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幻影

 心なしか室内の温度が低下しているように感じられた。暖房はきれていないので、外が急に冷えてきたのだろうか。

「きみが荻原氏の息子であることを、伊丹さんは知っていたのかな」

 腕をさすりながら尋ねた。あえて確信に触れる質問を避けたのは、不可解な恐れにみまわれたからだ。この寒さと無縁ではない、背筋を這う恐怖に。

「直接聞いてはいませんが、おそらくは。ヤミナベに姿をあらわしたのも、ぼくに接近するためのワンステップだったのでしょう」

「きみをOMEとの交渉の切り札にすることを、視野に入れていたのだろうね」

「ですが、ぼくがK駅前に開店したのは、あくまで偶然なのです」

「荻原新一郎の拠点であることを知らなかった?」

「不覚にも。ただ、母に連れられて何度か訪れたことはありました。荻原から逃げ続けていた母の行動としては、不可解なのですが。これといって特徴はないけれど、どこか懐かしい。そんな街のたたずまいが気に入りました」

 ユキトは言葉を切り、窓のほうへ目を向けた。美由紀がようやく調えたらしい、小さなクリスマスツリーが点滅していた。かれは語を継いだ。

「いつかイコさんが言ったように、本当は偶然なんて存在しないのかもしれませんね。ぼくはみずからの意志で、荻原の手中に飛び込んだとも言えそうです」

 急に激しい渇きを覚えて、ぼくは残りのコーヒーをひと息にあおった。寒気を感じながら、額に汗が浮いた。「DANGER」の文字を連ねた赤いテープが張り巡らされている情景と、それをおずおずと踏みこえて行く、自身の姿が想像された。汗がこめかみを這いおりた。

「いったい荻原氏は、きみの遺伝子を何に使うつもりだったのだろう」

 ぶん、という電気的な音とともに、店内の照明がすべて落ちた。

 ぼくは思わず叫び声を上げた。さっき消したはずのテレビがついており、ざーっというノイズをまき散らしていた。

 見たくない、見つめてはいけないと思いながらも、視線は画面に釘付けにされたまま。闇の中、生きものじみて揺らめく砂嵐から、どうしても目が離せなかった。砂嵐の中を、青い蝶の影がよぎるのだ。最初は一匹がかろうじて見分けられたが、二匹、三匹と増えてゆき、ついに何十匹もの蝶が、画面の外まで飛び出してきた。

(うわ……あああああ)

 なすすべもなく見つめているうちに、ノイズに混じって奇怪な音声が聞こえることに気づいた。苦しげな息づかいは、ぼくたちのものではない。明らかにテレビから洩れてくる、喘ぐような呼吸音に、低い呻き声が加わった。若い女の苦悶する声は、聞きようによってはエロチックだが、この状況ではひたすら不気味である。

 唐突に、画面から一本の腕が突き出された。ほっそりした、剥き出しの白い腕は、鉤型に指を曲げて、中空に何かをつかみ取ろうともがいた。その腕の周りを蝶たちは飛び回り、青い鱗粉をふりまいた。光の鱗粉は腕に当たり、床にこぼれるたびに、氷のように弾けて消滅した。

 腕は二本に増えていた。二本とも前方にぐっと突き出され、交互に「おいでおいで」をするように蠢いた。ああ次はきっと頭が出てくるのだな。と、なかば遠のいた意識の中で考えた。そいつは長い黒髪をばっさりと逆さに振り乱し、トコロテンのように引き出されてくるのだろう。白い着物を着て、片眼にぎらぎらと殺意をみなぎらせ……

<オ、兄イ……サ、マ……>

 苦しげな声が、たしかにそう発音した。

 二本の腕の間に無数の蝶がわらわらと集まり、やがて頭部と胸部を形づくった。ショートボブの黒髪は揺れるたび解像度を落とし、末端が大粒の粒子に解体された。メタリックな青いカチューシャと、同様に光沢のあるノースリーブのワンピース。華奢な胸を宙にうんとそらして、こちら側へ顔を向けた。

 人工的に整った顔立ち。ハレーションを起こしているような、白い肌。見開いた瞳の中で、青いプラズマが蝶の形に燃えた。真紅の唇を月の形にゆがめて、彼女は……リトルシスターは微笑んだ。

<オ、兄イ、サマ>

 破裂音が響き、ブラウン管が砕けた。リトルシスターの上半身は悲鳴を上げながら、たちまち無数の青い粒子に解体されると、夢のように消えうせた。真の闇が辺りを覆い、圧倒的な静寂が空間を満たした。やがてぼくは、呆然とつぶやくユキトの声を聞いた。

「ユキノ……」

 二階堂ユキトは気を失って床に倒れた。

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