クリームシチュー
小さなイコの顔を、ぼくはつくづく眺めた。偶然ではないのか。これもいわゆる座敷わらし効果なのか。頭の中をぐるぐる回る疑問符に、めまいを覚えかけたとき、牧村美由紀が尋ねた。
「これは、チェスの一種ですか」
星姫に売りつけられた経緯を説明すると、彼女は唇に人さし指をあてた。
「もちろん星姫さんは、ヨコマチさんの夢の内容を知らないわけでしょう」
「いくらオーラを読むからといって、夢の中まではね。偶然なのか、何なのか。ご縁だといって押し切られたが。二束三文の値打ちしかないものに、まんまと大枚はたかされた可能性は否めないね」
「難しいのですか」
「ルールかい? 将棋かチェスはできたっけ」
「こう見えても、アリスマニアですからね」
「全身で主張してるじゃないか。ま、チェスより多少複雑だけど、案外やってるうちに頭に入ってくるよ。ぼくと代わってみるかい」
いつもの調子でそう言ってから、店が繁盛しているらしいことに思い至った。こんな所で油を売っていていいのか、尋ねようとしたけれど、彼女の目の輝きに気圧されて、言葉を呑んだ。
イコを相手に三十分ほど駒を動かすうちに、すっかり覚えた様子。アリス狂を自称するだけあって、意外にチェスの才能があるのかもしれない。打つ手ごとに個性がもろに出るから、ハタから眺めているだけでも面白い、ある意味、魔術的なゲームである。
「いけないいけない。うっかり時間を忘れてしまいました。そろそろ夕食の支度を始めないと」
両手を上げて、うんと伸びをした。なぜか女性のこのポーズが、ぼくにはツボだったりする。それでようやく、保留にしたまま忘れかけていた重大な任務を思い出した。彼女が部屋にいる間が勝負ではないか。この時を逃したら、今日じゅうには二度とチャンスは訪れないのではないか。
しかし、何のチャンスだ? いったい、どうしろというのだろう。
彼女は蛍光灯をともし、台所に立った。持参した材料を流し台の上に並べ、鼻歌まじりに包丁を使い始めた。ワーグナーの『タンホイザー』序曲であった。ゆるやかな旋律にあわせて白い蝶結びが揺れ、充実した腰のラインを秘めて、スカートが踊った。
彼女の臀部を見つめたまま、ぼくは悩んだ。シャレで済まされるかどうかは、とりあえず保留にしておこう。後ろからめくり上げるのは容易である。けれどキイに寄生されている証拠のアザは、どちらかの太腿の内側にあるという。ならば、めくり上げるだけでは済まされまい。どうしても脚を開かせる必要がある。となると、
絶体にシャレにならない!
頭をかかえた。不可能だ。ミッション・インポシブルだ。待て待て、強硬手段ばかり浮かぶのは、ミッションという言葉のイメージに惑わされているせいではないか。必要なのは戦闘ではなく対話だ。人類は理解しあう必要があり、世界はもっとシンプルであるべきだ。要するに、土下座して頼みこむのだ。見せてくれと。頼むから、このとおりだから、見せてくれと。
(それも何か違うな……)
クリームシチューのにおいがしていることに、ようやく気づいた。カレーはイコが苦手なので、同じ材料で作れるシチューが選択されたのだろう。石化しているぼくの隣に美由紀はふわりと座り、机の上のイコに話しかけた。
「もうちょっと待ってね」
「じつに、いいにおいですねえ」
肩が触れあい、リンスのにおいが甘く香った。妄想の中で、ぼくは彼女の肩を抱いた。向けられた瞳は驚きを含んで潤っていた。ゆっくりと肩を押す。ほとんど抵抗なく、彼女はその場に倒れる恰好。覆いかぶさると、腕が乳房を押しつぶし、顔が近寄せられた。吐息がかかるほど間近で唇がうごめき、かすかに震える声が、ぼくの名を呼んだ。
「……ヨコマチさん」
「えっ」
「どうなさったんですか。うっかり桃太郎侍の決めゼリフを使った旗本退屈男みたいな顔をしていますよ」
どんな顔をしているんだ、ぼくは。




