指先の蝶々
その日のお客はたった一人だった。
予約時間からして仕事帰りなのであろうその人は、ぱりっとアイロンのきいたシャツとお洒落なストライプ柄のネクタイにスーツという出で立ちだった。
肩幅が広い。線が細いなんてことはなく、かぎりなく彼は男らしい容貌だった。
まだ三十後半だろうか、切ったばかりのような整った短髪からのぞく笑顔はさわやかだった。
「すいません、20:00に予約していた蝶々です」
野太くてはきはきとした口調で彼はそういった。
私は手元の予約表に目をやる。
確かにそこには20:00予約・チョウチョウさん。と記載していた。
「お待ちしていました。どうぞこちらへ」
私はいつもの接客態度をくずさぬように彼を誘導する。
ピンク色の一人掛けソファに、彼は「失礼します」と礼儀正しく座った。
私は彼の向かいに腰かけ、おしぼりをひろげた。
「あ、すいません」
「あ、ちがうんです」
彼はおしぼりを受け取ろうとしたので、私は訂正した。
「その……お手をおふきするので、片手ずつだしていただけますか」
「あ、そうなんですねっ。はいっどうぞ」
私はどうも、と彼の右手をおしぼり包む。
彼の耳がじんわりと赤くなるのをみながら、あれ、と思った。
手は無骨だった。
筋張っていて、太い血管が力強くはしっていて、手首の骨はまるで一つの武器のように重く固い。
「今日はおまかせコースで伺っておりますが、なにかご要望はありますか?」
彼は大きな体を縮めていたが、その言葉に顔を上げた。
不安げだった顔が、ふと真剣になる。
私は彼の要求をじっと待った。
「あの、なんかこうゴテっとしていて、キラキラーっとしていて。でも下品じゃない、綺麗な奴ってできますかね?」
彼の目は真剣だった。
私は考えながら、いくつかのサンプルをだした。
「こんな感じですか?」
私が示したのは、控えめなピンクパールに大きめのビジューをたくさんつけたデザインだった。
彼はそれをじっと眺める。
おそらくイメージと違うんだろう。
長く仕事をやっていると、そういうのがだんだん分かってくる。
「お好きな色はありますか?」
彼は無数のサンプルを食い入るように見つめながら、私の質問にぽつりと答えた。
「……赤、かな」
そしてすぐさま付け足した。
「でも、全部赤ってわけじゃなくて……、なんていうのかな。全体的にあって目が引くんだけど、派手じゃない。でも最後に残る印象が赤というか」
「どなたかがそういったデザインをしていらしたんですか?」
私の質問に、彼は驚いた。
甘皮を押し上げていた右手がぴくりと揺れた。
「すごいなぁ、接客業ってそういうことも分かるものですか」
「どうでしょう。まぁ、私の仕事の場合は一対一ですし、お仕上げまではどうしても二人きりだから、お客様のことをよく見る癖はつきますね」
「それは、すごい」
彼はお世辞ではなく、本当に感心しているようだった。
ふっと手の重力が少し重くなる。
こうなると、お客がすこし安心した証拠なのだ。
「お爪の長さはどうされますか」
「あー…よくわからないので、おまかせします」
「お仕事上、多少長くても大丈夫ですか?」
「あ、仕事の事は気にしなくて良いです」
「わかりました。ではとりあえず形だけ整えて、デザインに合わせていきますね」
私はポリッシュをはしらせる。
やはり女性とは体の造りが違うらしい。男性の爪は硬いので、いつもより少し力を込める。
彼は私の作業をじっと見つめている。
「僕はどういうお客さんにみえますか?」
サリサリと爪の白い粉が舞う。
彼はひたすら手元を見つめているので、私も作業に集中したまま返事をする。
「最初は水商売の方かと思いました」
「え、そうなんですか」
「はい、遅くまでやってるお店は少ないので、これから出勤される方に重宝されるんです。男性のお客様も少なからずいますね」
だからうちのサンプルは、他のところより派手目なサンプルが多いのだと説明した。うちの営業時間は19:00~夜明け1:00まで。
日中に営業するサロンは、OLさん向けのシンプルなデザインが多い。
しかしうちにくるお客さんは、夜の蝶というにふさわしい、闇夜でも目立つデザインを好むのだ。
