招かれざる客
たぶんしばらくは起きないだろうから、イコを部屋に残して、ぼくたちは階段を降りた。外はすでに真っ暗だった。フォルスタッフの前には、見慣れない車が横づけされていた。ぬらぬらと黒い光沢をおびて闇の中にうずくまる、異様に横長なメルセデスは、奇怪な巨魚をおもわせた。
中には誰も乗っていない様子。フロントガラス以外、真っ黒なフィルムで覆われているし、とっさに暴力団関係者ではないかと疑った。OMEに脅迫されているという、伊丹静香の話が思い起こされた。ほとんど道幅を塞いでいる車体をどうにかかわして、店の前に出た。ドアを開けようとしたぼくの手を、美由紀が留めた。
見れば、唇に指を当てている。いつもの考えるポーズではなく、「静かに」という意味。耳を澄ませば、店の中から話し声が聞こえてきた。しかも明らかに、言い争っている口調だ。
「あなたはいつも奪うだけだ。奪って、それから壊すばかりで、何も生み出しはしない」
「芸術とは、破壊の集積ではなかったかね」
「芸術家ではないでしょう、あなたは。黒魔術師にもまだ劣る。倫理観を欠いた、ただの無感覚な人間に過ぎない」
一人はユキトだが、ユキトに「あなた」と呼ばれているのは、だれだろう。低い、けれどもよく響く声。商店街の者ではなさそうだが、何となく聞き覚えのある声。
「倫理ねえ。そんなものは負け犬の遠吠えに過ぎんよ。おまえの口からその言葉を聞かねばならんとは、ほとほと情けなくなる。環境というものは、まったく害毒だねえ」
「あなたこそ、環境を毒に変えている張本人でしょう。今度だって、あんなおぞましいものを……」
「おぞましい? おまえにそれを言う資格があるのかね。あれの半分は、おまえが生み出したようなものじゃないか。そのことを忘れないでもらいたいね」
会話が一旦途切れた。ユキトのここまで激昂した口調は、もちろん初めて耳にした。夜気を震わせて、荒い息づかいが届くようだ。けれど次に聞こえてきたかれの声は、いくらか冷静さを取り戻していた。
「とにかく、取引はもう終わっています。これ以上の交渉は違約です。あまりしつこいようなら、ぼくもそれなりの手を打たせてもらいますから」
「ふん。マスコミにたれこむか。まあそれもよかろう。おまえみたいな意気地のない男に、できればの話だがね」
重低音の笑い声が響く。もし悪魔の哄笑が実在したら、こんな感じだろう。と、いきなり美由紀がぼくの腕をとらえ、もの陰に引きずりこんだ。同時にドアが開き、戸口に姿をあらわしたのは、大入道だった。サングラスをかけ、筋肉でぱんぱんに張った体を黒いスーツでつつみ、メルセデスに歩み寄ると、後部のドアを開けて待機した。
うしろからあらわれた痩身の男には、見覚えがあった。杖をつき、若干足を引きずりながら、大入道が開けたドアから乗り込んだ。排気ガスの臭いを残して、エンジン音が遠くへ消えるまで、ぼくたちは身を強ばらせて隠れていた。まるで化け物にでも行き逢ったように。
「あの痩せた男……前にも来たことがあるのか」
尋ねると、闇の中で美由紀が首を振る。初めて見る顔だという。
「ヨコマチさんはご存知なんですか」
「ああ、見違えようがない。OME社長、荻原新一郎だよ」
店に入ると、ユキトはカウンター席にかけたまま、ぼんやりと中空を見つめていた。視線を追うとテレビがあったが、いつもどおり何も映っていない。ゼンマイが切れかけたロボットの動作で顔を向け、少し疲れたような笑顔を見せた。
「くたびれてしまいますね。日頃なまけているせいで、いつになくお客が絶えないと。イコさんは?」
「眠ってる」
「そうですか。コーヒーを淹れましょう」
心なしか、声が枯れているようだった。立ち上がろうとするのを美由紀が制して、カウンターの後ろに回った。コーヒーを飲んでいると、カウベルが鳴ってドアが開いた。少々どきりとしたが、入ってきたのは緑色のコートを着た佐々木ユキ。
「少し冷えてきましたね。あったかいコーヒーをいただこうと思って。お店、まだ開いてますよね」
例の会合の帰りだろうか。駅から急いで来たのか、まだ息を弾ませていた。さっきの「招かれざる客」も含めて、なるほど今日は客足が絶えない。愛想よく挨拶をしたあと、美由紀がぼくの耳もとで囁いた。
「カモがネギとシラタキをしょって飛び込んできましたよ。ひひひ」




