虫愛づる姫君あるいはお山の昔語り
昔むかしあるところに、天狗とお姫様が住んでいました。
といってもむろん一緒に住んでいたわけではなく、お姫様は華やかな都の一角に立派なお屋敷を構え、天狗は杉の大木が鬱蒼と生い茂る山々を棲家としていました。
天狗の名前は青嵐といい、山に棲む天狗たちを束ねる頭目でした。お姫様はただ、左大臣の姫、として知られていました。昔のことですから、女のひとはそのように呼ばれたのです。
お姫様は天狗のことを知りませんでしたが、天狗のほうはお姫様のことを知っていました。都を囲む山々に点在する寺社仏閣へ詣でる善男善女が危難に遭わぬよう、蔭ながら守護するのが天狗たちのつとめでしたので、左大臣が姫とそのお供を大勢引き連れてやってきたときのことも、よく覚えているのでした。
ある日、青嵐が、寺の境内で一番高い杉の木の上で下界を見下ろしていたときのことです。寺の廊下に下げられていた御簾がぱっとひるがえって、女童がひとり走り出てきました。
いえ、天狗の目には女童でも、年のころはもう十二、三。髪も背の中ほどまであり、幼いながらも高貴な身分であるようでした。
しかし青嵐が面白いと思ったのは、姫君のふるまいでした。枸橘の木に駆け寄ったかと思うと、葉の上から毛虫をつまみあげ、掌に載せて眺めています。手の届かない枝に何かを見つけると、小坊主を呼びつけ、虫を採らせては、籐で編んだ虫籠に入れるのでした。
姫君が木の梢を見上げたとき、青嵐にはその面立ちがよく見えました。眉は全部剃って黛で描いてしまわずに、自ずと生えてくるままにしています。鉄漿もつけておらず、小坊主に虫の名を尋くたびに、白い歯が零れます。白粉で肌を真白くもしていないので、市井の人々のように少し日に焼けています。長い睫の下には利発そうな黒い瞳が輝いていました。
姫君の飾らない美しさを、青嵐は好ましく思いました。特にその澄んだ瞳を。
そのときです。御簾の陰から、女房らしき女の慌てた声がしました。
「姫様、外に出てお姿をみせるなどはしたないこと! 何ぞあったら如何されますか」
「これほど都から離れた山奥で、お坊様以外に誰が妾の姿を覗き見るというのでしょう」
「お坊様とて殿方であることに変わりはございませんでしょう。……それに、物の怪が見ているとも限らぬではないですか」
女房は小声で呟きましたが、青嵐にはすべて聞こえておりました。
女房があまりうるさく言うので、姫君は軒先にひっこみましたが、廊下を通る僧を呼び止めては、先ほど捕らえた虫の名や、何を食べているのかを聞いています。
「生憎と存じ上げませぬ」と、ある僧が答えました。
「まあ、お坊様でも知らないことがおありなのね」
姫君は少し驚いたふうでしたが、やがて顔を輝かせました。
「では、この虫は妾が初めて見つけたものかもしれないのね。都に持ち帰り、ほかの者にも見せてあげましょう」
「またそのようなことを。そんな気味のわるい虫など、お屋敷にお持ち帰りになれば、口さがない者たちに何と噂されるか知れたものではございませんよ」
「他人がどう噂しようと、それで死ぬわけではないもの。それよりも、この虫がどんな蝶になるか、あるいは蛾になるか、変化するまで見ていたいけれど、何を食べているかもわからないでは、お屋敷で飼うわけにもゆかないわ。一体誰に聞けばよいのでしょう」
姫君は虫籠を持ったまま、室の中へ入ってゆきました。
なんとも不思議な姫です。ひとの嫌がる毛虫や蛾のことを知りたいと言い、噂話など意に介さぬようです。
青嵐は野山に棲む鳥獣や草木のことは、地の下の蚯蚓から、天に聳える杉のことまで知っていましたが、無闇に秘密を明かすものではないと大天狗から戒められていました。けれども、この幼い姫の熱心さに感じ入り、少しならば教えてやってもよいだろうと考えました。
とはいえ、烏天狗のような嘴こそないものの、身の丈六尺、背には闇より黒い羽を生やし、惣髪に破れた僧衣を纏った青嵐が姿を現せば、いかに気丈な姫君といえども、恐ろしさのあまり気を失ってしまうに違いありません。
青嵐は杉の木の天辺から真っ逆さまに飛び降りました。くるりと一回転するあいだに、大きな羽は消え、背は縮み、境内に降り立ったときには束髪に水干姿の童子になっていました。
