ハムレット的逡巡
しかし、しょせんは夢である。しょせんは夢なのだが、同じ少女と思われる声が、腹の中から聞こえたのは現実である。ぼくのみならず、牧村美由紀と佐々木さんも聞いている。
「とりあえず、行ってみますか」
コーヒーをひと口すすったまま、何も映っていないテレビの画面を睨んでいた。美由紀に声をかけられたときは、びくんと肩が震えた。
「行くって、どこへ?」
「滝ですよ。葉隠稲荷の裏手まで」
なぜ行く必要がある?
そう言いかけて、口をつぐんだ。寄生虫にわざわざ会いに行くばかがどこにいるのか。よしんば、葉隠稲荷まで行ったところで、無駄足に終わるのがオチではないか。そう、しょせんは……
「しばらく考えさせてくれ。思考がループしていけない」
自室に籠もって、ぼんやりと半日をすごした。
二度寝する気にはなれず、かといって、仕事も読書も手につかぬまま。ぽっかりと胸に、いや、腹に穴が開いたような喪失感に戸惑っていた。この喪失感は何かに似ていると思ったら、恋人をなくしたときの淋しさにそっくりだった。
デビューして上京して、間もなく恋人ができた。すべてがトントン拍子に運ぶように思えた。二年半が過ぎて、一歩も前進できないぼくのもとを、彼女は去った。今にして思えば、こんな人間にずいぶん辛抱強く、つきあってくれたものだ。彼女がいなくなったとたん、壊れた液晶画面のように、目に映る世界が明度と彩度を落とした。
(何を考えているんだ、ぼくは)
ヤミナベの夜から数えれば、三日以上経過しているが、腹の虫を意識して過ごしたのは、たった一日である。たった一日の間に、しかも腹の虫ごときに、愛着を覚えなければならないイワレはない。イワレはないが……
(あの花の根を食べても、ご主人はご主人のままです)
何を考えて、少女はあんなことを言ったのだろう。しょせんは夢の話だが。夢の中の少女が、何かモノを考えているようには見えなかったが。むしろそれゆえに、ぼくの胸はみょうに痛んだ。行ってあげるべきではないのか。彼女は無心に、ぼくを待っているのではないか。
滝の下で。
行くべきか、行かざるべきか。
ノックもされずにドアが開いた。
「あんまり悩んでいると、せっかくの林檎が腐っちゃいますよ」
牧村美由紀の、外出する気満々の恰好を見て、ようやく重い腰を上げる決心がついた。階段を降りたところに、ユキトが待っていた。ロングコートをさっぱりと着こなし、前髪をさらりと掻き上げて、
「では、行きましょうか」
「店は?」
「問題ありません」
きらりと白い歯を光らせた。時刻は午後三時を少しすぎたところ。
目的が目的なだけに、目立たないよう商店街は迂回した。さいわい、フォルスタッフは横丁のさらに路地裏にあるので、こっそり抜け出すには便利といえた。三人揃って出かけるなんて、まずあり得ないことだ。口さがない商店街の連中に見つかれば、あることないこと吹聴されるに違いない。
ぼくも暇人なので、葉隠稲荷へはたまに出かけるが、裏手に回ったことはなく、ましてそこに滝、のようなものがあるなんて、まったっく知らなかった。すっかり忘れていたが、前にレムリアン星姫から、「あそこはアブナイから」と聞いた覚えがある。
(とくに、ヨコマチさんみたいな人にとってはね。お参りする程度ならいいんですけど、ふらふらと裏に回ったりしないほうが身のためよ。あの辺りに、妖気が溜まるスポットがあってね。最近、幼い子が一人で虫をとっていて、いわゆる神隠しにあったばかりよ)
とくにぼくがアブナイとは、どういうわけなのか。幼い子と同じレベルという意味なのか。ちなみにその子は数日後、五キロ離れた別の神社で発見された。多少ふらふらしていたものの、ケガひとつなく、ただ、行方不明になっていた数日間の記憶だけが、すっかり消えていたという。




