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元亀二年(一五七一年)六月二十三日、島津氏十五代当主であった島津貴久が隠居先の加世田城で死去した(享年五十八)。
翌早朝、飯野城の元に当主急逝の報告が届けられた。飯野城は南日向に位置し、島津氏の日向進攻の拠点であり、城主には他界した貴久の次男義弘がついていた。義弘この時三十七歳。
義弘は早馬からの手紙を読み終わると、胸がつぶれるような思いに襲われ、目頭が熱くなるのをぐっと堪え、何かを思い出したかのように急いで家老の有川貞真を呼び出した。
義弘の居室にやってきた貞真、年は中年頃でその肌は黒く焼け、筋骨隆々とした体躯の大男。居室へ入るなり深刻そうな表情で義弘の向かいに腰を下ろした。
しばらく沈黙があった後、貞真が先に口を開いた。
「ご隠居がなくなられたと言う事は当家の柱が崩壊したこと。此度当家は大いに揺れ動く恐れありと存じます」
貞真の慎重な口調に義弘は小さく頷いてから言った。
「今父上の死を考えているときではない。そなたを呼んだのは他でもない。急ぎ兄者の下へ行き様子を伺ってきてくれないか。此度最も心痛されているのは恐らく兄者であろう」
「承知いたしました。さすがは殿。私が言うまでもありませんでしたな」
貞真との短い会話の後、義弘は居室で独りになると人知れず涙を流した。義弘の涙を知るものは誰も居なかった。
貴久の死は日向国佐土原城にも伝えられた。
日向国をほぼ全土支配し「伊東四十八城」という多くの城を保持した伊東氏第十代当主の伊東義祐は佐土原城に居を構え、幾度にわたり島津家と薩摩、日向をめぐって争ってきた。特に両家は霧島山と肥後の連峰に挟まれた盆地の真幸院を奪い合った。真幸院は球磨人吉への交通の要所として重要視され七年前の永禄七年頃、真幸院をめぐり戦争を繰り返し、最後は島津家が真幸院を支配する北原氏を配下に治めることで真幸院は島津家の領土に落ちていた。
伊東氏はもともと藤原氏の流れを汲み鎌倉時代以来から続く名門でありその威厳を保つためにも島津氏に先を越されるわけにはいかなかった。しかしここ最近は薩摩国を統一し勢いに乗り大隅国、肥後国にも手を伸ばしつつある島津氏が優勢であった。そんな中で隠居の身ではあったが大きな影響力を持っていた貴久の死は伊東氏にとって追い風を予感させる吉報だった。
「島津のご隠居が逝ったか。あの男、憎くもあり尊敬に値する男でもあったが、さすがに病には勝てまいか」
義祐は愛刀を眺めながら不適な笑みを浮かべた。
「突然のことと聞き及んでおります。さぞかし家中は混乱の中でありましょう」
義祐の向かいに座る祐安は坦々と応えた。
伊東義祐はこの時六十歳。永禄三年に嫡男義益に家督を一度は譲っていたが、同十二年に義益が早逝し、嫡孫が幼少だったため再び国政を行っていた。一方義祐と向かい合う伊東祐安は別名加賀守といい、伊東尹祐の弟祐武の子で義祐とは従兄弟同士であり、義祐は若い祐安を有望視していた。
「殿はこれを好機と捉えておいでですか?」
「何が言いたい祐安」
「殿はこんなところで骨をうずめることになってもよろしいのでございましょうか?某、殿の野望はもっと先にあると存じます」
「ではどうしろと申す?」
義祐の目の色が少し変わるのが分かった。
「この機を逃してはなりませぬ。家中に動揺が走る島津に揺さぶりをかけるのです」
義祐はしばらく黙り込んだが、祐安の自身に満ちた表情を見て言った。
「おぬしは若くてええの。わしはそこまで考えが及んでおらなんだわ」
義祐は立ち上がると、鞘から刀を抜き取り振りかざす。
「ここはひとつ、島津に一泡吹かせてやるかのぉ」