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黒猫亭へ

 出かける前に、牧村美由紀はアリスの衣装に着替えた。

 ヨコマチと初めて逢ったときも、同様な服を着ていただろうか。あの頃はまだ夏で、半袖だったし、色も生地もずっと薄かったけれど。それに今日は『鏡の国』のヴァージョンにならって、ボーダーのソックスを履いた。ぴっちりと太腿までずり上げた右足に、あるものを仕込んでおいた。

 この恰好で商店街を歩いても、好奇な視線にさらされたりしない。小窓の中で居眠りしている煙草屋のおばさん。古着屋はしきりに仔犬に話しかけ、酒屋の親爺は雑誌を片手に、囲碁の研究に余念がない。ある意味、ここはあまりに騒がしい世界から隔絶されたワンダーランドなのかもしれない。

 それゆえに、自分やヨコマチのような変わり者が棲息できるのではないか。ハタチを過ぎてもアリスの衣装を身につける女や、世の中から忘れ去られた小説家が。どこにもない過去を呼吸することでしか、生きられない者たちが。

 あるいは、ユキトも。

 考えごとをしているうちに、伊丹青果店の前に来ていた。買い物客が押し寄せるには、まだちょっと早い時間。いつになく閑散とした店先で、アルバイトの男の子が、ぼんやりと煙草をふかしていた。華奢で色白。金色に染めた長髪を頭の後ろで結んで、耳にプラスチックのダイヤのピアスをつけていた。バンドをやっているのだと、聞いた覚えがある。

 美由紀が近づくと、かれは驚いた表情になり、次に頬を染めて頭を下げた。このいつも場違いな恰好をしたウェイトレスが、密かに気に入っているのかもしれない。彼女は尋ねた。

「若旦那はまだ戻らないんですね」

「それでみんな首をかしげてるんスよ。どう見ても元気そうだし、何度検査したって異常ナシ。強いて挙げるなら、メタボリックなくらいスか。それなのに、腰が抜けたようになって歩けないんスよ。まあ、あと二、三日もすれば回復するだろうって、病院では言ってるんスけどね」

 よい暇つぶしの相手ができたとばかりに、かれはまくし立てた。それから小さく手招きして、彼女の耳に囁いた。メンソールのにおいがした。

「やっぱ、あれなんスかね。おれたちバイトの間では、若奥さんがやらしてくれないんじゃないかって、もっぱらの噂っスよ。とても仲がいいし、喧嘩してるところなんか見たことないんスけどね。アレだけはだめらしいっスよ。若奥さんが、なんていうんスか、感じない体質なんだって。それで若旦那が溜まりに溜まって、外で一気にハッスルしちまったもんだから……」

 静香が冷感症なのかどうか、知る由もないが、それにしても口さがない言われようである。美由紀は適当に相づちをうって、ただ静香の居場所を尋ねた。好奇の話題を受け流されて、かれは口をとがらせた。

「さあ、たぶん病院じゃないんスか。若旦那が入院してこのかた、なんだか若奥さんは、行動がおかしくなりましたよ。今日も着物でしたし」

「着物?」

「一昨日から、バチっと着てますよ。黒っぽい地味なやつですが、極道の女みたいなスゴみがあって、めちゃくちゃ奇麗なんスよ。ありゃぜったい、アイクチのひとつも隠し持ってますぜ」

 必ず復讐してやるわ。夕闇せまる葉隠稲荷の境内で、そう口にした静香の声が、ありありとよみがえる気がした。

 伊丹青果店の店先を離れ、斜め向かいの黒猫亭に足を向けた。

 もちろんまだまだ開いている時間ではない。店にも二階の窓にも灯りは確認できず、入り口のガラス戸の裏は、白いカーテンで覆われていた。猫のシルエットが描かれた「CLOSE」のプレートを尻目に、ガラスの扉をノックした。

「たのもう」

 三十秒待って、もう一度ノックしようとしたとき、白いカーテンが揺れた。警戒をみなぎらせた目が隙間からのぞき、次にカーテンが引き開けられると、呆れたような笑顔をのぞかせたのは、レムリアン星姫。

「ウェイトレスさん、あなただったの」

「お茶をいただきに参りました」

 仕方ない人ね。という具合に両手を広げてみせたあと、星姫は鍵を外した。美由紀が入ってしまうと、電灯をつける前に、もう一度鍵をかけた。映画でよくある、冒険者の背後でひとりでに扉が閉まるシーンが、思い起こされた。店の中は、エキゾチックなお香のにおいが、いつも以上に強く香っていた。

「建物が古いせいか、ものを動かすと、木のにおいがきつくてね。見て、少しばかり模様替えしてみたの」

 電灯をともしながら、星姫がそう言った。むしろ金属的なにおいだと考えながら、美由紀は店内を見回した。

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