「静香サンと一緒だったネ」
静香と別れ、商店街に引き返したときには、日はとっぷりと暮れていた。
「美由紀サン、茶でも飲んで行くか?」
東風飯店の前で声をかけられた。のれんの下から、まるまると肥えた男が手招きしていた。狸が化けたのかと思えば、コックコート姿の胡さんである。
店の中はほぼ満席で、中年の女性店員が一人、テーブルの間をくるくると行き来していた。奥さんは厨房で奮戦しているのだろう。いつも閑古鳥が鳴いているフォルスタッフとは、対照的な眺めである。美由紀は隅に唯一空いていた二人がけ席に案内された。
「いいんですか。忙しそうなのに」
熱いウーロン茶を運んできたエビス顔に気を遣うと、かれは太い指をくねらせながら、
「没関係。美由紀サンとは特別な関係ネ」
と、なんだか誤解を招きそうなことを言う。
テーブルの上には得体の知れない調味料が並び、メニューは十年は使い古したようで、壁には楊貴妃の色あせたポスターが貼ってある。談笑と脂っこい料理のにおい。紹興酒の杯を傾けている親爺たちもいる。どこか異国の場末にでも紛れ込んだような店内で、ウーロン茶を一口飲むと、気分がだいぶ落ち着くのがわかった。知らずに緊張していたらしい。
組んだ指の上に、ビールの商標みたいな大首をのせて、胡さんは言う。
「ヨコマチ老師は大変だったネ。ちゃんと飯食ってるか」
「それはもう、食べすぎてこまるくらい」
「太好了。食欲あれば何でもできるネ。わたし、じつはちょっと心配だったヨ。ヤミナベに龍蝨を入れたの、よくなかったカと思って」
「な、何を入れたんですって?」
「龍蝨」
「ロン、サツ?」
「日本でいうところの……ええと、王さん、あれは何という名前だっけか?」
呼び止められた店員は両手に四つの大皿を保持したまま、きりきりと眉をひそめた。鋭く痩せたその姿は、獲物をにらむカマキリを連想させた。彼女の表情が、たちまち和らいだ。
「源九郎虫ですよ、老板」
おそらく源五郎虫の間違いだろう。源九郎では義経になってしまう。いや、そんなことよりも……さすがに美由紀は目をまるくした。
「ゲンゴロウを入れたのですか?」
「もちろん生きたまま泳がせたわけじゃないヨ。あらかじめ脚と翅をむしり、ハラワタを出して調理してあるやつだネ。中国直輸入ヨ。柿の種くらいの小さなやつで、おやつ代わりに向こうではみんなぽりぽり食ってるヨ。でも日本人にはロンサツを食う習慣ないから、老師の腹に合わなかったのかと。それがちょっと心配のタネでネ。はっはっは」
心配だったわりに大笑いしている。おそらく美由紀も口に入れたであろうし、言われてみれば、柿の種に似た黒い物体を、ぽりぽり噛み砕いた覚えがある。なかなか旨かったと記憶するが……美由紀は慌ててウーロン茶を飲み、話題を変えた。
昨夜の午後八時以降、伊丹幸吉を見かけなかったか訊いてみる。たとえ店が忙しい折でも、胡さんはさっきみたく、店の前にぼんやりと突っ立って、往来を眺めている癖があった。煙草を吸うわけでも、客引きをするでもなく、おそらく文字どおり「息抜き」しているのだろう。
胡さんは大げさに腕を組んだ。
「言われてみれば、見たような気がするネ。十時半ごろだったかナ。のれんを仕舞おうと外に出たところで、ちょうど向こうへ歩いて行くのを見かけたヨ。後姿だったけど、あんな大きな背中の持ち主は幸吉クンしか考えられないネ」
美由紀は身を乗りだして、架空のメモ帳にメモする仕ぐさ。
「ほおほお。向こうとは、葉隠稲荷の方ですね」
「そうだヨ。静香サンと一緒だったネ」