青嵐は、先ほど姫君が眺めていた毛虫の食べる木の枝を二、三本折り取ると、御簾の隙間からぐいと差し入れました。
「きゃあ!」
「なんと無礼な!」
突然のことに姫君は小さな悲鳴をあげ、女房たちは色めき立ちました。
「その虫を籠の中に入れておくなら、この葉をやればいい」
「まあ」
姫君は愛らしい眼を大きく見開きました。
「姫様に何という口の利きよう。そこな童――」
「己は童ではない。薫だ」と青嵐は言いました。
「では薫」と姫君。
「お前はこの毛虫のことを知っているのですね。何を食べるか、何に成るかなど……」
「当たり前だ」
都のぐるりの山々のうちで、青嵐たち天狗のわからぬことなどないのです。
「先刻お前はその毛虫がまだ誰にも知られていないと言っていたが、それは違う。山の麓には、たしかに見かけぬ虫かもしれないが、深山に分け入れば別段珍しくも何ともない」
「まあ小憎らしい。何とこまっしゃくれた童でしょう。山寺で育つとこのようになってしまうのでしょうね。姫様、このような下賎の者にはお近づきなさいますな」
女房たちは気色ばみ、童子姿の青嵐を、犬の仔ででもあるかのように手でしっしと追い払おうとしましたが、姫君はそれを押しとどめました。
「この者が本当に山寺で育ったのならば、都人より野山に通じているのは道理でしょう。さあ、こちらへ来て色々聞かせておくれ」
それからふたりはどの毛虫や蛹がどんな羽虫に成るのか、肩を並べて話しました。何を尋ねられても青嵐が淀みなく答えるので、終いには姫君は溜め息をつきました。
「お坊様に尋ねてもわからなかったというのに、薫は何でも知っているのですね」
「この山のことで、己の知らぬことは無い」
青嵐はちょっぴり得意になって言いました。天狗の悪い癖です。感嘆されたのに加え、姫君が物事の本質を知りたがっていることに、己の持つ知識を分けてやりたいとも思うようになっていました。
「女房たちを許してやってね」
別れ際、姫君は言いました。
「あれは妾を思ってのことなのです。都では、他愛ないことでもすぐ人の口の端にのぼってしまう。始終気を張っていなければならないのです。ここでは誰に気兼ねすることもないので愉しいけれど、妾は都に帰らねばなりません。でもまたきっと来ますから、もっと教えて頂戴ね」
「約束だ」
ふたりは子供のように指切りをして別れました。
そして約束どおり、姫君は再び寺へやって来ました。
病に臥せっておられる帝の平癒祈願、というのが理由でしたが、写経などそっちのけで、境内や林の裾へ出て歩くのでした。
青嵐は姫君に、鳥獣の生活や山野に生えている薬草の効能を教えました。
「……とても苦い」
干した木の根を齧った姫君が顔を顰めました。
「そりゃそうだろう、薬は菓子とは違う」
姫君が可愛らしい眉根を寄せて唇をすぼめる様子が可笑しくて、青嵐は大声で笑いました。たとえ童子の姿であっても、彼が笑うと、山の木々がそれに合わせて、風もないのに枝葉をざわめかせました。
それからまた或る日のこと。
青嵐はいつものように大杉の天辺に腰かけて、姫君が輿に乗ってやって来るのを待っていました。
するとそこへ静かな羽音がして、何者かが、一本足の下駄を履いた片足で、杉の梢に舞い降りました。
「凪」
青嵐は振り返って呼びかけました。
凪と呼ばれた天狗は、若い面にもかかわらず、その長い髪も羽も、年老いた鷲のように真っ白でした。
「貴方が踊りにも合戦にも姿をみせないもので、皆、どうしたのかと寂しがっていましたよ。――そうだ、舶来のものだという、黒い粉を手に入れたのです。火中に投じると、栗のように爆ぜるのだとか。面白そうでしょう? 貴方もおいでなさい」
青嵐は苦笑しつつ、
「知っているくせに嫌味を言うな」
「大臣の娘とかいうあの女童でしょう。知っていますが、人の子と地べたで遊ぶのがそれほど面白いとは知りませんでした」
「あの子はお前に似ているところがある」と青嵐は言いました。
凪は腕力こそ頭目である青嵐に劣るものの、知力では青嵐も一目置く片腕でした。難しい経もすらすら説き、古今東西の兵法も心得ていて、合戦の真似事をして遊ぶときは彼が采配をふるうのです。
