夢中遊行
「ぼくの部屋です」
「ノイシュバンシュタイン城とか、フォンテーヌブロー宮殿ではなく?」
「ムサクルシー・ワンルームです」
「状況を説明してもらえますか」
まだ思考が追いついていないのだろうけれど、パニックを起こさなくて助かった。静香との格闘の痕跡である、服にこびりついた泥やコケは、なるべく吹きとっておいたのだが、それでも派手に転んだ跡は、歴然としていた。夏美は肩に手をあて、顔をしかめたりしている。少し痛むのかもしれない。
「かいつまんで申しますと、きみは葉隠稲荷の境内でぼくと話している最中、突然意識をなくしました。それで、その、きみを連れて帰宅し、美由紀ちゃんの部屋へと思ったのですが、彼女は留守でした。とりあえず、そんなところです」
我ながら突っ込みどころ満載である。昏睡状態にある人間を、しかも街なかを突っきって、やすやすとここまで運べるわけがない。けれど嘘をつかず、かつ、寄生生物の事実を伏せて語れば、どうしてもこんな穴だらけの話になってしまう。案の定、夏美は突っ込んだ。
「救急車を呼ばなかったのは?」
「騒ぎを大きくしたくなかったのです。きみは、その、有名人ですし、情けない話、ぼくは巻き込まれたくなかった。お嗤いください」
これもまあ、かろうじて嘘ではない。実際は、小妖怪の存在が知れて大騒ぎになるのを避けたのだけれど。
夏美は小首をかしげて、またぼくの目を覗きこんだ。イコがぼくの目の中から、言葉を探すときの仕ぐさと似ていた。それから急に視線をそらし、あらためて部屋の中を見回した。彼女が目を止めたほうを追うと、そこは小テーブルの上。猫まんまの食器を、とっさに片づけておいてよかった。あとは旧式のワープロと、辞書や書類が載っているばかり。
「今はどんなものを書いていらっしゃるのですか?」
夏美がつぶやいた。まったく動じていない口調に、かえってぼくが面食らった。
「え、ええと。いつもの調子で、夢のような小説を、つらつらと。あと、怪談集の口語訳の仕事が入りましたので、それの準備など」
いつもの調子で、という言葉が、自身の耳に皮肉らしく響いた。たしかにこの五年間、ぼくは膨大なボツ原稿を書いているが、世にはまったく出ていないのである。夏美は、「わかりました」とだけつぶやくと、ポケットから櫛を取り出し、髪をときはじめた。問わず語りにこう言った。
「わたし、小さな頃から夢中遊行してしまう癖があるんです。三歳のとき、一晩じゅう行方がわからなくて、大騒ぎになったくらい。次の朝、公園の象さん滑り台の下で、すやすや眠っているわたしがいたんですけどね。十歳をすぎると、ほとんど出歩かなくなったのですが、軽い症状は残っているみたい」
「そういえば、『タネなしスイカの種』の主人公も、夢中遊行する少女でしたね」
夢の中を歩きながら、少女は「タネなしスイカの種」を植えてまわる。夢見ているとき、季節は常に夏である。現実世界では、ちょうど今くらいの師走をむかえた頃。主人公は、夢の中で植えたスイカがどこかで実っていると信じて、冬枯れの街を探し歩く……夏美は微笑んだ。ここへ来て、初めて見せた笑顔。
「ヨコマチ先生の影響なんですよ」
「ぼくの?」
「どこからが夢で、どこまでが現実なのかわからない。夢の中の自分と、現実世界の自分が、どこかで出会う。出会える場所があると信じて、探し求める。そんなお話もアリなんだなあって、教えてくれたのが先生の小説なんです」
「あ、ああ、言われてみれば。でも素材は同じでも、シェフの腕前がぜんぜん違ってました。きみに比べれば、ぼくの作るものは猫まんまです」
「ご謙遜なさらないで。それにわたし、大好きですよ。猫まんま」
帰るとき、彼女は「おじゃましました」と言って、深々と頭を下げた。ドアが閉まると同時に、ぼくは腰が抜けたように床にくずおれた。夏美に夢中遊行の気があるという偶然も手伝って、どうにかこうにかごまかせた。が、もちろんホッとしている暇はなかった。
「出しやがれコンチクショー! いつまでこんなキノコくさい所に閉じ込めておくつもりだ?」
松本零士先生の漫画ではあるまいし、いくら何でもキノコは生えていないだろう。這って押入れを開けると、ドラの音こそ聞こえなかったが、中国雑技団なみの身軽さで飛び跳ねながら、キイが出てきた。床の上で仁王立ちになり、片手を腰に当て、もう片方の腕をまっすぐ突き出し、ぼくの鼻先を指さした。
「貴様は、腰抜けだ!」




