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ユキノ

 目をまるくしている佐々木ユキに電話を返した。きっとぼくも、こまった顔をしていたに違いない。口ごもっている間に、彼女のほうから切り出した。

「お取り込み中みたいだから、わたし、帰りますね。マスターと美由紀さんに、よろしくお伝えください」

「あ、ああ。申し訳ないね」

 眼鏡をちょっと指で持ち上げ、彼女はほがらかな笑顔をみせた。じつに素直ないい娘である、シラフのときに限るが。ドアが閉まったとたん、キイが風車の弥七のように宙返りしながら、机の上に飛び乗った。

「話はすべて聞かせてもらった!」

 どれだけ地獄耳なんだと呆れていると、イコがあとからよじ登ってきて、ぼくの気持ちに解説を加えた。

「説明しましょう。わたしはシカクが、妹はチョウカクがとくに鋭いんですねえ」

「そうとも。コトワザにもあるだろう。技の一号、力の二号だ」

 それは諺じゃない。が、いずれにせよ、聞いていたのなら話は早い。イコはともかく、これから黒猫亭に乗り込む上で、敏捷なキイは役に立つかもしれない。妹であるゼットを助けに行くわけだから、異存はあるまい。いや、すでに、

「ひじを左脇の下から離さぬ心構えで、相手の内角をねらい、えぐりこむように、打つべし打つべし打つべし打つべし!」

 ヤル気満々である。五ミリの拳がどれほど威力をもつのか、疑問であるが。

 しかしぼくにだって、いったい何ができるのか。腕力は人並み以下。合気道歴一週間。金なしコネなし力なし。吹けば飛ぶような貧乏作家が、おっとり刀で乗り込んだところで、ずっこけるのがオチではないか。ただ、美由紀に助けに来いと言われたから。優柔不断な男は優柔不断な男であるがゆえに、彼女の言葉に従って突撃するのみ。

 貧乏でも、売れなくても、世の中から徹底的に無視されても、ぼくは作家だ。作家なのだ。

 と、いま一つ的外れなハイテンションで、イコとキイを上着のポケットにおさめ、靴を履き、気合を入れてドアを開いた。二階堂ユキトが、そこに立っていた。

「わあ」

「話はだいたい理解しました。道すがら、補足的なご説明ができるかと思います」

 階段を下りて、ぼくたちは肩を並べた。

 吹き始めた風を正面から浴びながら、上着の裾をひるがえし、商店街をさかのぼる恰好。古い西部劇のガンマンが、決闘へ向かうシーンに見えなくもないか。やはり見えないか。それでも心の中では、『荒野の七人』のトランペットが鳴り響く思い。

 二階堂ユキトはささやく。

「ぼくとユキノの関係は、ほぼ美由紀ちゃんが考えていたとおりです。あの子が最初にあらわれたのは、ぼくが五歳のときでした。T川の岸辺に、独り、ぼんやりたたずんでいると、遊ぼう。と言いながら、あの子が顔を出しました。まわりは背の高いススキに覆われていて、向こう岸の工場の屋根だけが見えました」

(遊ぼう)

 自分とそっくりだとは、考えなかったという。知らない女の子が遊びに来たとしか。

「どこから来たのか尋ねると、川のほうを指差しました。向こう岸から来たのだと思ったのです。近所で見かけなかったのも、それで納得できました。夕方まで遊んで別れたあとも、あの子はたびたび来るようになりました。考えてみれば、小さな子が行き来できるような橋なんて、近くになかったのですが。その頃はまったく不思議に思いませんでした。

 いつしかぼくは、あの子が訪ねてくるのを、楽しみに待つようになっていました」

 T川の向こう岸はK県である。境界を区切るこの川の意義は、実際の川幅以上に大きなものがある。基本的にK県人は都民に対抗意識をもっており、K県警と警視庁が犬猿の仲であるように、K県人もまた、好んでこの川を渡りたがらない。遊びに行く場合も、はるばる南下してY浜へ向かうと聞く。

 例え橋があったとしても、五歳の女の子が一人で渡って来ることなど、まず考えられないのだ。ユキトは続けた。

「いつしかぼくはあの子のことを、ユキノ、と呼ぶようになっていました。あの子がみずから名乗った記憶はありませんが、自然にそうなっていました。

 ユキノがあらわれるのは、川岸ばかりとは限りません。公園や、道端で会うときもありました。でもそんなときは、常に周りにはだれもいませんでした。人の気配を感じると、いつのまにかいなくなっていることが、よくありました。五歳、八歳、十歳……と、ユキノはぼくと一緒に歳を重ね、美しい少女に成長しました」

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