青嵐は凪に、姫君に山の虫や獣のこと、薬草を見分ける術を教えたと話しました。
「物怖じせぬ童で、飲み込みも早い。これほど教え甲斐のある人間に出会ったのは何十年ぶりなのだ。おまえも、会えばきっと気に入る」
「感心しませんね」
冷たい声音に、青嵐は面食らいました。知識を追い求めるのが好きな凪ならば、わかってくれると思っていたのです。
「何故だ?」
「その娘が教えられたことを独り胸にしまっておくとは限らぬではないですか。誰ぞに唆されて、我らの秘密を明かしてしまうようなことにでもなれば、如何されますか」
「お前は都人のようなことを言う」
青嵐は豪快に笑い飛ばしました。
「あの姫は人としては変わり者だ。金品や甘言では動かされぬだろう」
「人の心はうつろうものです」
凪は静かな湖面のような表情に微笑みを浮かべ、飛び去っていきました。
その言葉が当たったのか、姫君は突然山寺に姿をみせなくなりました。
青嵐は半年、一年と待ちました。何百年も前から生きており、これから先も同じように生き続ける天狗にとっては、一年など瞬きをする間のようなもの。
ところが、雪が融け、再び桜が咲いて散り、紫陽花が茂って枯れ、藤の花が重く垂れ下がり、紅葉が山を染める頃になると、青嵐は胸の奥がそわそわし始めました。
仲間の天狗たちには何も変わったところなど見受けられません。新しい兵法を試そうと、いつものように東軍と西軍に分かれて合戦をしようと集まってきました。 凪は裁定役として少し離れた所から見守っています。
「御大将」
足軽のような簡素な鎧を身につけた天狗が青嵐に声をかけました。
皆、思い思いの格好をしています。僧兵姿あり、草鞋履きあり、刀あり、金棒あり……。
「御大将が居らぬと、話になりませぬ」
「うむ……」
青嵐は何だか気乗りがしませんでしたが、東軍の大将なので、出ないわけにもゆきません。手に持った棒をひと振りすると、薙刀に変えます。
青嵐の号令一下、両軍入り乱れての合戦が始まりました。天狗たちは梢の間を目にも留まらぬ速さで縫うように飛び、空高く飛び出しました。そこへ木の陰で待ち伏せしていた一隊が襲いかかり、空中で切り合いが始まります。
白刃が月光に煌めき、天狗たちは鷲のような声で雄叫びをあげ、夜の底に沈む山々を震わせました。
青嵐も二匹の天狗に切りかかられましたが、薙刀を振るって槍の穂先を受け流し、相手が体勢を崩したところを、柄で背中から叩き落します。もう片方は振り下ろされた刀を受け止め、谷底へ蹴り落としました。
敗れた天狗たちは地上に向かって流星のように堕ちてゆきましたが、地面に激突する寸前で、力強く羽ばたいて体を反転させ、再び合戦に舞い戻ってきます。
これは遊びでした。永いこと生きており、森の獣はもとよりほかの物の怪よりも強い天狗たちにとって、命をかけて本気になれる事柄など無きに等しかったのです。
青嵐に敵う者は誰もおりませんでしたが、彼とて誰も傷つけるつもりはありませんでしたから、合戦は何刻も続きました。
結果的に東軍の勝利との判定にもかかわらず、青嵐の気持ちは晴れません。夜はすでに更け、合戦に飽いた天狗たちは笙や篳篥を吹いて踊り出しました。
青嵐はそれを横目で眺めているだけです。
頭目の加わらないことに天狗たちは最初怪訝そうでしたが、すぐに自分たちだけで騒ぎ始めました。
凪の言うように、姫の心は変わってしまったのだろうか。
青嵐には理解できませんでした。天狗たちの世界では、誰かが欠けることも、一度交わした約束を違えることもないのです。
ならば姫に問い質してみよう。
青嵐は夜を衝いて飛び立ちました。ほかの天狗たちは何が起こったのかと、笛を吹く手を止めて見上げています。
箒星のように速く。速く。皆の驚いた顔もどんどん小さくなってゆきます。
闇に紛れて都の上空までやってくると、青嵐は左大臣の屋敷を探しました。
遠くまで見渡せる目を持っているとはいえ、実際に都の土を踏むのは初めてです。
お屋敷のある都大路は広くて長いものの、山の果てのなさには及びません。さらに、下るにつれて粗末な掘っ立て小屋がひしめき合い、沢山の人々が肩を寄せ合って暮らしているようです。飯を炊く匂いや、魚を焼いているらしい焦げた臭い、飼われている牛馬の臭いもします。
