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伊丹静香の証言

 わずかな風が起こり、木立がざわめいた。灯明も揺れたが、消えはしなかった。蘚苔類のにおいが、生き物のようにうごめいた。巻物をくわえた木彫りの狐の目が、心なしか金色に光って見えた。伊丹静香は言う。

「牧村さんがここへ来たのは、よもや中東和平のためじゃないでしょう。幸吉の一件が、腑に落ちなかったからよね」

「過労だと聞きましたが」

「わたしもよ。そしてわたしもあなたと同じように、腑に落ちなかった」

 たしかに仕事は忙しかったが、そこは自営業。栄養ドリンク漬けのサラリーマンと比べれば、はるかに牧歌的なゆとりがあった。また野暮天に輪をかけたような幸吉が、夜遊びで消耗するとも思えない。残された可能性は二人の寝室の中にしかない。と、伊丹さんあたりは、密かに疑っている様子だった。すなわち、

 嫁との「ハッスル」が過ぎたのではないか、と。

 竹久夢二の絵から抜け出したようなヤマトナデシコ、伊丹静香が、寝室では豹変するというのか。テオフィル・ゴーチェが描くような魔性の女、ファム・ファタールへと。

 彼女は伊丹幸吉より、一つ歳が上である。二人の仲をとりもったのは、一本の曲がったキュウリだった。伊丹青果店の店先で、その見事に曲がったキュウリを手に取り、旧姓沢口静香がほれぼれと眺めていたのは、去年の夏のこと。

(いい曲がり具合でしょう。太さといい、張りといい、色艶といい)

 熊のような若い男が、ナンバープレートつきの帽子の下で、人なつっこく微笑んでいた。静香も軽く笑みを返し、キュウリを眺め、また熊男に視線を移した。まだ若いのに主人として店を切り盛りしているらしい、この大きな男のことは、少し前から気になっていた。

 K駅から徒歩十三分のところに職場があった。たいして魅力的な街には映らなかったので、駅と職場を一直線に往復する毎日を、二年半続けた。桜吹雪商店街の存在を知ったのは、だからやっと一月前のことだ。最初は「薬のハルモトヤスシ」目当てで立ち寄り、いつしかその向かいの八百屋の常連客になっていた。

 スーパーではお目にかかれないような「宝物」が、たくさん並んでいた。とくに夕暮れ時、いくつもの裸電球の下で、それらがきらめくさまは、梶井基次郎的郷愁を誘うのだった。そこには値切る冒険があり、おまけしてもらう達成感があり、決して計算機を使わない若い店主の、人なつっこい笑顔があった。

(一番旨いのは、こういう暴れん坊みたいなやつなんですよ。塩をつけて丸齧りにすればわかります。生きているんですね。野菜が生きているのが、実感できるんです)

 いかにもシャイな若旦那にしては、滔々とした口上だった。それほどかれも、このキュウリに惚れこんでいるのだろう。静香はもう一度キュウリを見、それから人なつっこい小さな目を覗きこんだ。急にどぎまぎして赤くなる姿を眺めながら、かれを好きになっていることに、一月めにしてようやく気づいた。

 灯明が揺れた。ゆらめく炎の音は、羽ばたきをおもわせた。

「病院の帰りに、義父がそちらへおじゃましたのでしょう。どうして幸吉くん……いえ、夫が急に家を出たか、話していたかしら」

「何の前ぶれもなく、ふらりと出て行ったそうです」

「義父らしいわ」

 きゅっと、静香は眉根を寄せた。彼女らしからぬ、突き放すような言いぐさが気になった。ちなみに義父は「ちち」と発音されている。

「伊丹さんらしい?」

「とくにそのことを批判するつもりはないけれど、義父は根っからの政治家です。たとえ相手が篠田先生みたいな親しい人でも、むしろそれゆえに、自身が不利になるような発言はつつしむでしょうね。牧村さん、夫は決して何の前ぶれもなく、ふらりと出て行ったわけじゃない。義父と口論のあげく、家を飛び出したのよ」

 月はなかった。木立に切り取られた空は紫色に染まり、星がまばらに瞬いていた。その下を小さな闇でさえぎるように、一匹のコウモリがしきりに舞っていた。昼間の温かさにたぶらかされて、冬眠から覚めたのだろうか。

 美由紀は生唾を呑みこむ音が、相手に聞こえたのではないかと気を揉んだ。

「口論……ですか」

「ええ。義父はだいぶ前から、『薬のハルモトヤスシ』に対抗するために、店舗の拡張を計画していたの。最近になって、いよいよそれが実現段階に入ったのね。どんなふうに拡張するかは、一応企業秘密だから言えないんだけど。そのことで、夫とは真っ向から対立していたわ」

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