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フォルスタッフにて

 アリスふうのエプロンドレスは相変わらずだが、これは先日まで、黒猫亭に飾られていた。美由紀が雄叫びを上げて欲しがっていた服だ。

 ドアのカウベルが、からんと鳴った。また通りすがりの客かと思えば、入ってきたのは、長い髪にゆったりとした黒い服……レムリアン星姫だった。

「おはよう。今日は店を開けてるのね」

「いらっしゃいませ」

 屈託ない美由紀の笑顔に、彼女はまだ少し疲れの残る笑みを返した。カウンターに歩み寄り、ぼくの隣に腰かけたとき、エキゾチックな薔薇の薫香がたちのぼった。美由紀が訊いた。

「コーヒーでよかったですか」

「ええ。でも睡眠薬は入れないで」

 二人顔を見合わせて、くすくすと笑い出す。

「その服、似合ってるじゃない。サイズもちょうどいいみたいだし」

「まるでわたしに着られるために、海をわたったようなもの、でしょう?」

「そうかもね」

 肩をすくめて、煙草に火をつけた。メンソールの香り。

「ユキトくんは?」

「散歩です。葉隠稲荷まで」

「いいことだわ。あそこはパワースポットだから、とくに午前中の気を浴びておけば、彼女の回復も早くなるでしょう」

 彼女は言葉を切り、溜め息まじりに煙を吐いた。淹れたてのコーヒーを、会釈してうけとり、カップを見つめたままつぶやいた。

「そうよ。少しずつ変えてゆけばよかったのに。わたしは彼女に、あんなことをさせて……」

 この機会を逃さず、ぼくは尋ねた。

「彼女は……ゼットはいつ頃から、黒猫亭に来ていたんですか」

「二月半にもなるかしら。ウェイトレスさんの推理どおり、パキスタンからの便に混じってた。風変わりなチェスの駒が、ひとつだけ多くて」

「ああ、それがゼットだったんですね。よくわかりましたね」

「気が出ていたもの。オーラの色が奇麗だから、怨霊や、タチのよくない妖怪ではなさそうだった。話しかけると、あっさり素性を語ってくれたわ」

 二人の姉がそうであるように、ゼットもまた活動するためには、宿主を必要とする。たいていの場合、宿主の体内に寄生する形をとるが、ゼットは星姫の霊能力に感嘆し、寄生しない形で、彼女を主人とみなした。ちょうど、現在のぼくとイコとの関係が、最初から成立したわけだ。星姫は続けた。

「わたしは昔から、プロスペロウや安倍晴明みたいな魔法使いに憧れていたから、彼女を得て、どんなに嬉しかったか知れない。わたしたちは主従というより、友達どうしだった。彼女は黒猫亭の商品のひとつに姿を変えて、小さなイタズラを仕掛けては、わたしを楽しませてくれた。

 例えば、アンティークのロケットペンダントを、お客に勧めたとする。蓋を開けると、そこには少女の細密画が描かれているんだけど、お客が眺めているうちに、少女がぺろりと舌を出すのね。何食わぬ顔で「どうなさいました?」と尋ねるとき、どれほど笑いをこらえていたでしょう。どれほど楽しかったでしょう。

 でも、わたしと彼女との蜜月は、そう長くは続かなかった。ある夜、人目を忍ぶように、伊丹さんが訪ねて来た時から……ライク・ア・ローリングストーン。破滅への坂道を、まっすぐに転がって行ったわ」

 煙草が揉み消された。星姫はカップを持ち上げ、ひと口飲んでから、棚を見上げた。そこにあったテレビはすでに撤去され、かわりに額が立てかけられていた。中で咲き乱れる細密画の薔薇は、むろん、ボタニカル・アートが好きなユキトのチョイスだ。

「ルドゥーテの薔薇ね。相変わらず、ユキトくんのセンスには驚かされるわ。本当に十九歳なのかと疑うほど。それに比べて、わたしは何て大人気なかったのだろう。思春期の子供にも劣るわ。ひとたび怒りに火がつくと、もう手がつけられなくなる。すべてを焼き尽くすまで、止まらなくなってしまう」

 三年前、桜吹雪商店街に店を出すとき、伊丹さんは彼女のために、ずいぶん尽力してくれたらしい。

「素性の知れない、流れ者のわたしのことを、親身になって助けてくれた。振興会には二つ返事で加盟できた。そればかりか、銀行に話をつけてくれたり、保証人にさえなってくれた。わたしは伊丹さんを尊敬していた。父親のように。いえ、神様のような人だとさえ思っていた。だから……」

「不本意だったのですね。立ち退きを持ちかけられたことが、とても」

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