すでに夜は明けかかり、青嵐は天狗の姿から童子の格好に化生せざるを得ませんでした。
左大臣の屋敷は築地と植込みで目隠しされていました。
土塀が子供の背丈の倍あろうとも、青嵐には何ほどのものではありません。塀を一足飛びに飛び越えようとしたとき、青嵐は堀の外から内を覗く男がいるのに気がつきました。
「そんなところで何をしている」
突然声をかけられたので、男は驚愕したようでした。思わず大声をあげかけたところを、自身の手で口を塞ぎます。よく見れば、仕立ての良い狩衣姿の青年です。人相も卑しくありません。さらに、塀の角にしゃがみ込んでいるのは供の者と思われました。
「ここな姫君が大そう美しいと噂に聞き、立ち寄ってみたのだ」
と青年は答えました。
「人に聞いて何とする。直に会って確かめればよいではないか」
「異なことを言う童だな。そのようなこと、できるはずがないだろう?」
身分の高い子女は、みだりに人前に姿をみせないものだというのが都の掟なのでした。
青嵐は首を傾げました。人間に追われる獣や妖ならばいざ知らず、身分が違うというだけでふるまいまで変わってしまうとは。
「それでは、お前は姫の姿を見ることができたのか?」
青年は童子姿の青嵐にお前呼ばわりされても、別段気分を害したふうでもありませんでした。
「ああ。前に一度だけ、ちらとお見かけしたことがある……が、それきりでな。文を結んでも返事もないし……。そうだ! お前はこの家に仕える童か?」
青嵐は曖昧にうなずきました。仕えていようがいなかろうが、姫君の姿を見ることはできるからです。
「ではこの文を姫君に渡してくれ」
青年は何やら書きつけた懐紙を、青嵐の手を取って握らせました。
「何だ、これは?」
「渡せばわかる。頼むから。な、これをお前に遣ろう」
再び青嵐の手に何かが押し込まれました。彼が掌を開いてみる前に、青年は供の者を呼び、足早に立ち去ってしまいました。
青年がくれたものは、銅線でした。青嵐は道にそれを放り投げました。
塀をひらりと飛び越えて庭に立ってみると、青年が覗いていただけあって、池を隔てた対面が姫君の部屋であるようでした。女房が手水鉢を捧げ持って廊下を歩いてゆきます。
寺にいるだけであれほど小うるさいのですから、お屋敷の中では何と言われるか、たまったものではありません。青嵐は女房が角を曲がって見えなくなるまで待ちました。
部屋の中には確かに人の気配がします。青嵐が腕をさっと掻き払うと、一陣の風が巻き起こり、御簾を吹き上げました。
現われた姿に、青嵐は思わず息を呑みました。そこには同じように、息を止めて目を丸くしている姫君がいたのです。三年前より背はすらりと伸び、絹のような黒髪はきちんと切り揃えられ、眉も今風に整えられています。ふっくらと丸みを帯びていた頬もすっかり細面になり、様変わりしていましたが、匂いであの姫だとわかりました。焚き染められた香の匂いも混じってはいましたが……。
「薫!」
庭の青嵐に目を止めると、姫君は喜色満面の笑みを浮かべました。
「どうしてここに?」
「お前が、会いに来ると言っていたのにやって来ないから、訪ねて来たのだ」
「子供の足で、都まで? よくここがわかりましたね」
「造作ないことだ」
「薫らしいですね」
姫君は笑って、青嵐を御簾の内に招き入れました。
「あれから何年になります?」
「三年だ」
「忘れていたわけではないのです。見て、薫」
部屋の文机の周りには、何巻もの書や巻物が散在していました。
「外つ国の書物よ。父上が特別に手に入れてくださったの。これを読めば、うんと遠い国のことでも、居ながらにして、色々なことがわかるのよ。そうすれば、妾でも、薫に教えてあげられるのではないかと思って――でも、とても時間がかかってしまいましたね」
姫君の笑顔を見ているうちに、青嵐は胸のつかえがなくなっていることに気づきました。自分との約束を忘れたわけではなかったのです。姫君の興味の対象が失われたわけでもありませんでした。たとえ姿形は変わっても、中身は山寺に訪ねて来ていたときと同じようでした。
