嫌いって何?」

 真尋が写真嫌いとは本人も初耳だ。一体どういう事なのだろうか。

「出回っている真尋さんの写真が極端に少ないんです。写真嫌いだからなんだって話で――」

 出回っているって何だろう――嫌な予感がする。

 そういえば以前、恭子がカメラにハマり「練習だ」と、真尋の写真を撮っていた。撮られるのが面倒で「一枚百円ね」と冗談で言ったら恭子は何かを思いついたようにして去っていったことがあるが、まさか――

「……その出回ってる写真って売られてたりしない?」

 個人的にはあまり「はい」との答えを聞きたくない質問だが、聞くしかない。本人の知らない所で写真が売買されているとしたら――

「はい。データだと一枚百円で、最高画質のプリントだと二百円です。カメラ目線じゃないものは五十円で――」

 覚悟はしていたのであっさり肯定されてもショックはそれほどないのだが、どう評価すればいいのかわからない金額が真尋をまた悩ませる。それよりも真尋の写真を買う人間が居る事、というかそれが商売として成り立っている事に戸惑いを隠せない。

「売ってるのは誰なの?」

 真尋の心当たりとしては一人しか居ないのだが――

「生徒会です」

 予想外の答えだった。どんな生徒会活動なんだ。明らかに活動している範囲がおかしい。真尋は苦笑いをするしか無かった。

 しかし、生徒会だけの行動とは考えにくい。カメラ目線じゃない写真が存在しているということは、カメラ目線の写真があることになる。真尋がカメラ目線の写真、その大多数は恭子が撮ったものだろう。絶対に恭子が絡んでいるはずだ。今度問い詰めないといけない。

「結季さんは買った事あるの?」

 結季の答えが「はい」なら今ここで金を返さなくてはいけないだろう――真尋には非はないのだが、自分の写真にお金を使わせてはいけないと真尋は思う。出来る事なら写真を買った全員に謝って回りたいくらいの心境になっている。

「いいえ、私は断られてもいいからちゃんと本人にお願いしようって思ってました。だから、駄目ならちゃんと諦めます」

 結季の答えは正々堂々としたものだった。真尋は胸をなで下ろす。金銭的な問題が無くなったからではなく、結季の真っ直ぐな姿勢が清々しくて嬉しい。

「プリクラ、撮りに行こうよ」

 真尋が結季の手を取り、ゲームコーナーのあるフロアに向かう。

「あの……写真、嫌いじゃないんですか?」

 デート開始の時の勢いと逆転した形で引っぱられるようになった結季が心配そうに真尋に問う。

「ただの噂だよ。こういうの信用しちゃ駄目」

 噂を止めることは誰にもできないが、本人の知らない所でこうして誤解されてしまうのは真尋にとって不本意だし、腹立たしくも思う。

 特に結季には誤解を誤解のままで受け取って欲しくはない。

 真っ直ぐに慕ってくれる結季には、こちらも真っ直ぐに自分の事を伝えるべきだと真尋は思うのだった。


(17)

 二人は、プリクラのマシンが設置されているゲームコーナーのフロアにやって来た。

 学生たちでそれなりに賑わっているが、グループで撮影する人たちも多く、台数も多くあるので撮影待ちで並んでいる人はいない。

 機種はどれでも良いとのことなので、二人は空いているマシンに入る。

 真尋が硬貨を入れると、撮影のアナウンスが流れはじめた。

「あの……ワガママ言って良いですか?」

 アナウンスの途中で結季が真尋の様子を伺うように言った。小首を傾げて可愛らしい仕草だ。

 真尋には、今までのデートの中で結季にワガママを言われたような記憶があまりないので、その言葉にどこか不思議な感じがしたがこんなに可愛らしいお願いのされ方をして は、出来ることならそのワガママを叶えてあげたい気分になる。ふと、情が移ったのだろうか――と思う。

