ヒゲの老人
頭の中で、伊福部昭の音楽が鳴り響いた。
夜をおもわせるモノクロの映像。逃げ惑う群集。一斉に発砲する戦車隊。無数の直撃をものともせず、駅ビルの後ろにそびえ立つ巨大な黒い影。眼が光り、額から生えた三本のツノが白く放電する。苦悶するように巨獣がうごめくと、駅ビルの窓という窓が内側から火を吹き、弾け飛び、次の瞬間、建物ごと押しつぶされた。
ガンゴオオオオォォォオオオン。
どこか哀愁を帯びた咆哮が鳴り響く。ぼくは頭を振った。あり得ない。そんな巨大生物が現実にあらわれたという報告なんか、聞いたことがない。それともどこか中国南方の秘境では、いまだに太い尻尾を引きずりながら、のし歩いている怪物がいるのだろうか。イコと目が合った。
「やってやれないことはないのですが、ご主人。わたしたちは、腹ペコになるだけのことはやらないのです。大きくなればなるほど、腹ペコになるのが早くなりますからねえ」
なるほど、寄生生物が五十メートルの怪物とあっては、メシの食い上げだ。その点は彼女たちといえども、ダーウィンの檻の中から逃れられないのだろう。サナダムシの大物は十メートル近くなるが、それだって人間の消化管にフィットしたサイズに過ぎない。美由紀が尋ねた。
「人間くらいのサイズならどうかしら」
いい質問だ。何にでもなれるのなら、人間に化けてメシを得るのが手っ取り早い。むかしむかし、狐や狸がヒトをたぶらかし、ご馳走にありついたように。
「それがご婦人、妹といえども、人間にだけはなれないのですよ。ヒゲのご老人のオハカライ、というやつでしょうか」
「ゼットちゃんは何にでも化けられる。でも人間にだけはなれない……」
唇に指を当て、なかば独り言のように美由紀はつぶやいた。またうとうとと、まぶたを垂らしながら、イコが言う。
「はい。そのことで妹は常々悩んでおりまして」
「悩んで?」
「人間になりたいというのですねえ。じつに変わった妹ですよ。ヒゲのご老人が仰るには、人間は苦労するために生まれてくるのだとか。いやはや、わたしならイヤですねえ」
たしかに妖怪には学校も試験もないし、そもそも死なない。妖怪みたいな生活を送っているぼくでさえ、死に追われ、徐々に老いに蝕まれつつ、社会的なプレッシャーに喘いでる。人生とは、とてもとてもつらいものだ。が、それはともかく、
「さっきからおまえが言っている、『ヒゲのご老人』とは何者だ?」
「わたしたちを生み出したお方ですねえ」
生みの親? と、再びぼくたちは声を揃えた。草木から自然にわいてきたのかと思いきや、小妖怪にも生みの親があったのか。しかもヒゲの老人とは、面妖な。
「はい。わたしたちはそれまで、何とも知れないような格好で、何とも知れないような所を、浮いたり沈んだりしながら、ふわふわと漂っておったのですよ。そこへご老人がやって来て、三つの名前を与えてくださったのですよ。するとわたしたちは、何とも知れない格好から抜け出して、『夷』、『希』、『微』という、三姉妹になれたのですねえ」
まるで詩か童話か、あるいは天地創造の神話のような。
秩序のない、カオスの海を漂っていた彼女たちは、「ヒゲの老人」に三つの名を与えられることによって、「個」としてのアイデンティティを手に入れた、というわけか。考えようによっては、哲学的な比喩のようでもある。あるいはまた、ナノテクノロジーなどの先端科学にも通じるものがある。
カオスから分離された、最小単位である彼女たち……
「寝ちゃったみたい」
美由紀がくすりと肩をすくめ、すでに眠りこけているイコにタオルをかけた。すると唐突に、『聖母たちのララバイ』が聞こえてきた。いきなりここでエンディングか? と驚くうちに、美由紀があたふたとポケットを探り、携帯電話を取り出した。発信元を確かめて、ぼくにささやいた。
「ソウダさんから。わたしの携帯の番号を教えておいたんです」
夕方以降はこっちに来ていると踏んでの判断だろう。この娘、そういうところはみょうに気が回る。電話を換わると、思ったとおり原稿の依頼だった。しかも驚いたことに、例の『伽婢子』の口語訳を単行本にして出したいという。
偶然か? これも偶然なのか? 電話を終えて、あらためてイコの寝顔を眺めた。机の上の座敷わらしは、夢の中でもメシを食っているのか、幸せそうに笑っていた。




