葉隠稲荷
ご存知のとおり、『人でなしの恋』は江戸川乱歩の最も恐るべき短篇小説のひとつである。土蔵の二階で、何者かと密会を重ねる美青年の夫。現場をおさえるために忍びこんだ新妻が、そこで見たものは……未読のかたのために、これ以上は語れないが、要するに夫の密会の相手とは、
人でなかった、のである。
「ハイ、こわいですねえ。恐ろしいですねえ」
「眉毛を上下させながら言うな。というか、よくそんな古いネタを知ってるなあ」
「ハイ、お次はわたしの回想シーン、入ります」
そんなわけで、メイド探偵、略して「メイ探偵」牧村美由紀の足どりを、しばらく追ってみよう。
彼女がフォルスタッフをあとにしたのは、午後四時前。ほとんどぼくが帰るのと入れ違いであった。
買い物という名目で外に出たのだが、おのずとその足は、葉隠稲荷へ向かった。いわゆる、現場検証のために。
この季節、五時ともなれば完全に日が暮れる。すでに夕闇がせまり始めた商店街を奥へ向かい、胡さんの東風飯店を横目に眺めれば、餃子の焼ける香ばしいにおいに、ぼくみたいに腹の虫がいなくとも、彼女のお腹は「きゅん」と鳴いた。
東風飯店から三軒の店をやり過ごしたところで、横丁が終わる。反対側の駅前と異なり、あたりはひっそりとして、大きめの通りをはさんで向かい側の森が、絶滅した巨大な哺乳類のように、黒々と横たわっていた。歩行者用の信号機が点滅を始めた。そのさまは、しょんぼりと立ってウインクしている、一つ目小僧をおもわせた。
(いかにも、逢魔が時ですねえ)
こんな黄昏時に、人はよく化け物と遭遇する。タソガレは「誰そ彼?」であり、すれ違った相手が本当に人である、という保障はない。語源は「大過時」だというが、魔物とばったり行き逢っても不思議じゃない、「逢う魔」が時でもあるのだろう。
走って通りを横ぎった。白い息が弾んだ。信号機が、赤い一つ目で、じっと彼女を見下ろしていた。
森の中の小道に入ると、温度が二度くらい下がった気がした。闇にひやりと触れられたように、彼女は肩をすくめた。夕焼けが枯木立のシルエットを際だたせ、朽ち葉に覆われた石畳の小道に、初期のモンドリアンの絵のような模様を映していた。一歩踏むたびに、告げ口するように落ち葉が鳴った。
鳥居が見えた。
そこから石段が、擂り鉢状のくぼみへと下降している。斜面がほとんど樹木に覆われているため、居並ぶ鳥居と幟がトンネルのようだ。蘚苔類に滑って転ばぬよう、慎重に石段を降りる。下方の境内は、湿った闇につつまれている。そこに、
ぼぅ、とともるオレンジ色の灯りが見えた。
狐火?
あやうく落下しそうになりながら、美由紀はなんとか踏みとどまる。葉隠稲荷は、いつ来ても人がいないわりに、新しいお供えものが絶えない。信者という名の隠れファンが多いのだろう。あの火もそんな一人が点けていった、御灯明に違いない。
本能的に足音を忍ばせて、残りの石段を降りた。境内へ向かうのに下降するというのは、いつもながら変な感じだ。蘚苔類のにおいが、手で触れられるかのように強まった。拝殿の前では、黒衣の女が一人、一心に手を合わせていた。
「静香さん……」
思わずつぶやいた。つややかな黒髪を揺らして、女は振り向いた。白い肌。黒い大きな瞳は、どこか夢遊病をおもわせて、いまひとつ焦点を結んでいなかった。大きなコウモリが一羽、彼女の前をはらはらと行き過ぎた。赤い唇がうごめいた。
「牧村さんも、お祈り?」
「いいえ。わたしはしがない野次馬です」
黒衣の肩が揺れた。笑ったらしい。今日の静香は、いつも以上になまめかしく感じられた。上着の下はチュニックらしく、襟ぐりが開いているため、華奢な鎖骨が確認できた。その下で息づく、意外に豊かな丘陵の狭間までも。




