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キルケー

「詮索好きなウェイトレスさん。あなたには、もうしばらくの間眠っておいいてほしかっただけよ」

「しばらくの間、ですか。なるほど、その間に、わたしに下手に動き回られては、星姫さんが不利益をこうむるのですね」

 星姫の顔から笑みが消えた。疲れている、と同時に憑かれているような、けわしい表情が浮かんだ。真紅の唇が、痙攣するのがわかった。

「思わせぶりな言い回しはやめて! あなたが知っていることを、洗いざらい話してちょうだい。ヨコマチさんにとり憑いたのは、『夷』だったの? それとも……」

「もちろん、手持ちのカードをすべてお見せする用意は、いつでもできていますよ。星姫さんのカードと、トレードすることによって」

「まだちょっと寝ぼけているのかしら、アリス。あなた、自分の立場というものが、わかっていないようね」

 椅子に歩み寄った星姫の指が、ひやりと頬に触れた。硬い、しなやかな指。じわじわと力が込められ、なぶるように顔の上を這いまわった。耳朶を摘み、頬をゆがめ、瞼を圧迫し、唇をこじ開けた。舌を摘み出されても、なぜか力が抜けて噛むことができない。

「あええうわあい(やめてください)」

「言葉を奪うのって、素敵ね。魔女キルケーのように、相手を人から獣に変える、最も簡単な魔法だわ。ね、ウェイトレスさん。時間はあるのよ。たっぷりとは言えないけど。あなたを従順な獣に変えるくらいの時間なら。その、とろんとした目を見る限り、あなたには素質がありそうだし」

 セリフといい、指づかいといい、こういう「プレイ」に慣れているとしか思えない。ようやく顔から指が離れると、ばちん、という金属的な音が響いた。驚いて身をすくめた美由紀の目に、銀色のヤイバが、まがまがしく映えた。刃わたり十五センチはあろう、ご禁制のファイティングナイフだ。

「この部屋、少し暑いでしょう? 遠慮しなくていいのよ。こんなに汗ばんでいるんだから。風通しをよくしてあげるわ」

 彼女の怯えを楽しむように、銀色のヤイバがひらひらと踊る。やがて刀身がエプロンの肩あてにもぐりこみ、すっぱりと切断した。星姫の哄笑が、こだまを返した。


 交渉は意外にすんなり成立した。イコのおやつにと、リュックに詰めていた林檎がモノを言ったのだ。

 夏美は、いや、夏美に寄生したキイは、林檎を常時与えることを条件に、胡桃沢夏美の体から離れることを承諾した。

「ただし、入るのは簡単だが、出るのは少々面倒だぞ。こいつの腹を食い破ってよいのなら、話は別だが」

「エイリアンじゃあるまいし、縁起でもないことを言うな。おまえの姉は、バイモを飲んだ翌朝に、どこからともなく出てきたぞ」

「あの花の根があるのか。ならば話は早い」

 バイモを飲めば、キイが抜け出すまで宿主は昏睡状態におちいるという。ものの三分で済むか、数日かかるかは、宿主の体質によるので、キイにもわからない。昏睡状態から目覚めるまで、夏美の体をどこに寝かせておくべきか、それが問題だった。

 かたわらでは、伊丹静香がまだ横たわっていた。拝殿の縁に寝かせ、ぼくの上着をかけておいた。細身の静香とはいえ、人間の体はとても重く、ここまで運ぶには、キイが操る夏美の力を借りる必要があった。けれど呼吸は穏やかなので、気を失っているだけらしい。そのうち目を覚ますと思われた。

(やはり、ぼくの部屋しかないか)

 静香には申し訳なかったが、夏美をこのままにしてもおけない。下手に救急車を呼んでは、かえって迷惑がかかるかもしれず。公衆電話から伊丹青果店に連絡することにして、夏美を連れて葉隠稲荷をあとにした。

 途中、芸能記者などに見つかっては面倒だ。なるべく髪の毛で顔を隠すようにして、路地づたいに帰途についた。が、これは杞憂だったかもしれない。言葉づかいのみならず、歩き方から細かい仕ぐさまで、ふだんの夏美とはがらりと変わっており、もしコアなファンと出くわしても、気づかれなかった可能性が強い。

 美由紀が戻っていることを期待したのだが、ドアには鍵がかかったまま、ノックにも応答なかった。仕方なく、ぼくの部屋に彼女を招きいれ、ストーブを焚いて、水とバイモの粉末を用意した。ぼくの布団の上で、彼女は正座したまま飲みくだした。一分と経たないうちに、ぱたりと横に倒れ、そのまま意識をうしなった。

 キイの「人格」が去ると、ぼくの布団の上には、制服姿の女子高生の肉体だけが取り残された。

 ストーブの上で、薬缶がしゅうしゅうと音をたてた。彼女の額に浮いた汗を、ぼくはハンカチでぬぐった。熱っぽい吐息を漏らして、彼女は仰向きになった。短いフレアスカートから無造作に投げ出された二本の足が、限りなくなまめかしい。こんな世にもエロチックな衣装を考案したのはだれなのか、問い詰めたくなるほどに。

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