「そういえば先刻、屋敷を覗いていた男から、こんなものを預かってきた。お前に渡すようにと」
青年から言付かった文を渡すと、姫君は中をちらと見て、放り出しました。
「最近とみに頂くのです。やんごとない方であるとかで、無下にしないようにと父上は仰るのだけれど、妾には煩わしいばかりです。おかげで、何かあるといけないからと、妾を外に出さないためにこの書物を与えたのだと勘繰りたくもなります」
「あの山にいる限り、お前には何事も起きない」
「そうですね」
拗ねて頬を膨らませていた姫君が再び笑顔になり、青嵐も声をあげて笑いました。
それからというもの、今度は青嵐が姫君の屋敷を訪れるようになりました。
とはいえ天狗の頭目がそうホイホイ人間の都に出かけてゆくわけにもいかず、二、三ヶ月に一度が関の山でしたが。
天狗たちは訝しがりましたが、つとめを果たしている以上、深く尋こうとはしませんでした。凪も何も言いませんでした。
姫君は脇息にもたれて、遠い西国に棲む犀という生き物を描いた絵巻物を眺めていました。
「見て、人よりずっと大きい。熊とどちらが大きいのでしょう。鎧のようなものを纏っているから、おそろしい生き物なのかしら。大きくて強いのであれば、一体何を食べているのでしょう……」
「外つ国のことは、己にはわからん」
「薫にも、わからないことがあったのですね」
「己とて仏ならぬ身だからな」
姫君は涼やかな笑い声を立てました。笑われても、馬鹿にされたとは青嵐は思いませんでした。かつて唐という国へ使者が遣わされ、代わりに唐からも、珍しい書物を携えた僧や学者がやって来たことは青嵐も知っていました。しかし、ふたつの国の行き交いは、それから長いこと途絶えていたのです。
書物の中には、ずっと昔に起こった戦乱や合戦の模様について書かれているものもありました。
「その合戦の様子なら、己も見たことがある」青嵐が口を挟みました。
凪の提案で、古戦場の様子を再現して遊んだときのことです。
「まあ、とても信じられません。これは何百年も前の合戦の様子を記したものなのですよ。それに、都では近年、大きな戦など起きていないではないですか。それだのに、幼いお前が、どうしてその様子を知ることができるというのです?」
「山の奥で、天狗たちが合戦をしているのを見たことがある」
「お山には天狗がいるのですか」
姫君は驚いた様子で聞き返しました。
「いる」
「天狗とはおそろしいものなのでしょう。ほら、この書にもそう書いてありますよ」
姫君が指差したのは唐の国の書物でした。天狗は凶つ星として現われるとか、国の滅びる前触れであるとか、いろいろおそろしいことが記されています。
「それは外つ国の話だろう」
青嵐は憮然として言い返しました。
「犀がこの国におらぬように、外つ国のものとこの国のものがひとつ残らず同じだと、どうして言える?」
「考えてみれば尤もですね……」姫君は素直にうなずきました。
「では、この国に居るという天狗はどのようなものなのでしょう……。薫は知っているのですか?」
「天狗にも、善いものと悪いものが居る。どちらも力は強く荒っぽいし、鳥より速く飛び、中には鬼のような面貌をしている者もいる」
「薫は天狗と同じお山に住んでいるというのに、怖いことはないのですか?」
「怖くはない。子熊を傷つけられれば母熊は怒るが、山の獣とてやたらに人を襲ったりはせぬだろう。山には足を踏み入れてはならぬ領域があるが、それを守っている限り、天狗たちはお前に悪さはしない」
「……妾も天狗が合戦をしているというところを見てみたい」
姫君はひっそりと呟きました。
見せてやりたいと青嵐は思いました。この姫ならば、どんなに顔を輝かせて喜ぶことかと。しかし、人間である姫を攫ってゆくわけにはいきません。善悪の区別のつかぬ禽獣や烏天狗ならいざ知らず、彼らの間では禁じられていたからです。
人間と天狗の世界では、流れている時間が違うのです。姫を自分たちと同じ不老長寿にする方法は、いかな青嵐といえども、見当もつきませんでした。
