せちがらい話
「少し待ってくださいね」
「えっ」
「お祈りを済ませちゃいますから」
ぼくがいることにまったく驚いた様子もなく、夏美は身をひるがえして拝殿に向かった。賽銭を投入し、作法どおり二度おじぎしてから、拍手を打った。こういうことに、慣れているような印象を受けた。
何を祈るのか、なかなか顔を上げない。こころもち前屈みの体勢だし、今どきの高校生らしくスカートは短いし、ぼくの位置からだと、けっこうきわどいところまで太腿が覗けてしまう。星型のアザはあるのだろうか。もうちょっと足を開いてくれなければ、確かめようがないではないか。
「ヨコマチ先生?」
「わっ。すみません」
あわてて姿勢を正した。謝ったりすれば怪しさ倍増なのだが、夏美は気にしたふうもなく、小首をかしげて微笑んだ。
「隣、座ってもよろしいですか」
左隣に似たような石がある。ぼくが許可するイワレはないが、ええとか何とか口ごもる。器用にスカートをさばいて腰をおろした、夏美の動作はバレエをおもわせた。案外、幼少の頃から習っていたりして。さっきの醜態をごまかしたくて、うわずった声で話しかけた。
「ここへはよく来られるんですか」
「いいえ。喫茶店に寄るつもりが、閉まっているみたいで。ふと通りを眺めると、電車の中からずっと一緒だった男が、慌てて新聞で顔を隠しました。漫画から切り抜いたような週刊誌の記者です。あのCMがオンエアされて以来、よく尾行されます。駅へ戻ってもよかったのですが、イタズラ心を起こして……」
「マイタ?」
小さく舌を出して、彼女はうなずいた。失礼ながら、この娘、どんな状況下にあっても決して悩まないのではないか? いや、そんなことよりも、
「まずいんじゃないですか。こんなところで、その、ぼくみたいなやつと一緒にいるところを撮られたら」
ひと気のない森の中の神社。アイドルタレントにも勝る人気の美少女作家と、得体の知れない三十男との密会。しかも夏美は制服姿だし、ぼくは浮浪者じみているし、見る者の誤解と妄想を存分に掻きたてる、センセーショナルな絵になること請け合いだ。ほっ、と溜め息をもらして、彼女は言う。
「せちがらい話ですけど、わたしはH社の売れっ子です。今のところは、ですけどね。出版社どうしの暗黙の了解で、よほどのことがない限り、売れている作家のスキャンダルは、報道されません。お互いにとっての金脈をつぶすのは、得策ではありませんから」
「きみは、そんなことまで?」
「いつも考えているわけではありませんよ。悩んでいては身が持ちませんから。でもやっぱり不安にはなります。わたしにはまったく下積みがない。とくに努力したわけでもない。世の中には何千人、何万人もの人が作家になりたくて、歯を食いしばってがんばっているのに。わたしは自分では何もせずに、人気作家という地位を手に入れました」
彼女の意外な生真面目さを、ぼくは微笑ましく感じた。
「何もせずに作家にはなれませんよ。きみは作品を書いた。経緯はどうであれ、それが世の中に認められた。現にぼくも含めて、きみの作品は多くの人に感動を与えている。いくらタイミングに恵まれても、作品がくだらなければ、いずれ評価は相応のところに落ちてしまうでしょう」
「でも、ヨコマチ先生だって……」
「ぼく?」
「ヨコマチ先生だって、すばらしい作品を書いたじゃありませんか。なのにどうして、世の中から見向きもされなくなったのですか。どうしてそんなに、苦しまなければいけなかったのですか」
言葉をなくした。ここ五年間、そのことばかり考えていた。焦り、嫉妬、あきらめ、無気力、そして怒りという、地獄的なループを延々と繰り返していた。答えがないことは、わかっていた。ただ意外にも胡桃沢夏美がそう言ってくれたことが、ぼくの胸を温かくした。
「もしかして、ぼくの本を?」




