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アクション

 どくん、どくん、と、心臓が脈打っている。ガラス張りの、窮屈な水槽から抜け出そうと暴れる、大ナマズのように。

 夏美はコの字型に折り曲げた十本の指が、地面すれすれになるまで、姿勢低く身構えた。瞳を銀色に輝かせ、牙を剥いたさまは、猫科の肉食獣そのものだった。

「じつに旨そうなメシだ。ひねくれているところが、また珍味であろう」

 そう言って舌なめずりした。明らかに夏美と異なる、低くかすれた声。メシ呼ばわりされたぼくは、猫に魅入られたハムスターのように、声もたてられない。咽の奥で、くぐもった呻き声が洩れたばかり。

 ざっ、と空気が、まがまがしく揺らいだ。

 疾風と化して飛び込んできた塊を、とりもなおさず回避できたのは、奇跡といえた。ぼくは学生時代、一週間だけ合気道部に所属しており、その間習ったのは受け身だけ。夏美……の体を乗っ取ったキイが突っ込んでくるのはわかっていたし、動くとみるや、とにかく思いきって身を投げ出すことができたのは、一週間のたまものであった。

 ぼくは苔むした土の上にごろごろと転がり、懸命に片膝をついて動きを止めた。見れば夏美は肩ごしに振り返り、憎々しげに眉根を寄せている。

 第二波をかわせる自信は、もちろんない。大声で助けを呼んだところで、聞き届けられる可能性は、限りなくゼロに近い。今さら悔やんでも仕方がないが、のこのこと葉隠稲荷に一人でやって来たのは、うかつだった。カモがシイタケをアミダにかぶって、煮えたぎる鍋に飛び込んできたようなものではないか。

 おまえは超自然的な難に遇いやすいと言った、レムリアン星姫の忠告が、今さらながら思い合わされた。夏美の口から、しゃがれた声がもれた。

「貴様、腕が立つな。だが所詮は人間。サダメからは逃れられぬと知れ!」

 体を半回転させ、地を蹴ると同時に、ほとんど宙に浮いた状態で突進してきた。これもサダメなのだろう。ぼくは第二の犠牲者となるべく、身を固くして、目を閉じた。

 予期していたような首筋の痛みは訪れず、代わりに頬に風を感じた。風は薫香をはらんでいた。次の瞬間、少し離れたところで、どすんと鈍い音がした。明らかに、人が地面に叩きつけられる音。同時に、ギャッという、動物じみた悲鳴が響いた。

 ぼくはおそるおそる、まぶたを開いた。夏美ではなく、着物姿の女が目の前にいた。舞踊の途中でストップモーションをかけたような、指先まで緊張をみなぎらせた、それでいて美しい姿勢。着物はグレーを基調にした、地味な色合いだが、それがかえって若い肉体を、あでやかに引きたてるようだ。

「すべて状況を呑みこめたわけではありませんが、助っ人いたします」

 伊丹静香は、きりりと前方を見据えた。

 よほど派手に投げられたのか、夏美は四メートル離れた拝殿の前で、脳震とうを起こしたように、うつ伏せに伸びていた。やがて地を掻くようにして四つん這いになると、結び目のほどけた髪を、ばっさりと顔の前に垂らした。乱れ髪の中に、瞳の輝きだけが銀色に燃えていた。

「おのれ。腹が減っては何とやら。どうも体に力が入らぬ」

「負け惜しみですか」

「ふん、確かめてみるがよかろう。負け惜しみかどうか」

 ハヤテのごとく。という陳腐な表現そのままに、夏美は踊りかかった。交互に伸ばして掴みかかる腕を、静香はひらりひらりと、優雅にかわす。やがて右腕をとらえ、身をひるがえして襲撃者の背後にねじった。合気道の達人、伊丹さん仕込みの関節技だ。夏美は、いや、キイは苦痛にうめいた。

「くっ……!」

「仰って。夫、幸吉を襲ったのは、あなたなのですか?」

 腕を締め上げられても彼女は答えず、髪を振り乱して、静香のほうへ顔をねじ向けた。挑発的な笑みが浮かんでいた。

「忘れるな。小娘の腕を折ったところで、わたしは痛くも痒くもないのだぞ」

 一瞬のひるみを、彼女は見逃さなかった。足をかけて相手がよろめいた隙に、まるでみずから関節を外したように、静香の腕をすり抜けた。向き直ったときには、当て身がみぞおちに、深々と食い入っていた。

 無念です。そうつぶやいて倒れる静香の姿が、スローモーションで映った。いつの間に押し倒されていたのかわからない。背中に湿った土の感触があり、銀色の瞳が面前にせまっていた。荒い息が首筋にかかり、冷たい糸切り歯が肌に押し当てられた。肩のあたりで、聞き覚えのある、間の抜けた声を聞いたのは、そのとき。

「このかたは、わたしのご主人なんですねえ。妹といえども、決して噛むことは許しませんよ」

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