2.背後で息づくもの
翌朝、寄宿舎二階にあるユリトの部屋。そのベッドの上では一人の少女が寝息を立て、幸せそうに熟睡していた。毛布がはだけ(暑いのか足で蹴って)おり、ブラウスの隙間から形の良い胸が見える。リリスだった。真っ白な雪の如き柔肌は、触れると溶けてしまいそうなくらい血筋が浮いている。ばかりか十歳とは思えない発育の良さで、何とも言えない普段との温度差にユリトは苦く笑うのだった。
窓からこちらに差し込んでいる朝焼けと、未だ眠るリリスの姿を見遣ってユリトは全てを整え終えた正装(ブラウスの上から黒のサスペンダーを装着し、下は学院指定制服の黒ズボン)と柄にも無いが突剣を腰へ帯びさせ、敢然と、だがそれでも胸の内にいつも少女の存在を置き、数瞬だけ虚空を眺めて逡巡する。
そして決意を心の最も深い所へ刻みつけ、荷を肩に掛けて一息吐き、一歩踏み出す。朝焼けの光を背に戸を開け放ち、部屋を後にした。ユリトは気高き魔王ことリリスの事が心配なようで、部屋を出るのにも気に掛けていたようだ。
それを少し考えてみる。今後、リリスを逃がしたとなっては学院長や南方魔術学院が乗り出してくるに違いない。そうなれば自分の力だけでは隠し通せないだろう。いや、そうなる前に彼女を逃がすべきだ、とユリトは本人の意思をも無視して考えるが、しかしそれだけで問題が終われば全然厄介ではなく、シルヴァンダーク・ドラクロワの存在がそれを阻んでくるのだ。
奴が魔王の魔力を所持しているとなると、リリスがもう一人分身した事になるのとほぼ同義であり、奪い返さなければならない。が、ただ倒しただけでは当然魔力の底は尽きないだろう。それに加え、魔力を浪費させるのも期待薄だ。
となれば現時点でリリスを野に放っては、シルヴァンダークの蹂躙を止めるのは不可能に近い。そう、彼女しか魔力を奪い返す事が出来ないからだ("接吻"と"まぐわう"行為を除けばそういう事になる)。
逃がすことが出来ない以上、彼女には自分の使命を全うしてもらう事になるが、とは言っても昨夜の発言『傑柱石を集めて、もう一度自分を封印しようと思う』が今度はその使命を阻害する羽目になる。
とどのつまり、今回の任務はもしかしたら傑柱石が手中に収まるかもしれないのだ。しかしシルヴァンダークが街に潜伏している可能性を考慮してリリスを同行させれば任務後、傑柱石は当然の流れで彼女に委譲されるだろう。
それらを踏まえた上でこの任務、リリスに言わせてみれば恐らく「調度良いじゃろ」と言うだろうが、ユリトはこんな小さな女の子を再度封印させるような真似したくない。
積もる話も最後になるが、奴を倒したいが封印の助長はしたくない。これがユリトの本心だった。彼女をこの広大な世界へ飛び立たせ、自由に見て歩かせてあげたい。そんな気持ちが強く、心の傍らに在る。
兎にも角にもこの計画が本人に見つかっては元も子もないので、ユリトはリリスを置いてのアズガルド潜入を決意したのだった。それが今一番出来る最善策だと自負している。
潜入と言っても全身の服を黒で統一したり、闇夜の路地や屋根の上を颯爽と駆け抜ける訳でもない。実際はもっと地味で、血飛沫と弾丸と硝煙の臭いが散漫する世界の渦を渡り歩くだけの、血みどろ絵図。昔、腐り這い落ちた肉体がその中心点で佇んでいたのを思い出す。
何時何時でも直ぐ傍に絶望の深淵が待っていることを、ユリトは決して忘れない。生きるために、他人の命を搾取することを躊躇ったら終わりだと知っている。
色々思うところはあるが……そろそろ出発しようと思う。
ユリトが寄宿舎の外に出てくると、木の柱に繋ぎ止めておいた愛馬がこちらに気付いたのか体を揺すって主に反応した。少しばかり長い旅になりそうだと思い、頭を撫でてやる。
もし魔術騎士を殺害している犯人がシルヴァンダークでなければ、リリスを連れて行く意味は尚更無いが、シルヴァンダークだとしたらどうするかまだ考えていない事を思い出してくる。
(俺一人で何とか気絶させて、学院の近くまで運ぶか……)
これまでの葛藤に終止符を打ち、纏まってきた考えの道筋を今観ている視界と合わせて構築していく。果てし無い地平線の、草木が生い茂った草原の、ずっと向こうを深く、低く、睨んだ。この大草原の先に、リリスの魔力を奪い、封印を解放した当人・シルヴァンダークがいる。少し怖気もあるが、この程度何て事は無い。それよりもどう生け捕るのかが問題である。
