「わたしの本は芥川賞をとれるでしょうか」
フォルスタッフの前で、夕刊を配るお兄さんと行き逢った。北海道出身で、もと柔道の選手だという、かれはバイクの上でぺこりと頭を下げると、ぼくに一部手わたした。そのままユキトにわたすため、喫茶店のドアを開けた。
どうせ客はいないだろう。そうして牧村美由紀が、「聞き込み」の成果をせっついてくるだろう。と、タカをくくっていたところ、ユキトを相手に話しこんでいたらしい、見覚えのある一人の客が、カウンターから振り向いた。胡桃沢夏美だった。
「おっと、じゃまをして申し訳ない。ちょうど夕刊が来ていたもので」
そそくさと退散しかけたところ、夏美に呼びとめられた。ピンクのセーターを着て、今日は髪を解いていた。さすがにテレビに出ているだけあって、飾らなくとも垢抜けた印象。それがぼく自身のみすぼらしさを引き立てるようで、居たたまれない思いがした。
「わたしの本を読んでくださったって、本当ですか」
なぜそんなことを訊くのか、ぼくは少々いぶかった。先日、『タネなしスイカの種』が百万部を突破したという、巨大な新聞広告を目にしたばかりだ。ちなみにぼくの本は、千五百部出たっきり。それを偶然所持していた牧村美由紀の存在こそ、驚嘆にあたいするが。胡桃沢夏美の読者なら、そのへんに石を投げても当たるだろう。
引きつった笑顔で、ぼくは「はい」と答えた。十七歳の小娘を相手に、意固地になっている自分が情けなかった。かさねて彼女は尋ねた。
「感動したというのも?」
「本当ですよ」
「そこで質問です。わたしの本は芥川賞をとれるでしょうか」
候補に上がるのは確実。と、世間ではもっぱらの評判だ。もし受賞すれば、最年少の芥川賞作家が誕生するだろう。
ちなみにぼくは芥川龍之介が大好きで、芥川賞作家の本はほとんど読まないが、龍之介なら中学生の頃から愛読していた。人生は一行のボオドレエルにも若かないとか、恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものであるとか、そんなひねくれたロマンチストの風貌を好もしく感じていた。
だからもちろん芥川賞には、とてもとても憧れていた。もし自身がそれを獲得できたら。そう考えるだけで、後頭部がじんと痺れた。もし受賞すれば、いやせめて候補にでも上ったら、これまではるか雲の上にあったブンガクという世界に、手をかけることができるのではないか……だから、夏美の無邪気な質問は、ぼくにはつらかった。
ぼくが血へどを吐いて望んでも望んでも得られないものを、いかに無邪気に、いかに軽やかに、目の前の少女は手に入れようとしているのだろう。
「とれるように、陰ながら応援していますよ。がんばってください」
なんて情けないリアクションだろうと、我ながら思う。のみならず、まるで自身の小説のようじゃないか、とも。
例えば激昂して彼女の頬をぴしゃりと張るとか。そうすれば、もっとアクティブなドラマが生じるではないか。諍いと和解。読者をハッとさせ、ハラハラさせながら、次のページへと引きずって行くことができるのではないか。そうは思うのだが、ぼくにはそれができない。読者の感情を掻き乱すなんて、おこがましいと思ってしまう。
ぼく自身が日常、他人の感情を掻き乱すことを極端に恐れているように。
胡桃沢夏美は、あくまで無邪気な笑顔で「ありがとうございます」と言う。そのまま紺のダッフルコートに腕を通し、勘定を払って行ってしまった。タネなしスイカではないけれど、どきどきハラハラするようなドラマの種なんて、どこにもなかった。
なかったように思えたのだ、そのときは。
「センセイ、コーヒーでも?」
「遠慮しとく。それより、体調のほうはもういいのかい」
二階堂ユキトは少し微笑んで「ええ」と答える。ぼくがどきりとしたのは、かれらしくない疲労の色が、笑顔に紛れるのを見たからではない。空の器を引っ込めながら、かれは言う。
「林檎の件ですが、伊丹さんにもちかけたところ、さっそく、わけあり品を段ボール一杯、タダ同然で譲ってもらえましたよ。もちろんほかの口実をもうけてあります。新メニューの林檎ジュース用にと……」
かれは顔を上げ、おそらく日野日出志先生が描く漫画のように目を真円形に見開いているであろう、ぼくを見つめた。
「センセイ?」
巨大画面の乙女、リトルシスターの面影が、瞬時、二階堂ユキトの姿の上に、完全に重ねられた。




