胃袋の中の意志
「お加減はいかがですか」
ユキトがドアを開け、そのうしろから、佐々木ユキが遠慮がちに顔を出した。ぼくはすでに三、四人前の卵粥を平らげていた。美由紀はまだここにいるし、店のほうはだいじょうぶなのかと尋ねると、
「開けっ放しですが、問題ありません」
愚問だったようだ。
「それで、お腹のほうは?」
「絶好調といえば、これほど絶好調だったことは生まれて初めてだよ。美由紀ちゃんのつもりでは、きみたち二人ぶんの夕食も兼ねて、お粥を作ったんだろう。日頃、ぼくはあんまり食べないからね。ところが、そいつがすっかりこの中に納まっちまった」
軽く腹を叩くと、突撃ラッパが返ってきた。美由紀が目をくるくるさせた。
「まだお腹が空いているんですか」
「空腹感は、不思議にあまりないんだ。でも食べようと思えば、今から三保ヶ関部屋に乱入してちゃんこ鍋を丸ごと食べられそうだし、実際食べられるんじゃないかな」
「面妖ですねえ」
「まるでぼくの胃袋を、何か別の意志が乗っ取っているようだよ」
これがじつに的を射た例えであったことを、ぼくは近いうちに知るだろう。眼鏡をちょっとずり上げて、佐々木ユキが言う。
「満腹か空腹かは、あくまで脳が判断すると聞きました」
一昨夜の狂態が嘘のように、いつもの控えめな物腰に戻っている。こころなしか頬を染めているのは、あの夜自分がしたことを、遠まわしにでも耳に入れたのだろう。もし覚えていたり、ありのままを聞かされていたりしたら、当分は人前に顔を出せまい。彼女は語を継いだ。
「ダイエット関係の本に書いてありますよね。よく噛んで食べると、脳は満腹感を覚えやすいとか。つまり、お腹の状態と脳の判断との間には、ズレが生じやすいのです。ヨコマチさんの場合、極端に大きなズレが生じる、何らかの障害が発生したと考えられます」
どうやらこの娘は、理詰めでモノを考えるタイプらしい。ぽん、と、美由紀が手を鳴らした。
「ヨコマチさんてば、ほとんど噛まずに食べてましたからねえ。蛇がスイカを丸呑みするように……あっ!」
「どうした?」
美由紀は目を見開いたまま、人さし指を唇に当てた。次にその指をぼくの面前に突き出して、
「スイカが犯人かもしれませんよ。サマーを責めるつもりはありませんが」
「サマーってだれだ」
「夏美ちゃんですね。ほら、わたしたち、ヤミナベのことばかり頭にあったけど。スイカだってじゅうぶんアヤシイじゃないですか。季節外れのスイカでしたし、当然、ナマで食べるものですし。アタル確率はヤミナベと互角か、もしくはそれ以上ですよ関口くん」
どうやらこの娘は推理小説の読みすぎらしい。ぼくはやれやれと首を振った。
「残念ながら、ぼくはスイカを一口も食べなかったのだよ石岡くん。とある酔っ払いに食べられてしまってね。それに、これを見てほしいんだが」
あまり気は進まなかったが、シャツをめくって腹を見せた。ぼくは三島由紀夫の小説は読むが、小説家の筋肉には興味がない。力石徹に小突かれただけでポキンと折れてしまいそうな、貧相なお腹は、三、四人前のお粥なんかどこにもなかったかのように、見事にへこんでいた。ユキトがつぶやいた。
「必ずしも、センセイの脳に問題があるわけではない、と」
「まあ、脳に問題のない作家のほうが少ないだろうけど。異変は明らかに脳ではなく、腹の中で進行している。しかし、これはいったい……」
「超常現象」
声のしたほうを、皆がいっせいに振り向いた。猫のように音もなく、いつの間に入ってきたのか。腕組みをして、ドアに軽くもたれた黒衣の女、レムリアン星姫が立っていた。
「三尸、というものを、もちろんご存知ですわよね。ヨコマチ先生」




