クリスマスツリー
わが家を出たのが、三時すぎ。
喫茶店「フォルスタッフ」の二階はアパートになっている。店の脇の路地に入って階段をのぼると、踊り場を挟んで部屋のドアが左側に二つ、右側に一つ。左側の手前がわが家。奥に美由紀が住んでおり、右側を占めているのがユキトだ。やつの部屋だけ2Kで、あとの二つは松本零士先生ばりの四畳半一間。
ぼくは学生時代このかた、ワンルームにしか住んだことがない。万年床の周りに本を積めば足の踏み場もなくなるが、作家をやる上で、何の不自由も感じない。
もともとねぐらもカネもなく、十徳ナイフひとつ握りしめてさまよっていた身だ。四畳半に転がりこめただけでも、モーゼが紅海を渡るに匹敵する奇跡といえた。おまけにトイレと、小さなキッチンスペースまでついている。さすがに風呂はないけれど、商店街に風呂屋があるし、ユキトに頼めば、やつの部屋のシャワーが使える。
それでもやはり無一文では暮らしていけないのが、世の中というもの。さいわい、こんなぼくにも、翻訳やら芝居の台本やらを頼んでくれる奇特な人たちがいて、小遣いくらいなら、どうにかこうにか稼いでいけた。
もっとも、小説の原稿は、一字も売れていなかったが。
「あら、ヨコマチさん」
ドアを開けたとたん、メイドと出くわした。彼女もちょうど部屋を出たところらしく、今どきサザエさんしか所持していないような、買い物籠をさげていた。素早く周囲に目を走らせると、ぼくの耳もとに顔を近寄せ、囁いた。
「ひひひ。旦那も例のブツですかい」
彼女もこれから「ブツ」を仕入れるのだと言い、ユキトに声をかけて出るからと、ぼくを強引に店まで引っ張って行った。別行動でかまわないじゃないか。一緒に買ったのでは、ヤミナベの意味がないじゃないか、といった抗議には、まったく耳を貸さず。
店には珍しく客がいた。
テーブルのほうに座っているところからしてイチゲンさんらしく、美由紀が応対に出なくて幸いであった。女性客二人のうち、一人は眼鏡をかけてグレーのパンツスーツに身をかためた、キャリアウーマン風。もう一人は、制服姿の高校生だ。
ぼくは作家であるけれど、他人をじろじろと観察するのは得意ではない。むしろなるべく見ないように心がけている。ゆえに、キャリアウーマンに「ヨコマチ先生」と名指しされるまで、この二人が誰であるか、こんな至近距離に突っ立っていながら、まったく気づかなかった。
「ご無沙汰しております。お変わりありませんか」
グレーの女は姿勢正しく席を立ち、絶妙な角度でお辞儀をした。儀礼上頭は下げるが、ただそれだけのことですよ、といった角度で。彼女はH社の水原恭子。ぼくの担当編集者、ということになっている。
たちまちぼくの脳内は、爆発寸前のコックピットと化した。
「どうしたんですか、ヨコマチさん。鬼ヶ島の鬼が退治されて三年後に道端でばったり桃太郎と出くわしたような顔をして」
店に背を向け、どんどん歩いていたところ。コートを羽織りつつ追いついてきた美由紀が、ぼくの顔を覗きこんで、最初に口にしたセリフがこれである。
「どんな顔なんだ」
けれど彼女の荒唐無稽な例えは、当たらずとも遠からず。ぼくはここ五年間、水原恭子に何度も原稿を持ち込み、そのたびに黙殺されていた。受け取ってはくれるのだが、それっきりノー・リプライ。
作品に魅力がなかったのだろう。とは思うのだけど、スルーされるたびに、モチベーションが氷点下を記録して、何も書けなくなった。どうにかこうにかやる気を解凍し、再チャレンジしたところで、またスルー。単に、こちらから電話の一本でも入れて、原稿の消息を尋ねればよい話だが。そんな簡単なことさえ、気の弱いぼくはできないまま。
悶々として今に至るのだ。
それにしても、言うに事欠いて、「お変わりありませんか」はないだろう。もしもあの夜、偶然、フォルスタッフを訪ねなければ、今ごろ骨と化していたかもしれない。むろん、水原に責任はない。それはわかっているのだけれど、それにしても非人情ではないか。編集者とは、商業出版とは、そういう世界なのか。
「いけない。うちも早くツリーを出さなくちゃ」
古本屋「六角堂」のわきから通りに出たところで、美由紀がつぶやいた。
見わたせば、商店街のあちこちには、早くもクリスマスツリーが顔を出していた。今日から十二月なのだから、世間的には遅いくらいなのだろうが、八丁堀にツリーが並んでいるような違和感はぬぐえない。どう見てもクリスマスとは縁がなさそうな、この古本屋の店先にさえ、小さめのやつが居座っているではないか。
「ほう。お揃いですか」




