香りの問題
こころなしか遠慮がちに、腹が鳴った。それで気がついたのだが、部屋の中には卵料理のにおいが漂っていた。枕もとにはメモがあり、
『おはようございます、ヨコマチさん! 具合はどうですか。おかゆを作っておきましたので、温めて食べてくださいネ。あなたの名探偵より』
名探偵にはメイドとルビがふられ、ハートマークで結ばれていた。
苦笑しつつ台所に立った。コンロには土鍋が載せられ、蓋を開けると、三人前はありそうな卵粥。かたわらの皿に盛ってあるネギが、青々と目に染みた。すべてぺろりと平らげたことは言うまでもない。
「あれれ。起きちゃってだいじょうぶなんですか?」
喫茶店まで下りて行くと、メイ探偵が素っ頓狂な声を上げた。カウンターでは佐々木さんが仏頂面でコーヒーを飲んでいた。毒でもすすっているような顔だが、その実、この店のコーヒーがお気に入りだという。
「いやはや、難儀なことでしたな。姪の話によれば、小ブラックホールを呑みこまれたとか」
「ブラックホール?」
「ハハハ。あの子は大のSF好きでしてな」
佐々木ユキがSFオタ……いや、ファンとは知らなかった。いかにも村上春樹の新作を心待ちにしていそうな印象なので、意外である。そうすると、昨日の夕方、ぼくの部屋には、メイ探偵と魔女と気ち……いや、マッドサイエンティストが揃い踏みしていたことになる。
そうそう、もう一人、サディストの王子がいたのだったが、今はカウンターの中に姿が見えない。
「王子は?」
尋ねると、コーヒーフィルターに湯を注ぎながら、美由紀が珍しく眉をひそめた。ちなみにフォルスタッフでは、コーヒーを淹れるのに機械をいっさい使わない。
「駅前の総合病院です」
「えっ。まさかユキトまで?」
ぎょっとした。かれまでアタッテしまったのだろうか。
「そうじゃないんですよ。幸吉さんが倒れたそうなので、お見舞いに。詳しい事情は、まだわからないんですけどね」
「わたしもこれを飲んだら、出かけてみるつもりです」
佐々木さんの口調からして、さほどひどい状態ではないのだろう。しかしあの張飛のように頑健そうな伊丹幸吉が倒れるなんて、ちょっとイメージできない。新婚早々、店をまかされて張りきりすぎたのかもしれない。静香もさぞ心配だろう。
テーブル席に腰をおろすと、かたわらに小さなクリスマスツリーが出ていた。まるでぼく自身みたいに、いまひとつパッとしない電飾を眺めているうちに、美由紀がコーヒーを運んできた。
「ありがとう」
カップを持ち上げたものの、どうも何かしっくりこない。この場合、いつも感じる一つの要素が決定的に欠落してる。そうだ。これは……
「どうかなさいましたか?」
「うん。どうもね、香りを感じないんだよ。美由紀ちゃん、これ、いつものコーヒーだよね」
「もちろんですよ。豆も新鮮ですし、挽きたてなのは、ご覧になったとおりです」
厳密に言えば、香り自体はするのである。ただいつもと違って、それが少しもぼくをユウワクしない。香りが全細胞に染みわたるような、あの感じがまったくない。今ごろ狂喜乱舞しているはずの灰色の脳細胞さえ、沈黙したままである。ぼくは首をひねりつつ、とりあえずひと口飲んでみた。
(ぎゃっ!)
危うく吐き出すところだった。腐ったドブの味がした。水、水を……と、うわ言のようにつぶやくぼくに、美由紀が急いでグラスを差し出した。ひと息に飲みほし、どうにか生きた心地がついた。見れば美由紀が目をまるくしており、そのうしろで佐々木さんもまた、鬼神のような形相で目を剥いていた。
驚いているらしい。