 真尋は優しく「何?」と訊く。

「恋人っぽく写りたいなって、思うんです……けど……」

 恥ずかしいのか結季の言葉は語尾に向けて少しずつ声が小さくなってしまっている。

「――じゃあ、もっと近づくとか?」

 真尋は了承の意味を込めて、結季に少し歩み寄った。物理的な距離が近ければ「恋人っぽく」見えるはずだ。

「もう少し近くに寄って下さい」

 今日の結季はどこか積極的だ。真尋は相変わらずスキンシップには慣れない――手は繋げるようになったが、身体が触れると少し身構えてしまう。

「もう少し近づいても大丈夫かな――」

 そう言いながら真尋が体勢を少し結季のほうに向けた。

「あ――」

 結季の顔が正面にある。自然と視線が合う。

 結季の瞳は少し薄い琥珀のような色をしている。そういえばクォーターだったなと真尋はぼんやり思う。

 ――それにしても引き込まれそうなくらい綺麗な瞳だ。その瞳に縛られてしまったのか、真尋は一瞬動けなくなった。

 あと数センチ、あと数ミリ――結季が近づく。

 真尋の唇に結季の唇が触れた。瞬間、フラッシュの光と機械の撮影音が響く。

 キス――というには軽い。それでも、これは、キスだ。

「えっと……」

 そう言ったきり、真尋は次の言葉が出てこない。

 結季とキスをしてしまった。驚きはしたが、不快感は全くない。むしろその逆の感覚で、ふわりとした何かが真尋を包み込んだような気がした。

 真尋は右手で自分の唇を確かめた。さっき感じた柔らかさがまだ残っている――

 真尋にとってはこれがファーストキスだった。

「ごめんなさい、私――」

 黙り込んだ真尋に対して結季が謝る。

「怒ってないから。その……急で驚いて」

「ごめんなさい……」

「謝らなくていいよ。ホントに驚いただけだから」

 突然だったにも関わらず、真尋はすんなりとその事実を受け入れられた自分に驚いている。

「でも……」

「あ、ほら。もう出ないと――」 

 真尋はマシンのアナウンスに従い、結季を連れてプリント口へと移動した。

 しばらく待ってプリントされて出てきたシールには、しっかりとその瞬間が写っていた。

「本当にごめんなさい」

 印刷されたものを目にするとそれなりに恥ずかしいものなのだが、それよりも今にも泣き出しそうな表情で謝り続けている結季を見ているほうが真尋には辛い。

 真尋も謝らなくていいと言ってはいるが――

「だって今日は恋人って約束でしょ? それならキスくらい……するよね?」

 図らずも恭子の言っていたような展開になってしまっていることに戸惑いはあるが、『恋人』なら何もおかしなことはない。

 真尋は精一杯の見栄――のようなもので結季にそう話す。

「えっ――」

 結季は伏せていた顔を上げ、真尋を見つめる。そして――瞳から涙を落とした。

「えええっ、ちょっ、泣かないで」

 突然の結季の涙に真尋は焦る。ギリギリで耐えていたのに泣かせてしまうなんて何か悪いことを言ってしまったのか――と。


(18)

