第9話
「お疲れ。本当に来てくれたんだね」と直美はニコッと微笑みながら言った。
俺は来ていないと諦めていたので、慌てて返事をした。
「あっ、うん。元気だった?」
直美はクスクスと笑った。
「元気だったよ。それより、そんなに慌ててどうしたの?」
「待たせたら悪いなと思って、急いで来たんだ」と俺は咄嗟に思い浮かんだことを言った。「私もさっき来たばかりだから大丈夫だよ」
「そっか。ならいいんだけど」
俺がそう言うと、直美は俺のほうへ近づいて顔をジッと見て、何か意味ありげな笑みを浮かべた。
「実はね、さっきまで慎吾がテニスしてるところを観察してたんだ」
俺は思わず身を引いて驚いた。直美はまたクスクス笑った。
「全然わからなかった」と俺は呟くように言った。
「慎吾が好きな音を聞きに行くって言ったじゃん」
「本当に来るとは思わなかったよ」
直美は俺の肩をポンと叩いた。
「私は言ったことはちゃんと実行するほうだから。有言実行ってやつ」
「そ、そうなんだ。じゃあ、俺も絶対に直美がコンクールに出るときは聞きに行くよ」
「絶対だからね」
俺は何度も頷いた。
「ところで、今日はまだピアノを弾いてないの?」
「うん。私もここに来たばかりだから」
「じゃあさ、なんでもいいから一曲ピアノを弾いてくれない?」
直美はニコッ笑みを浮かべながら頷き、ピアノの前に座った。
ピアノを弾いているときの直美は本当に迫力があり、その音は人の心を芯から揺さぶるようだった。曲自体は音楽の授業かなんかで聞いたことがあるものだったので、たぶんモーツァルトとかベートーベンとかの曲だろう。クラシックとかは一度も聞いたことがないからわからないが、こんなに凄いものなのだと心から感心した。
いま俺が一番好きな音は間違いなく直美が弾くピアノの音だろう。ピアノを弾き終わった直美を見て、俺は本当に好きなんだと思った。
「初めてクラシックを生で聞いたよ。凄いとしかいいようがないね」と俺は余韻に浸りながら言った。
「本当に! いまのモーツァルトの協奏曲第二十一番だったんだけど、なんか慎吾に誉められると嬉しいな」と直美は照れくさそうに言った。
「そうなんだ。直美のピアノを聞いたら、誰だって誉めるだろ」
「まあね」と直美は冗談っぽく言った。
「ほらな。誰だって誉められたら嬉しいもんだよ」
「そんなことないよ。やっぱり、いい音がわかる人に誉められるのは特別に嬉しいもん」
俺はここに来るまでの不安な気持ちがバカバカしく思えた。いまなら、この時間がずっと続いたらいいのにとかいうクサイセリフも言えそうだ。
「そ、そうかな。でも、直美が弾いた曲は本当に凄かったし、感動したよ」
直美はウンウンと何度も頷いた。
「じゃあさ、その感動を言葉で表現してみて」と直美は悪戯な笑みを浮かべて言った。
「えっ、言葉で表現するの」
「そうだよ」
直美はスッと立ち上がり、ジッと答えを待つように俺を見た。
「心に感情の扉があるとしたら、直美のピアノの音はノックもせずに土足で入って、感動っていうスイッチをすぐに探しだして、連打していく感じかな」
「それって、誉められてるのか貶されてるのかよくわからないよ」と直美は微笑みながら言った。
たしかに冷静に聞いたら何を言っているかわからない答えだったが、そのときに感じたことを言葉で表現すると、他には適当な言葉がないように思えた。
「もちろん誉めてるよ。直美のピアノの音はダイレクトに響くっていうか、荒々しい感じで、心の芯から感動させるような音だった」
直美はスッと視線を外して、照れくさそうに笑っていた。
「なるほど。またまた魅力的な答えだね」と直美は満面の笑みで言った。
俺は照れ笑いをしながら首を振った。
「そうでもないよ。それより、これからどうする?」
「もう遅くなってきたし、そろそろ帰るよ。うちの家って厳しくて、用事がないのに遅くなるとうるさいんだ」と直美は渋い顔をして言った。
俺はこの後の展開を頭の中でいろいろと考えていただけに、ショックという波が押し寄せてきた。
「そっかそっか。俺もそろそろ帰るかな」と力なく言った。
「じゃあ、また来週の金曜にここに集合ね」
どうやら、波はあっという間に押し流されたようだ。