青嵐が姫君の許を訪れると、いつぞやの青年に出くわすことがままありました。相変わらず姫君に文を送っているようでしたが、その表情は晴れ晴れとしています。青年の書いたものらしい文が姫君の文机に載っているのを、青嵐は一度ならず目にしました。また、青年の来ていたことを口にすると、姫君が頬を赤らめたりするようにもなっていました。
そんな折、左大臣の姫が結婚したとの噂が、風に乗って、山寺にも流れてきました。相手はあの青年だという話でした。
夫婦の契りを交わすとはどういうことか、青嵐は姫君に尋ねたことがありました。
「野山の獣も番って子を成すでしょう。それと似たようなものです」と姫君は答えました。
「それならあの男は、何故お前に文など送る? 鳥や猿は団栗や柿の実を抱えて持ってゆく。あんな腹の足しにもならぬものを贈る奴など、どこにもいないぞ」
「可笑しなことを。人はそれだけではないのですよ。その人を愛しく想う心がなければ、どのような宝物も、路傍の石ころと同じなのです」
青嵐には姫君の言っていることがよくわかりませんでした。
「薫には、まだ早いのでしょうね」
姫君はそう言って、青嵐の頭をやさしく撫でました。
姫君が結婚した年は、都に疫病が流行り、身分に関係なく多くの人が病に倒れました。人気の絶えた都大路を、痩せ衰えた躯にぼろぼろの着物を巻きつけ、髪ふり乱した、鬼とも人ともつかぬ格好の疫病神が、醜悪な物の怪たちを引き連れて駆け抜けてゆくのを、誰もどうすることもできませんでした。ふつうの人間には物の怪の姿は見えず、ただ家に籠って震えているほかありません。
化野には死人を焼く煙が延々とたなびき、悲嘆にくれる人々の声は風に運ばれて、山にいる天狗たちの耳にも届きました。
しかし青嵐にも、都を顧みる余裕はありませんでした。疫病神が寺社に入り込まぬよう目を光らせるほか、国境を越えて悪さをしにやって来る烏天狗の群れを追い払うのに手一杯だったのです。
その名のとおり、烏の嘴と羽を持つ烏天狗たちは、体も小柄で青嵐たちの敵ではありませんでしたが、叩き落しても蹴散らしても雲霞の如く湧いて出て、尽きるところを知りませんでした。
ようやく、住み慣れた森に戻ってきたとき、木々が妙にざわめいていることに青嵐は気づきました。
森の奥で大勢が騒いでいます。笛の音も聞こえないことから、帰還を祝っているふうでもなさそうです。
声のするほうに向かって、青嵐は木々の間を飛び抜けました。どんどん、森の奥深くへ入ってゆきます。御神木と崇められる、杉の巨木の祀られている方向です。嫌な予感がしました。
御神木の生える場所は、下生えに覆われた小さな空き地になっていました。空き地を囲む木の一本に、天狗たちが群がっています。彼が留守の間に残していった仲間たちでした。
「何をしている」
青嵐は狼のように吼えました。
天狗たちが一斉に振り向きました。手に手に強い武器を携えています。頭目の姿を認めると、天狗たちは無言で左右に道を開きました。
中心にあるものを目にして、青嵐は言葉を失いました。
天狗たちの真ん中には姫君が、蔦で幾重にも木に縛りつけられていたのです。
青嵐は姫君に駆け寄りました。彼の手が触れるや否や、蔦蔓はするするとほどけてゆきます。力なく倒れかかって来た姫の体を、青嵐はその腕に抱きとりました。
ひと目見たとき、姫君は血を流して事切れているように思えました。しかし、血と見えたのは緋の袿で、泥や草の汁で黒く汚れた中に、ところどころ紅色が残っているため、そのように見誤ったのでした。姫君はかすかに息をしています。
「凪、お前の指図か」
凪は黙って首を横に振りました。
「その娘は、御神木に手をかけようとしたのだ」
羽に斑のある天狗が胴間声を張り上げました。
「輿に乗り、供の者を大勢連れてやって来おった。女房どもや担ぎ手の奴ばらは、我らがちょっと風を起こせば蜘蛛の仔のようにすぐ逃げ去ったが、こやつは飛礫を打っても木を引き倒しても、いっかな引き返そうとはせなんだ。仕様がないから捕らえたまで」
姫君の瞼が動きました。斑の大声で気がついたようです。青嵐は血の気を失った姫の頬に、そっと、鉤爪の生えた手を添えました。
「……何故、ここに」
姫君は目を開けましたが、その目は焦点を結ばず、青嵐の閻魔顔も、夢か現か判じ難いようでした。
