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侵入

「きみは、彼女に疑問をぶつけたりはしなかったの? どこに住んでいるのか。なぜ周りに人がいない時だけ、あらわれるのか?」

 ユキトは首をふった。

「じゃあ、人に話したことは?」

「ありません。母にさえも、ついに話せませんでした。ユキノが口外されることを、好まないような気がしましたし、また人に話したとたん、消えてしまいそうで恐ろしくもありました」

「彼女はきみを、ずっと兄と呼んでいた?」

「ええ、それが最も自然に聞こえましたから」

 やがてかれらは、思春期を迎えた。体の内と外から、怒涛のように押し寄せる情報に、翻弄される時代である。それでもかれらの関係は、何も知らない子供の頃と、さほど変わらなかったという。二人きりの親密な時は、他愛もないお喋りや、勝敗のつかないチェスに費やされた。

「無粋なことを訊くけれど。きみたちはお互いに、恋愛感情を抱いていたと考えていいのかな」

 痛みを覚えたように、ユキトは眉根を寄せた。ぼくは慌てて質問を変えた。

「ああ、いや、それは置いておくとして。聡明なきみのことだから、さすがに考えただろう。ユキノさんが、その、実在するのかどうか」

「そうですね。中高生になると、フロイトやユングの名が、いやでも目に飛びこんできますから。おそらく頭の中では、とっくに答えは出ていたと思います。ただ心情的に、ぼくはあの子に消えてほしくなかった。五歳の頃から紡いできた夢を、終わらせたくなかった」

 夕景の商店街に、灯りがともり始めていた。風の中に、ちらちらと舞う白いものが混じった。ユキトは語を継いだ。

「母の死と同時に、ユキノはいなくなりました。ぼくが打ちひしがれているのは、母の死のせいか、それともユキノが消えたためか、自分でも区別がつきませんでした。

 ところが、二週間ほど前から、夜ごとあの子の夢を見るようになりました。考えてみれば、夜の夢にユキノがあらわれたことは、かつて一度もなかったのです。とても生々しい夢で、目覚めたあとも、すぐそばにあの子がいるのかと、錯覚するほど。そうして日曜日の朝、幸吉さんを見舞った帰りに、ぼくは駅ビルの壁に映し出されたユキノと遭遇します。

 言うまでもなく、それがリトルシスターでした」

 黒猫亭に着いた。

 ぼくたちは足を止め、巨大な猫の顔を眺めた。ニヤニヤ笑いしている口の部分は、ホールライトだけをともして薄暗く、かわりに両眼とも、煌々と灯りがともっていた。まるでギラギラ光る猫の眼に見下ろされているようだ。店の前には、威圧的な黒塗りのメルセデスが横づけされていた。車の中は空とおぼしい。

「荻原新一郎が来ているのか……」

 だとすると、このあいだフォルスタッフから出てきた大入道も、一緒なのだろう。スーツより迷彩服とバズーカーが似合いそうな面がまえ。対してこちらは、いかにも非力な男二人に、小妖怪とメイ探偵。束になっても鼻息で吹き飛ばされそうである。

 店のガラス戸は、当然閉まっていた。ほかに勝手口も窓も一階にはない。ここが唯一の侵入路であるが、いかにさびれているとはいえ、通りに面して人通りもある。おおっぴらにガラスを叩き割るわけにはゆくまい。さいわい奥まっているし、周囲は暗いので、ピッキングするのがベストなのだが、我々にそんなスキルがあろう筈もなく……

「まったく、これだから人間は頼りないというんだ。カンザシを貸してくれ」

 ポケットから顔を出して、キイがそうほざいた。今どき、カンザシを挿して歩いている男などいるものか、と言おうとしたところ、すかさずユキトが、ヘアピンを手わたした。どうしてこんなものを常備しているのか、疑問は尽きないが。

「お、春日サンキュー。気が利く上に、あんたいい男だな。おい貴様、早くわたしを鍵の前に連れて行かないか」

 貴様呼ばわりされながら、ぼくはこやつを掌に載せ、取っ手の下に近寄せた。竹槍のように構えたヘアピンが鍵穴に挿し込まれると、ものの五秒で金具の外れる音が響いた。慣れているとしか思えない手際のよさ。こやつ、寄生なんかしなくても、充分食っていけるのではないか。

 店の中は、西洋ふうのお化け屋敷と化していた。ティム・バートンあたりがホラー映画を撮ったら、こんな感じではなかろうか。薄明かりの中、奇奇怪怪な猫の人形たちの間を進むと、小テーブルが目についた。チェス盤の上に、例の風変わりな駒が散らばり、床にまでこぼれていた。

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