誘惑?
イコは眠っていた。ぼくの机の上で、タオルにくるまって。ときどき雛鳥が身じろぎするような音をたてて、寝返りをうった。
ぼくは眠れないまま、天井を見上げていた。蒼い外光が差しこんで、木目をうっすらと浮かび上がらせていた。日常から隔離された空間に、ぽつんと取り残されているような気がした。
たびたび神隠しが起こるという、葉隠稲荷の裏側に入り込んだときからずっと、夢と現実の入り混じる汽水域のような場所を、さまよっているのかもしれない。あるいは、ヤミナベの夜からか。もしかすると、ぼくという人間はずっとそんなふうに、生きてきたのかもしれない。神隠しに遭った人のように、ただ呆然として。
寝返りをうった。
ごとごとと、電車が遠くを通過した。夜光塗料がぬられた目覚まし時計の針が、ちょうど頂点で重なろうとしていた。目覚まし時計なんか、ぼくには必要ないのだけれど、今どきベルの鳴らない時計を探すほうが難しい。
眠れえ、ない、夜。眠れえ、ない、夜……と、泉谷しげるのダミ声が頭の中で延々とリフレインされた。ぼくはもぞもぞと布団を抜け出し、外套を肩に引っかけて窓辺に立った。カーテンを開けた。結露している窓ごしに、向かいの倉庫がぼんやりと浮かんだ。窓を少し開け、顔を出してみた。冷たい外気が頬を叩く。
隣の窓には、まだ灯りがともっていた。
また推理小説でも読み耽っているのだろうか。ぼくは軽く口笛を鳴らした。ぜったいに彼女は知らないと思うが、RCサクセションの『夜の散歩をしないかね』のメロディを。見ているうちに窓に人影がさし、間もなく牧村美由紀が顔を突き出した。ピンクの寝間着の上から丹前を羽織っていた。
「ヨコマチさん、ちょうどよかった。今からそっちへ行きますからね」
冗談のつもりだったのに、予期せぬ展開に驚いているうちに、部屋のドアがそっと開けられた。
「イコちゃんは?」
「ばかみたいに眠っているよ。妖怪のくせに、夜行性じゃないのかね」
くすりと肩をすくめ、彼女が入ってきた。心なしか、殺風景な部屋の中に、甘い香りが漂う気がした。小妖怪を起こしてしまうのも忍びないので、天井の蛍光灯はつけず、電気スタンドを部屋の隅に移動させて、スイッチを入れた。イコの間の抜けた寝顔を覗きこみながら、美由紀は言う。
「ようやく完成しましたよ。なにしろ小さいものですから、思いがけなく時間がかかってしまいました」
彼女が指先で広げてみせたのは、ミニチュアのエプロンドレスだった。アリスの衣装を真紅にして、袖を長くしたと思えばいい。急ごしらえの服を作るだけなら、もっと簡単な形もあるだろうに。わざわざ肩を提灯の形にふくらませたり、こだわりまくった作り。これでは時間もかかるだろう。おまけにミニチュアの下着まで、丹念に縫われていた。
「すまないね。って、ぼくが謝ることでもないんだが」
美由紀は服を折りたたんで、イコの「枕元」に置いた。それからちょっと人さし指を唇にあて、上目づかいにぼくを見た。
「眠れなかったんですか」
「あ、ああ。いつもまだ起きている時間だからね。べつに眠る必要もないんだが、机を占領されちまった以上、仕事もできなくて」
「優しいんですね」
薄闇の中に座っているせいか、日頃の彼女とは雰囲気が違う。トーンを落とした声が、ぞくりと心臓を撫でるようだ。ストーブを消した部屋の中は冷えているのに、ぼくは掌にじっとりと汗をかいていた。そこにあの夜の乳房の感触が、圧倒的な存在感でよみがえってくるようだ。声が上ずった。
「そうでもないさ。もしもイコが女の子の姿ではなく、『画図百鬼夜行』に出てくるような化け物だったら、とても面倒をみる気にはなれなかったろう。人の好き嫌いほど、アテにならないものはない」
心なしか、彼女の目が動物的な輝きを帯びているように感じた。
「覚えていますか、ヨコマチさん。依然として可能性は、五分の一のままだということを」
「そうだったね。イコの妹、キイが寄生しているのは女性。ヤミナベに参加した女性といえば、佐々木ユキ、伊丹静香、レムリアン星姫、胡桃沢夏美、そしてきみだ」
「ええ。そうして今のところ、幸吉さんを襲った犯人も、この五人の中の一人だと考えられます」
もちろん、わたしも含めて。そう言って牧村美由紀は、自身の人さし指をぺろりと舐めた。




