髪型の問題
正午になっても牧村美由紀は戻らなかった。
仕事の手を休め、ふと机の上を見ると、イコの目が蚊取り線香状に回転していた。ぼくは肩をすくめ、席を立った。
ジャーの中には、温かいご飯が充分残っていた。冷蔵庫から卵を、棚から醤油と花がつおを取り出し、どんぶりを二つ並べた。これらの混合物ができあがったのが、一分後。
「イコ、メシだぞ」
自分も同じものを食うのだから、虐待にはあたらない。自炊歴は長いのだと自慢した以上、とても美由紀には報告できないが。それでまあ、イコの反応はというと、
「いやあ、ぱくぱく、じつにうまいもぐもぐ、メシです、ねえ、ご主人。もぐもぐもぐもぐ、この非の打ちどころのないメシは、むしゃむしゃ、何というものですか、ぱくぱく」
大好評であった。独身者の友、「猫まんま」の威力恐るべし。
食事のあと、散歩に出た。イコをポケットに入れ、リュックを背負って部屋を出ると、まっ先にユキトの部屋を叩いてみた。応答ナシ。眠っていると判断して、階段を降りた。むろん、店は閉まったままだ。
とくに行き先は決めてなかったが、ひとりでに足は葉隠稲荷のほうへ向いた。空はどんよりと曇っていたが、さほど寒くなかった。東風飯店の前を通ると、のれんの脇で、胡さんがぼんやりと「息抜き」していた。
「ヨコマチ老師じゃないか。お腹はだいじょうぶか?」
だれのせいで大騒ぎになったのかと、問い詰めたかったが、ここはお茶をにごすしかない。
「太好了。食欲あれば何でもできるネ。そうそう、このあいだ美由紀サン来たよ」
「例の探偵ごっこでしょう」
胡さんは十二月三日の午後十時半ごろ、店先から伊丹幸吉らしき人物の後姿を見かけたと証言していた。幸吉は葉隠稲荷のほうへ向かっており、黒い服の女に、ぴったりと寄り添われていたという。
「それでひとつ思い出したことがあったヨ。幸吉サンと一緒だった女性、やっぱり静香サン違ったヨ。髪がずっと短かったからネ。美由紀サンくらい短かったネ」
ぼくは首をかしげたまま、東風飯店の店先をあとにした。 もし胡さんの観察が正確なら、すべてが振り出しに戻ってしまうのだ。
単純にかれの証言にもとづけば、犯人はショートヘアの女、ということになる。けれど、星型のアザの有無によって残り三人に絞られた被疑者の女性は、伊丹静香、レムリアン星姫、そして胡桃沢夏美だが、三人ともロングなのである。逆にショートなのは、牧村美由紀と佐々木ユキの二人。
「ループしちまう。メビウスの輪みたいに……」
葉隠稲荷は昼なお暗い。
曇天を喜ぶのか、境内を埋めつくす蘚苔類の息づかいが感じられるようである。だれかに見られている気がして顔を向けると、拝殿の前から、狐の木像がぼくを睨んでいた。金色の眼。なかば苔におおわれた木像は、今にも石の台座を蹴って、とび出してくるようだ。
妄想から逃れるように、近くの石に腰かけた。へたに座ってはバチが当たりそうだが、しめ縄が張ってないので問題なかろう。ポケットの中で、イコは身じろぎひとつしなかった。まるで消失したようで心もとないが、眠っていると判断して放っておく。
かたわらのイチョウを、何気なく見上げた。忘れたように、黄色い葉を少しばかり留まらせていた。梢に置き去りにされたまま、かれらは朽ちてゆくのだろうか。風はまったくなかったが、曇天を背景に、数枚がはらはらとこぼれてきた。病み朽ちた葉たちは、落下する間だけ蝶のように美しく輝いた。
かすかな足音に気づいたのは、そのとき。
しめやかに朽ち葉を踏んで、何者かが階段を降りてくるようだ。苔におおい尽くされた怪人が頭に浮かび、あやうく飛び上がりかけた。けれど、いくら寂れているとはいえ、一応神社なのだから、参拝者が来ても不思議はない。そう考え直し、身を固くして待った。へたに隠れては、かえって気まずかろう。
やがて赤い鳥居の下にあらわれた人影は、怪奇・苔人間ではなかった。見覚えのあるブレザーの制服。二つに結んだ長い髪。石段を降りきったところで立ち止まると、境内を見回した。ぼくの姿をみとめても驚かず、笑みさえ浮べて軽く会釈した。
胡桃沢夏美だった。




