koi-bana
「中学生のとき、学校の図書館で借りて読みました。感想は、さっき述べたとおりです」
夏美が通っていた学校の図書館は、いったい何をかん違いしたのだろう。別の本と間違えて購入したのではあるまいか。希望に満ちた中学生にはとても向かない、ネガティブな内容だし、性描写もけっこう露骨だ。
ぼく自身、めちゃくちゃ奥手なくせに、性的な表現は手加減をしない。いたずらに読者の気を引こうとするのではない。赤裸々なだけで注目された時代は、百年前に終わっている。ただ、現実世界で奥手なぶん、せめて小説の中では、夢のような性の遊戯に耽溺したい。そんな、とても褒められない動機がはたらいているのかもしれない。
いずれにせよ、十七歳の少女に真顔であの作品を褒められると、一抹の罪悪感を禁じ得ない。知らずにセクハラしたような気分になる。いささか唐突に、彼女は言う。
「先生には、恋人がいますか?」
さっきから「先生」と呼ばれることが気になっていたが、彼女は訂正する余地を与えてくれない。場慣れない教育実習生のように、ぼくはしどろもどろになる。
「に、二年以上前に、別れたきりです」
「今でもその人のことを、想っていますか?」
「ちょっと、わからないな。二年半つきあって、ぼくがフラれた恰好だけど。むりやり自分を納得させて、それっきり未練はない。たぶんないと思う。ないんじゃないかな」
まるで某亭主関白の歌みたいな言い回しになる。それにしても、我ながらばか正直な男だと呆れ返る。ひと回りも年の違う小娘に、いいように振り回されている。質問攻めは続いた。
「どうして納得できたんですか」
「彼女にとって、ぼくは価値のない男になってしまったから」
「価値? 先生の価値って、いったい何だったのですか?」
「当時は本を出したばかりで、ぼくも自信に満ちあふれていた。前途が洋々と開けているように錯覚していた。おそらく、彼女も」
「先生が言うような『価値』ばかりを、女性は求めるものだと?」
「はっきり言って、そう結論せざるを得なかった」
反論を予期していたが、夏美は何も言わなかった。沈黙が流れ、森の奥で鳥が鳴いた。ぼくは付け足した。
「だからといって、彼女を憎んではいないよ。仕方のないことだからね。むしろ今でも、とても感謝してる」
「現在、好きな人がいますか?」
自分で驚いたほど、どきりとした。とっさに、牧村美由紀の顔が浮かんだから。
惹かれていないといえば嘘になる。惚れていると言ってしまっていいかもしれない。けれど、ぼくはその感情を懸命に打ち消し続けている。なぜなら、ぼくにその価値がないからだ。所詮ぼくが住所不定無職の居候に過ぎないからだ。彼女の優しさや、こだわらない性格にほだされて、うっかりその気になって、そして……
取り返しのつかないほど傷つくのが怖い。怖い。怖いのだ。
「わたしは好きですけどね」
「えっ」
「先生みたいな、どうしようもない人が」
ぼくは、どうしようもない男らしい。
「つきあったりするのは、たしかにちょっと怖いけど。でも惹かれちゃいますよ。先生は、馬から転げ落ちてばかりいるナイトみたい。とても耐えられないくらい重い武器や鎧を身につけて、自分で自分を傷つけるばかりで。それでもやっぱり、ナイトなんです。信じるもののために、何度転げ落ちても、立ち向かわずにはいられないんですね」
少女らしい機敏さで夏美は立ち上がった。ぼくに背を向けたまま、わざとお転婆らしく、スカートのお尻を、ぽんとはたいた。
「今日は先生と、ゆっくりお話しできてよかった……あっ」
急に彼女は前のめりになり、よろよろと境内のほうへ数歩流れた。驚いて腰を浮かせたぼくに、彼女は振り向いた。光線の加減とは思えない。その瞳の色は、ヤイバのような銀色だった。
<きっと偶然なんかじゃない。わたしの想いが、どこかで芽生える>
彼女が笑うと、数倍に伸びた糸切り歯が剥き出しになった。
第二の寄生生物、キイに寄生されていたのは、胡桃沢夏美にほかならなかった。