「だからもう謝らなくても大丈夫だから。ね?」

 とりあえず二人はゲームコーナーの片隅にあるベンチに座り、真尋はハンカチを渡して結季を落ち着けようとしていた。

「だって真尋さんには本当の恋人がいるのに、浮気みたいなことさせちゃって――」

 結季が涙を拭いながらそう言った。ハンカチを渡したが遠慮しているのか、それを使わずに自分の手で涙を拭っている。

「は?」

 結季の言葉に真尋が固まる。

 『本当の恋人』とは一体何のことだろうか。

 真尋にはそもそもそんな存在はいない。今現在かろうじて恋人と呼べる存在は三日間の約束といえど、結季だけだ。

「あの……本当の恋人って何?」

「真尋さんの恋人です。あんなに素敵な人がいるのに、その人に悪くて――」 

 少し落ち着いた結季がポツリポツリと話す。その内容に真尋は困惑する。

「待って、待って。誰かと何かを勘違いしてると思う」

「えっ……?」

 結季が不思議そうな顔をしているが、不思議なのは真尋のほうだ。結季は誰のことを真尋の恋人だと思っているのだろう。

 真尋が想像するに、よく一緒に居る恭子のことだろうか。しかし恭子は高等部からの内部進学組なので、少なからずそういった方面でも情報が伝わっているはずだ。

 真尋は考えを巡らせる。自分の身近に誰かそんな人がいたか――と。

 一人思い当たる人がいた。

「もしかしてその人って――」

 真尋はその人物の特徴を結季に伝える。結季はこくりと頷いた。

「その人、バイト先の店長だよ?」

 やはり紗英のことだった。

「でもこの前一緒に歩いてて高そうなお店に――」

「それ先週の日曜日でしょ? その……結季さんとのデートの相談に乗ってもらってたんだけど」

「私が近づいた時に少し嫌そうにしてたので、それってやっぱり恋人さんに対して申し訳ないとかがあったんじゃ――」

「違う、違う。苦手なの。あんまりベタベタするのに慣れてなくて」

「そう……なんですか?」

 真尋は頷く。

「うぅ……」

 涙が止まっていた結季が、また泣きそうになっている。

「えっ? どうして? 全然怒ってないよ?」

「私、悪い人間です……」

 突然何を言い出すのか。真尋は返答に困る。

「勘違いでヤキモチ焼いて真尋さん振り回して――」

「ヤキモチだったの?」

 結季は恥ずかしそうに頷く。

 やたらと積極的だったのはヤキモチのせいだったのかと真尋は納得をした。もっともそれに気付けない真尋は、どれだけ鈍感なのかという話だが、そこまで自分のことを思ってもらえているという事実が、真尋には嬉しい。

「えっと。結季さんが私のことを、その――好きでいてくれて、だったらその、ヤキモチ焼いても仕方ないかなって思うんだけど」

 当たり障りのないような言葉だが、今の真尋にできる精一杯の答えだ。

「でもご迷惑をかけました」

 必死に涙を堪えている結季がそう言う。

「迷惑じゃないよ。逆に私なんかのことをそんなに好きでいてくれるんだなーって、ちょっと嬉しいかも」

 真尋も素直な気持ちを伝える。真っ直ぐに伝えてくれる人には真っ直ぐに伝えたい。それが真尋という人間なのだ。

「えっと……好きでいてもいいんですか?」

 真尋に嬉しいと言われて、結季は少し嬉しそうな、でも何処か戸惑ったような表情だ。涙は止まっていた。

「それは――えっと……」

 真尋は言い淀む。結季に好かれて嬉しいことは事実だが、真尋はその想いに応えられないかもしれないと考えると、簡単に返事ができるのだろうか――と。

「――やっぱり、ご迷惑ですよね」

 結季が目を伏せる。

「そうじゃなくて。その、結季さんにとって大事なことだから、簡単には返事ができなくて……」

 真尋は言葉を選びながら静かにそう話す。上手く伝えられるかはわからないけれど、言葉にしなくては伝わらない。

 結季には誤解したままでいて欲しくない想いが真尋をそうさせる。それが何故なのか、どこから来る想いなのかは真尋にもわからない。

「真尋さんは、優しいですね」

 結季が苦笑いでそう返す。

「優柔不断なだけだよ」

 真尋もまた苦笑いで答える。

 しばらくの沈黙の後、結季はゆっくりと深呼吸をして、ベンチから立ち上がり、何かを決意した表情で真尋の目の前に立つ。そして、

「三日間が終わったら、真尋さんのことを諦めるつもりでした。でも、ずっと好きでいてもいいですか?」

 ――と言った。


(19)

「気持ちは誰にも止められないのにね」

「うん」

「許可求めちゃうってかわいいよね」

「うん」

「それで結局『いいよ』って言ったわけだ」

「うん」

「余計に火が付いちゃったね」

「うん」

「話聞いてる?」

「うん」

「……キスしていい?」

「急に何を言ってるの」

「あ、ちゃんと聞いてた」

 あれから、二日目のデートは無事に済んだ。

 食事をして、買物に付き合ってといった感じで、それなりに過ごせたと思う。

 今日は恭子とその反省会をしている。場所は相変わらず真尋のバイト先――紗英の店だ。

 結季にキスされたことは黙っているが、紗英と恋人同士だと思われていたことは話した。恭子が若干悔しそうにしていたのだが、こればかりは真尋にもどうにもできない。

「話を聞いてる様子だと、真尋を落とすには押せばいいって感じだよね」

 恭子が真剣な面持ちでそう言った。恭子の場合は本当に真剣なのかそうでないのかわかりづらいのが難点だが。

「いや、だからって誰でもいいって訳じゃないんだけど……」

 真尋は困り顔でそう返す。一般的には興味のない人間に押されてもただ困るだけだろう。

「でも佐倉のこと気になってるでしょ?」

 言われた通り、真尋は結季のことが気になっている。ふと気付けば結季のことを考えてしまっている状態だ。

 この感覚が何なのか、真尋には見当が付かない。

「それは……でも、わかんないんだよね」

 真尋がため息交じりにそう漏らした。

「何が?」

 恭子が怪訝な表情をする。

「いい子だなって思うんだけど、それが恋愛の好きってことなのかがわからなくて」

 真尋には誰かをそういった対象で好きだと思った経験がない。

 恋愛に興味がないわけではなく、そういうことで一喜一憂している友人達を見ていると若干の羨ましさを感じることもあるし、いつか自分の元にもそういう機会が来るのだろうと思ってはいたが、それが今なのかがわからない。

