タイミングの問題
「いきなり何を言うか」
「なぜあの娘を押し倒さなかった? 目の前に旨そうなメシがあるのに、指をくわえて見ているのは、我らが最も恥とするところ」
「おまえたちと一緒にするな。本能のおもむくままに行動すれば、たちまち排除される。それが人間社会だ」
「ふん。その社会とやらは食えるのか? エライのか? そもそも実在するのか? 食えもしない幻想に戦々恐々と怯えて暮らす、貴様ら人間のどうしようもない愚かさよ。まったくもって、ぶ……っ」
「ぶ?」
キイの全身に痙攣が走り、輪郭が手ブレのひどい写真と化した。次に数センチほど宙に浮き、何事かと思えば、くしゃみを一発。
「ぶわっ、くしょんとくらあコンチクショーのすっとこどっこいめ!」
こやつ、本当に中国の妖怪なのか。下町の親爺の魂を宿しているのではあるまいか。
さいわい、美由紀が置いていった服があるので、着せてやるようイコに言いつけた。なんだかんだと文句を垂れながら、キイは結局は着ているし、まんざらでもなさそうな顔をしていた。会ったこともないくせに、美由紀の見立ては的確で、実際にたいそう似合っていた。ぼくは尋ねた。
「二、三、確かめておきたいことがあるんだが。たとえばおまえの姉、イコは、ぼくとリンクしているが……えーと、リンクってわかるか?」
「ああ。くどくど言われるまでもない。貴様は、わたしがまだ、もとの宿主との縁を引きずっていると。つまり、リンクしているのではないかと心配しているのだろう。だが、すでに話はついているではないか。あの赤い実と引きかえに、わたしは移ってきたのだ。貴様のもとへな」
めまいがした。何の因果か、二匹も妖怪を抱えるハメになったらしい。が、一応、キイの言葉の真偽を確かめるため、簡単な実験をこころみる。
「死して屍……」
「拾うものなし」
なるほど、夏美にはないであろう語彙が出てくる。が、彼女が時代劇ファンである可能性もあるので、念のためにもう一度やってみよう。
「明日のためにその二」
「右ストレート」
確からしい。
打つべし打つべしと叫んでいる小妖怪を眺めながら、ぼくは溜め息をこっそりついた。要するに、ぼくはこやつの「主人」になってしまったということか。食い扶持のない浪人が、二人めの家来を抱えるようなものではないか。リストラしたくてもできないだろうし、主人とは名ばかりで、むしろこっちが奴隷みたいなものである。
しかも、イコはまだ単純明快でおっとりしており、扱いやすかったが、こやつは乱暴者で、一癖も二癖もありそうだ。頭を抱えるばかりだが、美由紀は戻らず、ユキトは貝になっているから、相談する相手もいない。時計を見れば三時を回っているし、どこで油を売っているのか、美由紀の帰りが遅すぎる気がした。
だがしかし、とにもかくにも、先に確かめておかなくてはなるまい。キイが誰に属しているかとか、そんな問題よりも、さっきからずっと気になって仕方がないことがあるのだ。
「おい、キイ。おまえは静香さんと闘っているとき、みょうなことを口走ったな」
「ああ。一ラウンドじゃないぜ。一分でKOしてやる。と、そう言ったっけな」
「言ってないから。腹が減っては何とやら。体に力が入らないと口走ったんだ」
イコの話では、彼女たちは精気を吸ったあと、一週間は満腹状態が続くという。伊丹幸吉が襲われてから、まだ四日は過ぎていない。なのに、もうキイが空腹でふらふらしているというのは、納得できない。多少のズレは考慮に入れても、やはり早すぎるのだ。
そこから導き出される結論は、またしても、事件を複雑怪奇な迷路へ逆戻りさせる。髪の短い女に関する胡さんの証言といい、新しい事実が出れば出るほど、わけがわからなくなってくる。鼻の下をこすって、キイは言うのだ。
「あたり前田の馬之助だ。かれこれ一ヶ月近くメシ食ってなかったのだぞ。力が入ろうはずがない。そこでな、確実に仕留められそうな獲物を、引きつけるだけ引きつけておいて、いきなり『発芽』するという、電撃作戦に出たのだがな。意想外なじゃまが入ったというわけさ」
馬之助なら「上田」であるが、そんなことはどうでもよかった。




