黒革の椅子
……ぶうう……うううんんんん……んんん。
微弱な震動。ねっとりと、皮膚に纏わりつく暑さ。断片的で、不快な夢。くだけた陶片のひとつひとつに、魔物が棲まっているような。
(……ここは?)
瞼が重い。
こんなことは、一年半くらいなかった現象だ。起きるのがつらいなんて。目覚めてしまったことを、後悔するなんて。頭の奥に、にぶい疼痛がある。馴染みのある痛み。それは明らかに、容量を超えて薬を飲んだときの痛みだ。眠りたくて。ただ何もかも忘れて眠りたくて。何錠も薬を飲みくだしたあとの。つらい朝の。
(ここは、いったい?)
近い記憶になかなかアクセスできない。自身をかえりみれば、リクライニングシートに深々と沈みこんでいるような恰好だ。リゾート施設や電気店に置いてある、仰々しい健康器具のような。白くかすんだ世界が少しずつ解像度を上げてゆく。他人の部屋にいるようだ。八畳ほどで、よく片づいていて、ベッドがあり、机があり、本棚がある。
トランプの絵柄を散らしたカーテンが、ぴったりと閉ざされている。
(赤のキングを起こしてはいけなかったのよ、アリス)
耳の奥に星姫の声がよみがえり、あわてて身を起こそうとした。
「痛……っ!」
手首が締めつけられ、奇怪な椅子がきしんだ。見れば、革の肘かけにもたれた恰好のまま、手首は革のベルトで固定されていた。腹部にも幅の広いベルトが嵌まっているので、足は動かせるものの、とても起き上がれそうにない。
ようやく頭の中で、記憶の断片がしかるべき位置に嵌めこまれた。レムリアン星姫は紅茶の中に、催眠導入剤を混ぜておいたのだろう。となると、ここは黒猫亭の二階。建物を猫の顔に見立てれば、左眼にあたる、星姫の寝室に違いあるまい。
(うーん)
指を唇にあてようとして、手首のベルトに阻まれた。一服盛られたうえ、こうも厳重に拘束されているとなると、お世辞にも友好的な待遇とは言えない。そのうち黒いレザーにぴっちりと身を包んだ星姫が、乗馬鞭を片手にあらわれるのではないか。赤い唇にサディスティックな笑みを浮かべ、ようやくお目覚め? というお定まりのセリフとともに。
ひと様の性癖を、とやかく言うつもりはないが、そもそもプライベートな寝室に、こんな得体の知れない椅子が常備してあること自体、考えものである。明らかに、長時間人を拘束しておくために考案されたデザインだ。たとえば、レクター博士のような殺人鬼のための……
もし用を足す必要がなければ、このまま何ヶ月も座っていられそうなほど、クッションなどもしっかりしている。
部屋は薄暗く、アンティークらしい、細長い支柱のある室内灯が、ひとつだけともっていた。カーテンの隙間から洩れる外光によって、まだ夜になっていないことが知れた。ぶうううーんん、という、夢野久作的な震動音は、相変わらず続いていた。ほかにもの音は聞こえず、異様に静か。暖房が入っている様子はないのに、汗ばむほど暑い。
不意に、ドアの鍵が外れる音を聞いた。目覚めてから、十分は経っていないだろう。ノブが回され、レムリアン星姫が入ってきた。レザーの「プレイスーツ」を着ているわけではなく、いつものゆったりした黒のドレス。乗馬鞭のかわりに、ミネラルウォーターのペットボトルを持ち、不敵な笑いではなく、驚きの表情を浮べていた。
「もうお目覚め?」
「ようやく、ではないのですね」
「意味がわからないけど。思っていたより、ずっと早いから」
どうやら美由紀の抜群の寝覚めのよさに、驚いているらしい。たしかに昏倒するほど薬を飲まされたのだから、まる一日眠り続けても不思議はないだろう。彼女が起きたことは、監視カメラで確認したに違いない。
「飲んで。変なものは入っていないから、安心していいわ」
ペットボトルが目の前に差し出されると、急に渇きを覚えた。咽を鳴らして、冷たい水を半分ほど飲みほした。はた目には情けない姿だが、気にしている余裕はなかった。
「トイレはだいじょうぶ?」
「風雲急を告げると言えば、解放してもらえるのですか」
星姫は首をふった。見ようによっては、嗜虐的な笑みを浮べて。