「だめだーこいつ面倒くさい!」

 そう言うと恭子がテーブルに突っ伏した。

「すみません……」

 真尋としても我ながら面倒だと思っているのでただ謝るしかない。

「気になってるならこのまま付き合うとかもアリなんだよ?」

 テーブルから顔を上げた恭子がそう迫る。

「でも向こうは恋愛の好きでしょ? 私がそれに応えられなかったら傷付けるだけじゃん」

 結季がまっすぐな想いを持っていることは真尋にもわかっているので、余計な事で傷付いて欲しくはない。

 ――もっとも、失恋をすれば誰でも傷付くだろうが、「期待を持たせておいて駄目でした」では受けるダメージだって違うだろう。

「あー……でもさあ……」

 恭子もどう答えたら良いのか思案しているようだが、珍しく言葉に詰まっている。

「その人との恋愛がアリかナシかわかる方法って昔からあるじゃない?」

 カウンターの奥からコーヒーのおかわりを持ってきた紗英がそう言いながら二人の近くの椅子に座った。

「ハイ! 知ってる! キスだ!」

 紗英がやってきた途端に恭子が急に元気になった。

「そう。生理的に嫌だとかじゃなければそういう対象として――って古いわよね」

 紗英が優しい微笑みでそう言う。

「キス……」

 真尋はこの前の結季とのキスを思い出す。軽いものだったが、嫌ではなかった。思い出すと今でもどこか暖かい気分になれる。

「嫌じゃなかったけどな……」

 真尋がポツリと呟いた。

 しまった。と思った時にはもう遅い。

「……過去形ということは致してしまった?」

 恭子が即座に反応していた。この辺りは絶対に聞き漏らさないのが恭子という人間だ。

「えっ。あっ。いや、その――」

 真尋の口からは上手く誤魔化す言葉が出てこない。マズイ――真尋の背筋を冷や汗が伝う。

「思ってたより真尋がヘタレじゃなかった!」

 恭子が小さくガッツポーズをしている。

 ヘタレだと思われていたらしい。というかそういう問題ではないと思うのだが。

「詳しく聞かせて貰おうじゃない?」

 目を輝かせた恭子がテーブルの上に身を乗り出した。

「何も言うことなんてないよ! キスって言っても軽く触れたみたいな感じだったし!」

 ――しまった。

 何故、人は慌てると余計な事を口走ってしまうのだろう。真尋は自ら墓穴を掘っている。

「でもキスしたのは事実よね」

 紗英がとどめのような一言を放った。

「……はい。そうです」

 紗英の言うとおり、それ自体は紛れもない事実だ。それ以上の申し開きも何もあったものではないのだ。

「で、嫌じゃなかったと」

「それは、その――嫌じゃなかったけど、だからって好きかどうかはわからないよ!」

 むしろその逆の感情とも言えるものが芽生えたような気がしているのだが――真尋の中ではハッキリしない。

「だめだこいつやっぱり面倒くさい!」

 恭子が再びテーブルに突っ伏した。

 と思ったらすぐに顔を上げて、真尋に迫る。

「いい? 嫌じゃないってことは少なくとも真尋にとってはそういう対象になり得るわけだ。そして今、佐倉のことで頭が一杯になりつつある。つまり真尋の恋の第一歩かもしれない」

