閑話
「おかえりなさいませ」
男が転移陣から出もしないうちに声が降ってくる。
ゆらりと滲むように現れた存在はしかし男が一人であるのに気づくと悲しげに顔を歪めた。
「置いてきてしまわれたのですね。あれはお気に召しませんでしたでしょうか?」
「気に入るも何も」
男が腰を屈めて、一緒に転移してきた荷物に手を伸ばす。面倒でも分類して片づけなくてはならない。少なくとも、食料とそれ以外、には。
「ここには彼女を寝かせる場所がないだろう。成長期の子供には十分な食事と睡眠が必要なんだよ」
咎めるような口調でそう言うが。
「では主もそろそろお寝みの時間ですね」
そう嘯く男自身が未だ成長期を脱していないかのような外見をしているのだ。実年齢はともかくとして。
だから、からかう口調に、男が過剰に反応する。
「……まだその必要はない。だいたい外見がこうなのは、半分はお前達のせいだろう」
魔力の多い人間は、老化が遅くなる。
幻獣を憑かせたことにより爆発的に魔力が増えた者にそれは顕著だ。
「何をおっしゃいますやら。貴方が童顔なのは、親御より戴いたものの取り合わせの妙にございましょう」
「童顔言うな。不老不死のお前らにそんなこと言われたくない」
不機嫌な口調ながらも、荷物を仕分ける手はよどみない。
「この外見は借り物にございますれば。老人に仕えてもらいたいと主がお望みであればいくらでも老けて進ぜましょう」
放っておけばいくらでもこの話題を続けそうな相手に、男は疲れたような溜め息を吐く。
「…………いい。外見のことは。もうどうでも。それより頼んであったことはどうなった?」
『彼女』が元いた世界と、ここへ運んだ経路のことだ。
「確認はできました。ただ、人ひとりを転移させるほどの容量は維持できていません。彼女を運ぶ途中でだいぶ毀れてしまったものがいるようで」
「……そう、か。……補充は?」
「不要です」
「……そう」
立ち上がって仕分けた荷物を大まかにまとめる。と、分けた荷物が消えてなくなる。『主』の意を汲んだ連中が措定の場所に片付けてくれるのだ、残ったのはこの部屋に置くことになっている書籍類や魔法関連の器物、それに男が抱えている当座の着替えだ。
「じゃあ、うっかり何かが落ちてこないよう、出入り口は塞いで、最低限の経路を維持。不活性化状態で。……ああ、こちらからの出入り口が書庫の転移陣になってるようだから、どっか他のところに繋ぎ変えて。経路を不活性化していても、転移陣の発動につられないとも限らないし」
男はその場を立ち去りながら口速に指示を飛ばす。領域のうちであればどこにいても相手に通じるのが解っているからだ。ただ、独り言をしゃべっているような気分になるから、話しかける時にはなるべく姿を現すように言い含めている。
「経路を維持、ということは、お返しになるつもりで?」
「まだ親元で保護されている身の上だろう、あれは。帰すのが筋じゃないか? それができるのであれば」
「主はあの歳には独り立ちしていたでしょうに」
「あれは時勢がああだったから、やむなく……」
不意に男が足を止める。
「……独り立ち、ねぇ……未だにできていないような気が時々するんだけど」
ゆっくりと後ろを振り向いて零す声には自嘲的な響きがある。
男が視線を当てている扉の向こうには、王宮から『寄贈』された大量の書籍がある。
「主の庇護者は大きな権力をお持ちですからねぇ」
過去形ではないところが厭になる。名目上は引退しているのに。
男は首を強く振って考えを断ち切った。
「……とにかく、本人が帰りたがっているのだから、帰してあげるべきでしょう。そりゃ、手伝ってくれるひとは欲しいですけど」
「…………承知いたしました。ですが、すぐに帰す、というのは難しいですよ」
「……どうして?」
「さきほど主がお命じになったように、経路を不活性化させているからです。だいいち、こちら側の出入り口もまだ固定していませんし」
そうだった。男の目の前に姿を見せているのは、仮初めの体なのだった。いや、実体があるのかどうかも怪しいのだ。だからここに体があっても他所で作業ができるのだ。ましてそこが肉体の目では感知できない『世界の狭間』などというところでは。
「……経路の再開にはどれくらいかかる?」
「経路の維持に回しているものの回復次第ですね。こちら側のどこに繋げるかは任せて解放してしまいましたから」
……解放した。
つまり、野放し?
男は耳を疑い、次いで軽くめまいをおぼえた。
『彼ら』はある程度まとまれば、理性的な振る舞いが期待できる。だが単体では……
むろん、単体ではたいしたことはできない。それに今は彼女を運ぶのに力を使い果たしている。はずだ。
「いずれ回復すれば主の喚ぶ声に応えましょう。それまでお待ちくださいませ」
わざとか。
繋ぎ変えろ、という指示は止めとけばよかった。
……いや、こいつらのことだから指示がなくても同じことをしただろう。
「……わかった。いろいろ疲れたから、もう寝む」
男が肩を落として足を寝室に向けると、
「おやすみなさいませ」
という機嫌のいい声が追いかけてきた。