ついにバイモを飲む
ストーブにのっている薬缶が、ぱたぱたと鳴き始めた。ぼくは目をしばたたいた。
「たしか伊丹さんの話では、静香さんは十二時半まで家にいたことになっているが」
「わたしもそう聞いていましたから、しつこく問いただしたんですけどね。いくら胡さんがのんびり屋でも、二時間も食い違うはずがないって、顔を赤くして言い張るんです」
「じゃあ、胡さんが見たのは別人じゃないの? けっきょく、後姿しか見てないんだろう」
「たしかに、静香さんにはアリバイがありますからねえ。伊丹さんが嘘の証言をする理由はありませんし」
しかしどうなのだろう。すでにかれには、幸吉が家を出た理由をごまかすという「前科」があるではないか。美由紀は語を継いだ。
「ただ、胡さんは、幸吉さんが白いフードつきのジャンパーを着ていたと言い、倒れていたときの服装と合っているんですね」
「かれが目撃した静香さんは、どんな恰好をしていたの?」
「それが……ただ黒っぽい服を着ていたという以外、よくわからないそうです。幸吉さんにぴったり寄り添うようにして歩いていたから、静香さん以外考えられなかった、と」
ここでも先入観が一人歩きしているのが、よくわかる。幸吉は万に一つも浮気するタイプではない。ゆえに、かれと寄りそって歩いていたのは、愛妻のほかにあり得ない。そう考えた時点で、胡さんは女の特徴を観察する意思をなくしたのだろう。まして黒い服を着ていたとなれば、闇にまぎれてよく見分けられまい。
が、しかし。
「幸吉くんのジャンパーにフードがついていたことまで覚えていたくらい、胡さんの目はいいわけだろう。そのわりに女のほうだけ、ずいぶんいい加減に見ているよなあ。総じて我々男には、若い女に目を奪われる性質があるよ。好んで野郎を眺めたりはしない」
「それはヨコマチさんの個人的な性質では? ですが、まあわたしもその点は気になって、突っ込んでみたんです。ところが胡さん、すっかり頭をかかえちゃって」
思い出そうとすればするほど、記憶が曖昧模糊としてくるという。まるで頭の中の映像が、どんどん解像度を落としていくように。胡さんの表現を借りれば、霧にまぎれるように。
「なんだかまた怪談めいてくるなあ。ともあれ、黒衣の女が静香さんだった可能性はそう高くない、と」
「そういうことになりますね」
メイ探偵が引き上げたあと、電気スタンドひとつともしたテーブルの上で、ぼくはぼんやりと頬づえをついていた。腹の虫はおとなしくしていた。時おり「きゅう」と鳴るさまは、寝言をつぶやいているようで、実際に食うだけ食って高いびきなのかもしれない。ノー天気なやつだと、あらためて思う。
軽く部屋が揺れ始め、十秒近くおさまらなかった。
変な微震が頻発するようになったのは、いつ頃からだろうか。聞いた話によれば、揺れているのはK駅からせいぜい半径一キロまでらしく、ゆえに気象庁の記録にはまったく残っていない。駅ビルの工事の影響ではないかと、一部の住民が騒いだ様子だが、工事が終わった今でもそれは続いているのだ。ぼくは溜め息をついた。
「どうもね。怪談めいた話が多すぎやしないか」
原因不明の地震。リトルシスター。ユキトの謎の密会。黒衣の女。幸吉の首筋に残っていたという、長い犬歯で噛んだような痕……いやいや、怪異の最たるものなら、ぼく、ヨコマチ亨の腹の中に居座っているではないか。
胡さんは、ヤミナベに龍蝨……中国のゲンゴロウを混ぜたという。牧村美由紀が放ったク・リトルリトルの呪いでなければ、ぼくの腹の中には化けたゲンゴロウが泳いでいるのだろうか。かれらが寄生虫の一種だなんて、聞いた覚えはないけれど。
遠くを電車が通過した。篠田医師がくれたバイモを、袋から取り出した。
すでに粉末になっているようで、チャック付きポリ袋を振ると、中で頼りない音をたてた。『伽婢子』に記されていたような、あらゆる薬を凌駕するすごいやつには、とても見えない。服用したところで何が変わるわけでもないだろう。けれど、
ただでさえイソウロウの身である。そのうえ娘まで、ではなく、寄生虫まで養ってもらったのでは、さすがにユキトに申し訳ない。わずかに残った茶を飲み干し、意を決して台所に立った。手さぐりで茶碗に水を満たし、机の前に引き返した。
かすかな苦味。
いつぞやのように、のたうちまわるハメになるのではないか。今にも腹が洗濯機と化すのではないか。と、多少びくつきながら、しばらく腹に手を当てていたが、かすかにごろごろ鳴っただけで、これといった変化はない。そのかわり、急な睡魔におそわれたのである。
長い長いプロローグが、ようやく終わりを告げようとしていた。