 恭子はいつになく真面目な様子でそう話している。

「う、うん。そうなの?」

「だってどうでもいい人だったらそこまで悩まないでしょ?」

「まあそれは――そうかもしれない」

「つまり、そういうこと」

「……そっか。恋愛の好きってこういう感じなんだ」

 まだほのかな芽吹きなのかもしれないが、真尋にとっての新しい感情だった。

「なんで佐倉はこんなのを更に好きになったんだろう……」

 ひとしきりヒートアップしてから一段落した恭子の真尋への評価は、とうとう「こんなの」になっていた。


「えっと――好きなのはいいとして、これからどうしたら良いんだろう」

 真尋がほのかな恋心を自覚したとして、新たな問題が出てきた。

 恋人として過ごすのは三日間の約束なので、恋人でいられる時間はあと一日だ。

「相手を知ってみるとか?」

 落ち着いてコーヒーを飲んでいた恭子が素っ気ない感じでそう返す。

「知るって言ってもデートはあと一日だよ?」

「いやいやいや、もう期限関係ないでしょ。好きにやり取りしたら良いじゃない」

 恭子は途端に放任主義のような事を言い出す。

「でも、こっちの気持ちを言わなきゃだよね?」

 ほのかに自覚した段階ではあるが、向こうがまっすぐに伝えてきた以上、こちらも相手に伝えておかないといけないと真尋は思っている。

「そりゃそうだよ。向こうは好きでいるとは言ってるけど、次のデートで最後だって思ってるんだから。それに、もうすぐ海外に行っちゃうんだよ?」

 恭子の言うとおり、結季はもうすぐ海外に行ってしまう。

「遠距離は、大変よねえ……」

 昔何かあったのだろうか。紗英が遠い目をしている。

「だったら余計にちゃんと伝えなきゃだよね」

 そう言うと真尋は椅子から立ち上がった。

「店長、ちょっと抜けて良いですか? 休憩が終わるまでには帰ります」

「ええ。大丈夫よ」

 紗英が笑顔で答える。

「? 何処に行くの?」

 真尋の突然の行動に、恭子が困惑の表情を浮かべていた。

「結季さんと話をしてくる」

 真尋はそう言うと店の奥から自分の携帯電話を持ち、店外へ出て行った。

「……え?」

 残された恭子が一人で首を傾げていた。


(20)

 駅前の広場、休日の昼下がりだが、人通りはそれほど多くない。

 あれから真尋は結季に電話をかけ、駅前で待ち合わせる約束をした。

 結季は真尋からの急な電話に驚いていたようだが、特に差し迫った用事もないとのことで、すぐに応じてくれた。

「真尋さん!」

 駅の階段から真尋を呼びながら結季が降りてきた。真尋は気付いていなかったが、カフェの制服姿のままの姿はそれなりに目立っていたようだ。

「急に呼び出してごめんなさい。三日間の約束のことで話があって」

 真尋の言葉に結季が一瞬ビクッと体を震わせ、大きく呼吸をしてから、何かを悟ったかのように真尋を見た。

「えっと……やっぱりあの約束は大変でしたよね。なので、もういいです」

 結季は笑顔だ。しかしそれはいつも真尋が見ていた笑顔ではなかった。何処か寂しそうで、それでも無理をしてなんとか笑っているような悲しい笑顔だった。

 そんな顔を見たかったわけじゃない――真尋の胸が締め付けられる。

「あ、ううん今日はそういうことじゃなくて、その――」

 早く伝えなくてはいけない。と真尋は思う。だが、

「思い出を、ありがとうございました」

 結季は深くお辞儀をすると、真尋と目を合わすこともなく踵を返して、今降りてきたばかりの階段へと向かおうとした――

「待って!」

 真尋が結季の腕を掴んで引き留めた。真尋から誰かに触れるということはとても珍しい。だが、今は自然とそれができた。

「その……上手く伝わるかわからないんだけど、結季さんのことを考える時間が多くて、会うと嬉しくなって、これが好きってことなんだってさっき、ホントにさっき気付いて――」