「……妾の、良人が、流行病なのです。山寺の童に教えられた薬は全部試しましたが、治りません。ですが、このお山の、深いところに生える草の根ならば、どんな病にも効くと教わったのを思い出し、採りに参りました」
か細い声で言い終えると、姫君は再び目を瞑りました。汚れた頬に、涙がひと筋流れました。頭ががくんと後ろに傾いだ拍子に、袂から熊避けの鈴が転がり落ちました。姫君の着物からしていた妙な匂いは、虫除けの香草のものでした。
「……己が教えた」
その声は、ひび割れた鐘のように響きました。
「熊が人の気配を嫌うことも、御神木の近くに薬となる草の生えることも、己が教えた。賢い娘だったのだ。まさか禁忌を犯すとは思わず――」
天狗たちは困った様子で顔を見合わせました。頭目自らが災難を招いてしまったのでは、彼らは誰に裁きを委ねればよいのか、皆目わかりませんでした。
「――これだから人間は!」
沈黙を破ったのは斑でした。
「御神木に何事もなかったとしても、もとよりこの辺りは、人間風情がおいそれと足を踏み入れてはならぬ場所。本来ならばこのような恩知らず、谷底へ打棄るのが筋合いよ」
「……姫を、都へ帰してやってくれ」
青嵐は地面に膝をつきました。大きく広がっていた黒い翼は、萎れて姫君と彼の体を覆いました。
「それは許されませぬ。御神木に仇なすつもりではなかったにせよ、禁を破ったことには変わりない」
「……したが己が教えねば、この娘は山に何があるか知りようもなかったのだ。山での身の処し方を己は教えた。決して立ち入ってはならぬ場所のあることも……」
「何を。頭目は我らのつとめを何と心得られるか――」
「わかっている。だがこの娘とて、我欲のためにやったわけではないのだ。頼む。己が代わりに松の木に吊るされてもよい……」
天狗たちはますます困って俯いてしまいました。隣とひそひそ話す者もいます。こんな頭目を見るのは初めてだったのです。
「……凪よ、どうしたらよい?」
斑も頭を掻きつつ、凪に助けを求めました。
「私の一存では決めかねます」
ここは大天狗様にお伺いを立てるのがよいでしょう、と凪は言いました。
大天狗、松籟坊は齢二千を数えるとも言われる天狗で、青嵐に跡をまかせてからは、若い天狗たちにも滅多に姿をみせなくなっていました。
ふだんは洞窟の奥で瞑想をしているという大天狗に、邪魔をする非礼を詫びるため、凪が梟のようにひっそりと飛んでゆきました。
ほどなくして、松籟坊は小岩ほどの巨体ながら、木の葉をそよとも揺らさず、御神木の前にその姿を現わしました。
凪と斑、そして青嵐から話を聞き終わると、大天狗は口を開きました。
「なんとも剛毅な姫よ。それゆえに禁を破ったとしても、我らにも慈悲の心の無いわけではない……。こたびのことはその豪胆さに免じて許してやろう。しかし」
今後一切、姫には山に入ることまかりならぬ、と松籟坊は申し渡しました。そして、青嵐も、都に足を踏み入れてはならぬ、と。もし再び背いたときには姫の命はないと思え、とも。
斑は不服そうでしたが、大天狗の決定は絶対です。姫君の命が助かるのであれば、青嵐に否やのあろうはずもありません。
それから、松籟坊は青嵐に、姫君を山の麓まで連れてゆくよう命じました。
「ただしお主はそこから先にはゆけぬ」
松籟坊は厳かに言い渡しました。
青嵐はうなずくことしかできませんでした。都まで、女の足では何日もかかります。輿もなく、随身もないでは、途中追剥に遭うやもしれません。天狗の羽ばたきならば、ひとっ飛びであるのに……。
凪ともうひとり年若い天狗が、ついてゆくと申し出ました。大天狗は承知したとひとつうなずくと、現われたときと同じように、忽然と姿を消しました。
青嵐は姫君の体を抱え上げました。泥に塗れた白い手に、掘り出した薬草の根をそっと握らせます。
地面をひと蹴りすると、三羽の天狗は木々の梢よりも高く舞い上がっていました。頭上には月が煌々と輝いています。
岩場から落ちかけた修験者を掬い上げて飛んだこともあるというのに、姫君の細い体はずっと重く感じられました。戦いではどこも傷つかなかったはずなのに。