現在魔力を持たない魔術士とも怪しい剣士。それがユリトで、一応安物の剣だけは腰に帯びているが剣術のみで奴をどうこうするにはまず一度手合わせをしなければ勝敗の底が見えないと思われる。
(全ては会ってからのお楽しみって訳だ)
皮肉げな表情を浮かべて、それから愛馬の左側に回り込んだ。鞍をじっと見詰め、深く溜め息を吐く。この様子だと乗るのを躊躇っていると言うより、乗れないのだ。ユリトの不得意分野がここに来て重圧を掛けてくる。これに関しては師匠に散々怒鳴られて泥塗れになったが、結局乗れるに至らなかった。どうやら平衡感覚がおかしいらしい。よくそう言われていた。
ふと、頭上を見上げ、赤く燃えた空と山影が上下で挟まれている地平線をただ何の気無しに眺め続けていると、どこか詰まらなさそうなファッジの声が、
「行くんだろ? アズガルドによ――」
後方から飛んできて振り返ると、呆れた顔でこちらを静観していた。
「――オレが何にも知らないとでも思ってたのか? 見くびるなよユリトよー!」
ファッジには全てお見通しだったようで、よく見れば腰の両側に剣が二本突き刺さっている。余程の事が無い限り彼が帯剣する事はない。どうやらこの瞬間がその余程の時らしい。
「って言っても事情は知らん。けどな、お前がヤバイ事件に首突っ込んでるのは何となく分かるんだぜー?」
そう言うファッジの背から横にズレて、
「何でも一人で問題を抱え込まないで。貴方はいつもそうやって、一人で戦おうとするんだから」
長い黒髪を後ろで結ったポニーテールが揺れ、クラスリーダーと呼ばれていた女の子が精悍さを顔つきに表し、堂々と言った。
「ファッジ! シノ! どうしてお前ら!」
ユリトは驚きの余り面食らってしまい、意外だったとでも言うような声を上げた。思わずクラスリーダーの名を略語で叫んでしまったが、彼女の方は特段気に留めていない。ちなみに本名はシノ・フィーリンローグ・ナイト・キュベレーである。
「あーもうじれってえ!」
照れ臭そうにファッジが頭を掻いて、それを叩き伏せてきた。
「連れてってやるよ! 任せとけ」
ファッジは思い切りよく胸の中心を右手で叩いた。雄壮な存在だった。これが仲間と言うものなのだろうか。ユリトは吐瀉物まみれの過去を一瞬だけ頭で回想し、意識を引き戻してくる。
不意に顔を上げたユリトは二人から背を向けて先導に立ち、出発の狼煙を上げた。
「よし、行こうか!」
「ぐ……ッ! 俺はどこに在るか知らない! 本当だ……ッ!」
アズガルドの仄暗い路地裏。淀んだ空気と湿り気の多い土、煤だらけの壁とその下で無造作に置かれた木箱が、実に嫌な空間を作り出している。
木製の建物である宿屋と武具屋の間に挟まれているそこは、完全に人の目が行き届かない場所だった。それに加え、太陽の光りすらも差し込まない酷い通路である。
銀髪赤眼のシルヴァンダークは、付近を巡回中だった若い魔術騎士を引っ掴んでここまで誘導し、やおら顎下から思い切り鷲掴んで壁に押し付けていた。化物じみた筋力で騎士の足が地面から浮いている。
「答えろ!」
頭以外銀の甲冑で全身を覆った騎士から呻き声が洩れる。骨を強引にへし折ったような音が後続した。傍らで転がった兜が無惨さを引き立たせる。男は苦し紛れにシルヴァンダークの腕を握っているが、もう限界が近付いていた。
「シルヴァンダーク様」
ここよりさらに奥の通路から、桔梗色の髪をした長身女性がこちらに向かって歩いて来る。肩まである髪は綺麗に毛先が揃っていて、艶やかだった。
格好は落ち着いた紫と白が基調のブラウスに外套。細い目は閉じているか開いているか分からなくて気味が悪い。
「情報は?」
シルヴァンダークは女の方に顔を向けず、簡略的に言った。
「駄目でした。やはり魔術騎士は口が堅い」
(これで十三人目だぞ……)
と思いつつ、
「引き続き傑柱石の情報を探れ」
と指示する。シルヴァンダークはほとほと嫌気が差していた。
それもこれも、全て魔王を取り逃がしたせいである。まさかあの傑柱石が魔王を制御するのに必要なものだとは思わなかった。傑柱石で封印出来るのなら、制御出来てもおかしくはなかった。そう考える余地はあの時無く。
(傑柱石を集め、魔王を……リリスを手に入れるのだ!)
