三尸虫
美由紀が横から片手をあげて、みょうな声音を使った。
「いらっしゃ~い」
「それは三枝」
「十二です」
「それは三四」
「おっと、空振り」
「それは三振」
「廊下を走るのは」
「男子、って、だんだんズレてゆくじゃないの。美由紀さん、三尸とは、あなたの体にも棲んでいるかもしれない、三匹の虫のことよ」
「お腹の虫ですか!」
なぜか嬉しそうに腹をさすっている彼女の隣で、ぼくは腕を組んだ。急にしんとした室内に、雷鳴のような突撃ラッパが鳴り響いた。
「三尸というと、あの庚申信仰の?」
ぼくがそう言うと、レムリアン星姫は意味ありげな微笑を浮べて、うなずいた。
美由紀がしきりに袖を引いていた。
「サンショは小粒でぴりりと辛い?」
「それは香辛料。庚申信仰は、もとは中国の道教に由来するんだ」
「キョンシーとカンフーするやつですか」
「まあ、そうだね。あれに出てくる道士というのが、道教のマイスターだよ。三尸の伝説もまた、この中国の伝統宗教からきている。人の体の中には、三尸と呼ばれる三匹の虫が宿っていてね。六十日ごとにめぐってくる庚申……すなわち、古風な日めくりカレンダーなんかに訓読みされている『かのえさる』の日になると、人体を抜け出し、空の神様である天帝に宿主の犯した罪を、あれやこれやと告げ口するというのさ」
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸。これを十干というが、訓読みすれば、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと……と進んでゆく。き、は木。ひ、は火のことだ。え、は兄、と、は弟。すると、木の兄、木の弟、火の兄、火の弟、土の兄……というふうに、なんだかレインボーマンの化身をみたような、呪術的なインパクトが感じられるだろう。
この十干に十二支が組み合わせたものが、いわゆる「干支」なのだが、十二支のほうは言うまでもなく、子、丑、寅……で、こちらも年賀状に必要なその年の支ばかりでなく、十干同様、月にも日にも、そして二時間単位となる「刻」にも当て嵌められている。
ここにひとつルールがあって、例えばきのえ、甲は、子や寅とはペアになれても、卯や巳とは組めない。なぜなら、甲や丙は兄であり、陽であるから、寅や申などの陽獣とは組めても、卯や丑などの陰獣とは手を繋げない。 呪術的なにおいをぷんぷんさせながらも、昔の人が考えたことだから、理由はわからない。陰と陽が一個置きに並んでいることさえ理解すれば、さほど複雑ではない。
いまだに晩秋に入る頃から、書店に高島ナントカ開運暦がずらりと並ぶことからして、こういった情報を必要としている日本人が、まだまだ多いのだろう。
結果、甲子だとか、乙未だとか、庚申などの、六十とおりのペアができる。これが日々、順にめぐってくるので、「かのえさる」の日にも、六十日に一度ぶつかることになる。
「うーん。とにかくそれはちょっと、こまりますねえ」
眉根を寄せた。告げ口されてはこまるような、心当たりがあるのだろう。
天帝は北極星の神だといわれる。北極星は地軸の延長線上にあって動かないため、星々の王とみなされた。天帝は人の寿命をつかさどり、三尸の報告にもとづいて、宿主の寿命を縮めてしまう。宿主が亡くなれば、晴れて三尸は鬼になれるので、なるべく多くの罪を告げ口しようとする。
ならば、「かのえさる」の日に眠りさえしなければ、三尸は体を抜け出すことができないのではないか。寿命を縮めるための告げ口が、できなくなるのではないか。といった考えから、この日の夜に所定の家に集まり、勉強したり雑談したり宴会したりして、夜を明かすイベントが行われるようになった。
このイベントが江戸時代の庶民の間でおおいに流行した、「庚申待ち」である。
「ほら、東京でも郊外を歩いていると、お地蔵さまのようでそうでない、石碑みたいなものに出くわすだろう。よく怖い顔をした手のたくさんある仏様が彫ってある。青面金剛というんだけど、手のひとつに女の髪を引っつかんで、ぶら下げていたりする。あれが庚申待ちの本尊であり、石碑は『庚申塔』といって、主に庚申待ちを三年間続けましたという記念碑なんだよ」
今ではお地蔵様と同様に扱われている場合が多いが、ニュアンスはずいぶん異なる。予算の都合からか、文字だけを彫った庚申塔も多い。
ひととおり解説したところで、また腹が鳴った。相づちをうたれたような気がして、ぼくは慌てて付け足した。
「ですが星姫さん。必ずしも、三尸=腹の虫ではありませんよ。いや、そもそもそんなものは現実にはあり得ません。それこそ、ファンタジーですよ」
「三尸説が、さまざまな矛盾をはらんでいることは、承知しています。ひとつの可能性を、わたしなりに提示したかっただけですわ。それに……」
星姫は軽い痛みを覚えたように眉をひそめた。半眼になっているけれど、じっと見つめられているのがわかった。彼女をカリスマ視している女子高生たちによれば、星姫はこうして「気」を読むのだとか。場合によっては、「憑いている」霊を発見することもあるのだとか。
一分後に、彼女はもとどおり目を開いた。こころなしか蒼ざめて、汗をかいたのか、額を指でぬぐった。
「あなたの第三チャクラ、マニプラのあたりから、すさまじい『気』が発生しています。オーラの色は、鮮やかな赤。普通は黄色なんですよ。こんなものを見たのは初めてです。あなたには何も見えないかもしれないけど、でも感じていらっしゃるのではありませんか。超常現象は、すでに始まっているのです」