三羽は人里に一番近い寺の境内に降りました。天を衝く巨体、人間とは思えぬぎょろりとした眼に驚いて腰を抜かしている僧に姫君を預け、目を覚ましたら、二度と山へ踏み入ることのないよう伝えよと、天狗は言い残しました。
僧の答えるのを待たず、三羽の天狗はつむじ風となって消えました。
都では、左大臣の姫が天狗に攫われたという噂が、野火のように広がっておりました。
僧侶たちの助けを借りて、姫君はなんとか都に辿り着きました。しかし、山に捕らえられていた間、人界では三箇月が過ぎていました。姫君の夫はすでに亡く、姫君の嘆き悲しむ声は夜毎、闇を裂いて、はるか山奥の青嵐の耳を打ちました。その叫びは、青嵐の知るどの獣の声よりも長く消えずに残り続けたのでした。
山に戻った頭目を、仲間の天狗たちは何事もなかったように出迎えました。彼らにしてみれば、ことが過ぎてしまえばいつもと同じ。頭目が頭目であることに変わりはないのです。
青嵐も彼らに混じって、再び合戦や篳篥の輪に加わりました。
よく晴れた日や月の明るい晩、山の稜線に目を凝らすと。茶色や黒の竜巻が幾つも舞っているのが見えたといいます。
そのうちに、都では帝の代替わりがありました。
ある日の夕刻のこと。青嵐が里山の上を飛び過ぎようとしたとき、ふたりの尼僧が畦道に立ち往生しているのが見えました。片方の尼がひどく足を挫いたようです。
「妾が先に参って、誰か人を寄越すよう頼み上げましょう」ひとりの尼が言いました。
「かようなところで独り待つなど真っ平です。追剥の出るやも知れず……それにこの辺りでは、天狗が人を攫うというではありませぬか」
尼僧の言葉に、青嵐はちょっとむっとしました。しかし、修行者を捨て置くわけにもゆきません。尼僧のふたりくらいなら、その言葉どおり小脇に抱えて攫ってゆくこともできましたが、ひとまず様子をみようと、童子姿になって畦道を歩いてゆきました。
黄昏時の中、足を挫いたほうを慰めていた尼僧が、彼のやって来るのに気づいて顔をあげました。
薄明かりでも、青嵐には、尼僧が誰であるのかはっきりわかりました。白鷺のように髪は白くなり、やわらかかった頬は痩けていても。
「もし、そこな童」
と姫君は言いました。
「童ではない。己の名は薫だ」
と青嵐は応えました。
姫君はうっすらと笑ったようでした。
「薫。良い名ですね。むかし、そなたと同じ名の男童がおりました。物事をよく知っていたので、今頃は長じて立派な僧徒になっていることでしょう。これも何かの縁。我らは尼寺へ参りますが、連れが足を挫き難儀しております。お寺はここから遠いのですか?」
「その足では無理だ。己が行って人を呼んできてやろう」
姫君の礼も耳に入らぬうちに、青嵐は駆け出していました。
彼を見据えた姫君の眼からは、かつての輝きが消えていました。罠にかかった獣がみせる、昏い水底のような眼でした。
暗いのを幸い、天狗の姿で尼寺までひと飛びすると、姫たちを迎えにゆくよう、寺男に大声で呼ばわりました。
姫君は尼寺に引き籠ると、蓑虫が下がっても竹の花が咲いても一顧だにせず、一歩も外に出ようとはしませんでした。
――あのとき、姫からは立ち枯れる木のような匂いがした。
青嵐は杉の木の上で思い返していました。
己だと、気づきもしなかった。
「どうしました、浮かぬ顔をして」
いつのまにか、凪が羽音もさせずに傍らに来ていました。
「煩い」
凪は訳知り顔に、片方の眉を上げてみせました。
「そういえば、いつぞや話したあの黒い粉で、少しばかり面白いものを拵えたのです。ある種の岩や石を砕いて混ぜると、彼岸花のように綺麗な火花が散る。新しい余興になるとは思われませんか?」
二羽の天狗は木の葉を散らして飛び立ちました。その後、天狗が姫君の前に現われることは二度とありませんでした。
終
ふだんはhttp://saloonofadventurers.blog67.fc2.com/にて中世ヨーロッパ風権謀術数ファンタジーを扱っています。あるいはhttp://blogs.yahoo.co.jp/realbabytweetyでミリタリー風BLを(笑)。
これはどちらにも該当しないので、両方のブログに載せることができず、こちらに投稿することにしました。