悪魔男と天才少女
声のしたほうへ目をやれば、いつの間にか六角堂のガラス戸が開いており、和服姿で腕組みをしたデビルマンが立っていた。瞬時、ぎょっと身を引いたぼくの隣で、美由紀がニコニコと頭を下げた。
「おはようございます、六角さん」
六角堂の店主、佐々木さんのことを、彼女は胃薬みたいに「六角さん」と呼ぶ。三時すぎに「おはよう」もないものだが、店主はぼくに負けないくらい、宵っ張りの朝寝坊だ。
トシは六十くらいか。この人、いつ見ても心拍数が通常の三倍に跳ね上がるほど、顔が怖い。白髪をふり乱し、への字に口をひん曲げ、目の下に隈ができ、眼光ばかりがギョロリと鋭い。はっきり言って、悪鬼羅刹にほかならない。じつはとてもいい人なのだが、この顔が売り上げに影響しているのは間違いない。
いつだったか、六角堂にふらりと入った大学生ふうの男が、次の瞬間、四つん這いで飛び出してくるのを目撃したことがある。美由紀が尋ねた。
「六角さんも、今夜はいらっしゃいますよね」
「もちろんですとも。姪っ子とうかがわせてもらいます」
と、不動明王が怒り狂っているような顔で嬉しがる。とにかく暇なのは理解できた。
佐々木さんの姪は大学二年生で、ユキという。岡山から上京して、現在、この伯父と同居している。眼鏡をかけた、地味でおとなしい学生さんだが、幸いなことに伯父とまったく似ておらず、よく見れば愛くるしい顔をしていた。佐々木さんがこぼすには、
「あの子が店番をしていると、売り上げが倍になるんですわ。不思議ですなあ」
不思議でも何でもなかった。
佐々木さんと別れて、通りを駅のほうへ向かう。
「さっきのお客さんですけど、ヨコマチさんのお知り合い?」
美由紀に訊かれて、思わず眉をひそめた。
「出版社の人だ。高校生のほうは……きみも本を読むのなら、知っているんじゃないか。今をときめく新進作家だよ」
彼女は唇に指をあてたが、わからない様子。考えてみれば、牧村美由紀にとっての作家とは、推理作家に限られていた。
今さら気づいたのだが、さっきぼくが、ひどく取り乱した理由のひとつは、このうら若き新進作家……胡桃沢夏美がいたせいだろう。ぼくと彼女との、あまりといえばあまりに大きな境遇の違いに、胸を掻きむしられるのだろう。
胡桃沢夏美は今年の夏、ちょうどぼくがアパートを追い出された頃、『タネなしスイカの種』という長篇小説で単行本デビューした。書店に並ぶ前から予約が殺到。発売一週間で品薄状態。当然のごとくベストセラーになり、テレビドラマ化され、正月には映画が封切られる予定だとか。
彼女がデビューするに至ったいきさつが、一風変わっていた。
夏美は、こっそりノートに書き綴った小説を発表することはおろか、自分以外の誰かに読ませようなんて、思いもよらなかったようだ。けれども、初夏の頃、中学生の弟がノートを発見し、インターネットの大型掲示板に連載してしまったのだ。
「高二の姉ちゃんが机に隠していた自作小説」という、そのまんまなスレッドを立てて。
書き込みはたちまち、大反響を巻き起こした。
最初は少々いかがわしい覗き趣味が、人々の好奇心を誘ったのだろう。タイトルからして風変わりなので、変な女の子がやらかした、イタくて笑えるネタとして、受け止められていたフシがある。
ところが、連載が進むにつれて、小説の面白さを激賞する者が続出。最終回が掲載されると、三時間四十分泣いた! 感動しすぎて生きるのがつらい! 等の膨大な書き込みが投ぜられた。
血に飢えた出版社が、これに食いつかない筈がなかった。
先日、佐々木さんの店にこの本が一冊入っていたので、売れる前に一晩だけ貸してもらった。カバーの折り返しに彼女の写真が載っていた。美人であり、制服姿であり、「現在高校二年生」とあり、投げ捨てようかと思ったけれど、かろうじて堪えた。売りものを粗末にはできない。
おそらく作家という人種は、一般人の二百八十倍くらい嫉妬ぶかい。
白状すれば、ぼくは気が狂いそうなほど胡桃沢夏美に嫉妬していた。反則技にみえてしまうデビューや、美人女子高生をセールスポイントにしているところなど。彼女の小説を読む気になったのも、こきおろすのが目的だった。
けれども、気がつけば夢中でむさぼり読み、最後のページを読み終えたときには、涙がぼろぼろとこぼれて、止まらなくなっていた。
天才の作品だった。
天才にしか書けない小説だった。




