一章【1-1】
只の人間には理解が及ばないものが多くある。その多くは化け物として恐れられていたり、また神と言う名目のもと崇められているものだ。とはいえ現代の社会において、そのような存在を目で見て認識し、その肌で触れ合える事は有り得ない。それには、確たる一つの理由がある。
なぜならば、もうそう言った幻想的な存在は別世界に移動したのだから。
その別世界とはどこか、それを聞くのは野暮な話だが……人々は、そう言った人ならざるもの達が住まう世界を幻想郷と呼んでいた(もちろん幻想郷の外からは認知できないので、幻想郷の中にいる人々だが)。
そして、その幻想郷にある大きな湖。その湖に隣接する紅色を象徴する大きな館の一室。
そこに、一人の吸血鬼と従者が佇んでいた。
「人里に行きましょ」
それは彼女達の日課となっているティーブレイクの最中の一言。あまりにも唐突過ぎる彼女――――レミリア・スカーレット――――の言葉に側にいた従者は数刻ではあったが思考が停止する。それほどまでに、この一言は彼女の中で異常事態であった。
「何よ咲夜、何か言いなさいよ」
咲夜と呼ばれた彼女を目にして、レミリアはむくれた表情をする。だが咲夜が閉口するのも当然の事だった。
何せレミリアは生粋の吸血鬼であり、彼女自身が人を害するものだとの理解もある。
それなのにまるで散歩にでも出かけるかのように人里に向かおうと言っている。だというのだから、驚かないという方が難しい事だろう。
「人里、ですか。赴くとしたらやはり夜でしょうか?」
そんな咲夜は思考を切り替えてレミリアに失礼のないように確認を取る。時刻は丁度午後の三時を巡ろうかと言った頃。夜行性であるレミリアからしたら少しばかり早起き無時間帯だろう。
「んー、そうねぇ……太陽を見る趣味はないわ。けど、遅すぎたら意味もないから……一時間後に出発しようか」
そう言って楽しそうな笑みを浮かべるレミリアは、口の中にある犬歯をちらつかせる。年相応な見た目の如くどんな相手にも我がままを言うレミリアだが、それでもこういった自身との明確な違いを垣間見ると思い出す。
――――私が仕えているお嬢様は、最強の幻想種である吸血鬼である事を。
そんなレミリアに対して、咲夜は恭しくお辞儀をする。もちろん恐怖などではなく、純粋な敬意から。
人間である癖に変わり者と指さされようとも、咲夜はレミリアに仕えているこの身を誇らしくすら思っている。
種族が違う事など、それこそ些細な問題で。従者が主に仕える事を咎められる謂れはない。
「分かりましたわ、お嬢様。それでは用意を致しますので、少々お待ち下さい」
咲夜がそう言葉にするとレミリアは何も言わずに満足げな表情を浮かべ、飲みかけだった紅茶をまた口にする。そんな中、咲夜はただ今回の提案が本当に気まぐれである事を願っていた。何も考えず思いつきの提案ならば、特に何もないだろう。だが、レミリアには『運命を操る程度の能力』がある。
どちらにせよ咲夜に出来る事はそう多くはない。彼女はただレミリアの為を想って動く事には変わりはないのだから。
「それでは、失礼いたします」
敬愛する主の機嫌が変わらないうちに、咲夜は私室から外に出る。そうして扉が完全に閉まり私はほんの僅かばかり溜め息をこぼした。
――――さて、間に合うかしら。
あぁ言ったきまぐれが起こり得る事の想定はしているが、やはり予想外の出来事が増えたとなると些か厄介であったりはする。何せ、このやたら広い紅魔館を取り仕切るだけで咲夜はその一日の大半を使っている。
願わくば、もう一人くらい頼りになる働き手が欲しいけどそれも叶わぬ事だろう。何せ、咲夜は人間には持ちえないような能力を持っているひと際稀有な人間なのだから。
――――無い物ねだりなんて、柄じゃないか。
――――どうせそんな都合のいい存在なんていないのだし、私一人でやりきるしかないわね。
幸い『時間』はまだ余裕がある。いつも以上に動けば、何事もなく終えられるだろう。そうして咲夜は残った仕事を頭の中で整理して、目を外に向ける。
天候は崩れる兆しはなし――絶好の外出日和だし、仕事には変わりはないけれどたまには羽目を外すのはうってつけ。
見方を変えれば咲夜からしたら敬愛する主と二人でお出かけには違いない。だから、少し位楽しんだっていいものだと。
そう鼓舞する咲夜を、まるで温かく見守るように柔らかな日差しが降り注いでいた。