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アノマロカリス

 ぽかんとするぼくの面前で、彼女は立てた二本の指を振ってみせた。

「ハイ、二日です。今日は土曜日なんですよ」

「すまないが、世の中に背を向けて生きているぼくには、曜日の感覚はないんだ」

「そうでしたねえ。闇鍋パーティーをやったのが、十二月一日、木曜日です。で、明くる二日、金曜日の朝五時半すぎに、ヨコマチさんが昏倒。そのままコンコンと眠り続けて、今日が三日の土曜日なんですねえ」

「篠田先生に、猛獣用の麻酔でもうたれたのだろうか」

「先生なら、昨日の夕方もみえられたんですけどね。眠っているだけで異常ナシと診察されましたよ。ほら、ヨコマチさんって、日頃から不眠症の気があるじゃないですか。きっとツケが溜まっていたんだろうと、無理に起こさないことにしたんです」

 ツケならば、方々にいろいろと溜まっていそうである。しかし、お粥を作ったりして、よく今頃目覚めるとわかったものだ。そう言うと美由紀は片目を閉じた。

「メイドのカンですよ」

 もしぼくが紙に印刷されることを前提に、何の気がねもなくルビをふれる作家だったら、今のセリフは「女の推理」と書き、彼女の発音どおりルビをふるだろう。

 篠田医師は三階建てのビルの二階で診療所を開いている。商店街からは外れるが、伊丹さんとも懇意で、ほとんど振興会の一員のようなもの。時代劇に出てくる良庵先生の現代版が、この人だと考えていい。

 もっとも当時、医者のほとんどは、テレビで見る儒学者ふうの総髪ではなく、坊主頭だったようだが。それでは役者が嫌がるので、あの恰好が定着したのだと聞いた。

 内科・外科はあたりまえ。ちょっとした脱臼なら三秒で治し、漢方にも通じている。昔かたぎの「町医者」である。

「さすがの先生も、首をかしげていましたよ。同じ缶詰を十人で食べて、一人だけ当たったようなものだって」

「カンヅメ?」

「サバ缶とかですね。あれって缶に封じ籠めたうえで、加熱して菌を殺しちゃうんですって。ですから、缶を開けない限り菌が入らないので、理論的にはずーっと腐らないそうです。変な感じですよね。わたしたち、何でも腐るのがあたりまえだと思っているけど、菌がなければ腐敗は起こらないんですね」

「なるほど、何億年も前にその技術がなかったことが悔やまれるよ。三葉虫やアノマロカリスの缶詰が食えたかもしれないのに」

「あのアマに借りがありんす?」

「アノマロカリス。五億年前の海にいた最強の節足動物だ。一メートル級のやつもいたらしい。頭部の先から下向きに、にゅっと突き出た太い二本の触手が特徴だよ」

「触手ですか!」

 と、タコメイドが目を輝かせて話は脱線したが、篠田医師の例えは的を射ている。

 ヤミナベの具は徹底的に煮込まれたのだから、菌は混入していないはず。皆が同じものを食べたのに、一杯しか食べていないぼくだけアタルのもおかしい。おおいに食っていた美由紀や佐々木ユキのほうが、はるかに確率は高いだろうに。まあ、こういうときだけアタルのは、ぼくらしいといえばぼくらしいのだが。

 アレルギー体質ではないし、とくに胃腸が弱くもない。もしかして、美由紀がぼくにだけ山盛りにしてくれたタコイカが原因だろうか、とも考えたが、あれだってほかの出席者も食べている。会の終わり頃には、鍋はすっかり底をついており、シメに用意されていたうどん玉が、デザートのスイカに化けたくらいなのだから。

(スイカに、化けた……)

 大きなスイカの種に似た、得体の知れない食材を飲み込んだ。そいつが咽を通る感触が、みょうに生々しく思い起こされた。あれはいったい、何だったのだろう……気がつくと、美由紀が腹をかかえて笑っていた。

「さっきからお腹が鳴りっぱなしですよ、ヨコマチさん。お粥、よそってきますね」

 彼女が台所に立つと、またふんわりと、よい香りがした。上半身を起こす間も、たて続けに腹が鳴る。まるでぼくの意思とは無関係に、何者かが腹の中にひそみ、突撃ラッパを吹き鳴らしているように。

「ハイ、お待たせしました。あーん、して」

「さすがにそれは照れる」

 ふくれ面の美由紀から、お椀と中華レンゲを受けとった。そこまでは覚えているのだが、次に気がつくと、彼女のいかにも驚いた顔が、目の前にあった。手もとをみれば、お椀はすっかり空になっている。感覚的には、お椀を受けとってから、三秒もたっていないというのに。

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