「え……」

 突然の真尋の告白に、結季が少し困惑している。

「できたら、これからも結季さんのことを知っていけたらいいなって思ってて」

「真尋さん……」

 結季は真尋の言葉の真意を探ろうとしているのか、言葉少なだ。

「だから、あの約束はなかったことにして、これからもデートとかしてくださ――わあっ!?」

「真尋さん――!」

 感極まったのか、最後の言葉を言い終わる前に、結季が真尋に抱きついた。

 いつもの事ながら、急に触れられたので真尋の身体が強ばってしまう。さっきは自分から触れることができたのに――

「あっ、ごめんなさい。嬉しくて」

 結季が慌てて真尋から離れた。

「大丈夫、びっくりしただけ。私も慣れないとね。……でもこの春にヨーロッパのほうに行っちゃうんだよね」

 真尋は一呼吸おいてから恭子から聞いていた、結季が海外に行ってしまうという話を切り出した。

 これからも交際してくれと言っておきながら、その相手が遠方に行ってしまうのでは、いくら通信技術やその他のものが発展していたとしても不安要素だろう。

「どうして知ってるんですか?」

 真尋とはそんな話をしていないはずだと結季が首を傾げる。

「友達――よく一緒にいる桂木恭子って人に聞いた」

「そうですか。桂木先輩が……」

 受験組の真尋には何故なのかがいまいちわからないが、恭子は学内ではそれなりに有名人だった事を思い出した。

 一年近い付き合いになるが、本当にあの友人は謎だ。

「うん。だから一刻も早くこっちの気持ちを伝えておかないとって思って、急に呼び出しちゃった」

 想いを伝えるなら、早いほうがいい。きっと、多分。真尋はそう思う。

「大変だと思うけど――でも――」

 それでも、一度認識した想いをこのまま途切れさせたくはない。

「そうなんですよね、法事だけはどうしても避けられなくて大変なんです」

「……は? 法事?」

 なんとなく、真尋の思うヨーロッパのイメージとはかけ離れている言葉が、結季の口から飛び出した。

「祖父が仏教徒だったので、向こうで法事をするんです」

 聞けば三回忌なのだという。

「じゃあ、すぐに帰ってこれるってこと?」

「はい。十日間くらいで」

 結季は「祖父には悪いけど、ちょっとした旅行ですね」と続ける。

「……恭子め」

 真尋がガクリと膝に手をつき、小さく呻いた。

 その様子を見ていた結季が不思議そうな顔をしていたので、春になったら結季が海外の実家に帰ると言われていたことを話した。

 真尋はその期限があるからこそ、約束の三日間を大切にしたいと思っていたし、今のこの気付いた感情も早く伝えないといけないと思っていたのだが、若干空回りをしていたようだ。

 恭子の言ったことは決して嘘ではないし、真尋が勝手に勘違いしていたと言えばそれまでだが。

「そんな風に言ってたんですか? あの……勘違いさせてごめんなさい」

「結季さんは悪くない。多分ワザとだろうけど、勘違いをさせるようなことを言った恭子が悪い――でも良かった」

 真尋は大きく安堵の息を吐いた。

「その……これから一応期間限定じゃない恋人同士ってことになるでしょう? 遠距離じゃなくて、普段でも少しずつ近くで結季さんのことを知っていけるなって思って」

 改めて口にすると気恥ずかしいが、気持ちを止めることはできない。もっと結季のことを知りたいのも真尋の本心だ。

「私も、真尋さんのこともっと沢山知りたいです」

 結季も笑顔で答える。真尋の見たかった、眩しいくらいの綺麗な笑顔だった。

 二人は顔を見合わせて、恥ずかしそうに笑う。

 真尋と結季――二人の恋が始まった。


(Extra_01)

「行っちゃったけど……さっきの今で告白する気?」

 恭子が考えていた展開ではない。もっとも、物事は思い通りにいかないことくらいは理解しているが、恭子はまだ首を傾げている。恭子としてはほんの少し、本当にほんの少しだけ背中を押した程度の感覚だったのだ。

「思ったより情熱的だったみたいね」

 紗英が楽しそうに笑っている。

「あれじゃあ情熱的というよりは直線バカですよ」

 頭を抱えた恭子の容赦のない言葉に紗英が吹き出す。

「大事な友達なのにそんなこと言っていいの?」

「大事な友達だから言えるんです」

 恭子の答えを聞いて紗英は「なるほどね」と、また笑った。

 他人との付き合い方は何通りもある。どちらが正しいか、なんてことはどうでもいい。

 言葉には出さないが、それをちゃんと認めている紗英の笑顔だった。

「でも、これからはあまり遊べなくなるかもね」

 真尋のことだからきっと相手を大切にするだろう――恭子はそう確信している。

 ということは、必然的に友だち付き合いも少なくはなるだろう。

「そう言われると、ちょっと寂しくなっちゃいますね」

 他にも友人はいるが、恭子にとってここまで気が合う友人(一方的にそう思ってるだけかもしれないが)は稀なのだ。

 それに、真尋といれば紗英と会える理由にもなる。

「……じゃあ今度お姉さんと遊ぼうか」

「は?」

 普段の恭子なら聞き漏らしはしない紗英のお誘いだったが、あまりにも突然だったので咄嗟に対応ができなかった。

「なんてね」

 紗英がそう言い残してカウンターへと入っていった。

「え、なんで。遊んでくださいよ」

 恭子はカウンターに乗り出して追いすがる。この機会を逃してはきっと後悔すると思うのだ。

「んーそうね。二十歳になったらお酒でも飲みに行きましょう」

「本当ですか? ホントに?」

 具体的な約束を貰えた恭子のテンションがいつになく上がる。普段はこんなにしつこくはしないのだが、紗英に何度も本気かと確認をしてしまう。

「ええ、約束」

 紗英が笑顔で答えた。

 この二人にも、新しい展開がやってきた――

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