「そういう職業の人を、夜の蝶っていうじゃないですか」
ドキリ、とした。
心の中を言い当てられたからだ。でも彼はそんなことに気づいた様子はなく、整えられた指先をぼんやりと眺めるばかりだった。
「うちの母もそうだったんですよ」
彼は暗くも明るくもない、淡々とした口調で語った。
「僕が物心ついた頃にはそうでしてね。いつもヒラヒラした金魚みたいな服を着ていて、ふわふわした女性でした。全然アクセサリー的なものはつけてないから、余計にそう見えたんだと思います」
でも爪先が、と彼は顔を上げて私を見た。
「爪先だけがね、いつもキラキラしてるんですよ。たくさん色やら石やら散りばめて、なのにすっきりしてて。その手で僕の頭をなでるんですよ。いってきますって」
「こんな感じですかね」
私はストーンの素材を見せる。
大きめのパールや、花モチーフ、金色のチェーン、シルバーの星。
「そうそう、こんな感じの。仲間っぽい感じの人はいつも大きな指輪や、高そうな時計やネックレスをしてた。でも母だけは、こんなオモチャみたいな宝石で爪だけを飾り立ててた」
「お色はどんな感じでしたか」
「そうですね、原色っぽいものや蛍光っぽい色味が多かったかな。やたら目に入ってくるんですよね。すごく黒い指先に、星がこれでもかってくらい飾ってあったり、指先に新種の植物ができたのかと思うような蛍光緑に大きな薔薇が飾ってあったり」
想像するだけで、とても楽しい指先だった。
そこには彼の母親の世界があったのだろうと思う。
甘皮もささくれもすべて整えた彼の爪は、色を待っている。
「でも、赤が一番お好きだったんですか?」
「いいえ、彼女が赤を使ったのは一度だけでした」
どんな赤でしたか、ときくと彼はサンプルを指さした。
それは真っ赤というにふさわしい、目の覚めるような色だ。
「母の親が死んだ日でした」
いつもは宝石箱のような爪をした母が、たった一度だけ塗った赤。
赤一色で、なにもつけられていない爪。
黒いふわふわとした黒揚羽のような彼女は、その赤い爪で彼の手を引いたのだそうだ。
「僕の母は、親戚中からなにかと悪意をむけられていました。でも彼女は逃げることなく、僕の手を引きました」
喪服の連中がまるで黒い森のように見えたという。
その森を闇に紛れることなくすすんでいく母親の赤い爪は、まるでいつもの彼女の爪と変わらず光って見えた。
「だから蝶々さんなんですね」
「そうなんです」
彼は男らしい顔をくしゃりとゆがませて笑った。
「でも僕は普段銀行員なんですよ。母さんを馬鹿にされたのが悔しくて頑張って、そこそこになりました」
「素晴らしいですね」
「いえ、あの時の母にはおよばないのです」
明日は母の葬儀なのです、と彼は淡々と言った。
「あの時と同じ親戚が集まります。今日は通夜だったんですが、みんな同じ事ばかり言うんです。あの女の子供にしてはできた子だ、あの女に似なくて良かった。そんなことばっかり言うもんだから」
「戦ってやろうと?」
「そういうことです」
「ならやっぱり赤ですね」
「……ええ、そうですね。デザインはおまかせします」
「分かりました」
彼はその後、施術中は口を開かなかった。
私は彼の爪に集中した。
赤は二種類使った。
彼の記憶の赤と、彼をイメージした少し薄い赤。
流れる川のように曲線を描いた二つの赤の間に、細いシルバーのラメをひく。
人差し指に雪のように、オーロラのストーンを大小散らせる。
中指と薬指にだけ、少しだけ白色と黒のラインをいれる。
五本の指に流れるように細い模様を書き入れる。
そして、彼の右手の親指に、大きく蝶を描いた。
似たような光彩で、しかし色んな色を混ぜて、一匹の蝶を描いた。
彼の手を引くあの日の蝶々。
彼はじっとその蝶をみていた。
瞳が潤んでいたが、手は動かせないので、彼はしきりにまばたきをした。
そして出来上がりをみて、一言「ありがとう」と言って笑った。
彼が帰って行くとき、私はそっと窓からその様子をのぞき見る。
すっかり暗くなった道のりを彼は歩く。
時折人が振り返っては、彼のほうを何度も見た。
キラキラとした指先の蝶々。
彼はソレを知ってか知らずか、誇らしげに歩いて行く。