いかに自分が魔王の魔力を持っていると言っても、一筋縄でいく相手で無いことは明白だった。だから……だからこそこの左目を失ったのだ。
シルヴァンダークは改めて、左目に被せていた黒の眼帯を抑えた。傷が疼いて仕方ない。
彼は知らないようだが、実を言うと押されていたのは確かにリリスの方だった。大魔力同士のいがみ合いにもなると怪我の規模も上昇するという訳である。
「――城だ……ッ」
不意に魔術騎士の男がそう呻いた。シルヴァンダークは眉を寄せ、舌打ちする。
「やはり知っていたか。この街の駐屯騎士が手を拱くはずがないからな」
「どうします?」
シルヴァンダークは男の喉笛を砕くように離して服装を整えると、憮然とした表情で路地裏から表通りへと踏み出す。同時に白銀の外套が翻った。
右角を曲がり、見えてきた巨大な城を睨み据えて吐き捨てる。
「少しばかり派手な噂が立つのも已む無し、だ」
数瞬後、路地裏で絶命した魔術騎士の横合いから修道士風の格好をした金髪の何者かが姿を現した。歩くおかげで顔から陰が引いてきて、十字架の紋章が刻まれた帽子と、そこからはみ出した前髪の下から中性的な顔立ちが露になる。髪は比較的短く、修道服が紺碧色という異様な出で立ち。脇下から側腹部にかけて白色の線が腰まで伸びており、どうしてか太ももの左右の布がビリビリに裂かれ、前後で垂れ幕のようになっている。動きやすさを重視しての格好だとは思うが、そのせいで白い太ももがざっくりと露出している。それ以外で注目すべきなのは、その巨大なベルトである。腰を丸々覆うそれは幅六センチ程はあり、左腰のベルトに古式銃が、右腰には聖用剣が突き刺さっている。
その修道士がしゃがみ込んで騎士の息を確認した後、同じくシルヴァンダークに追従していった。しかしその事に、前方を歩く二人はまだ気付いていない。
馬上にて、手綱から手を離して眠たそうに腕を伸ばしたシノは、疲れ切った顔で前方――虚空を見詰めていた。その後ろで彼女にぴったりとくっついて跨るユリトもどこか顔色が悪い。
膝下まで草が生えた見渡すかぎりの大草原の中。うねくる麦色の地面が露出した小道に沿って馬を歩かせる事彼これ三時間といった所だろうか。未だ街の影すら見えてこない。
三人は特にこれと言ってする事が無かったようで、馬上での座談に現を抜かしていたのだった。それも先程から他愛無い話ばかりである。
結局アズガルドや寄宿舎の裏に落ちた光りは何だったのかとか、人間が竜を産んだのは本当か!? とか、小人の精霊がアズガルド周辺で出没しただとか、挙句の果てに魔王の封印は本当に解けてしまったのか!? 等と妙に信憑性が高い怪談話を話していたのだった。
特にファッジとシノは、魔王の封印が解けてしまったことを一番危惧していたらしい。その話になり、今までの空気が一変する。
「やっぱり封印の掛け直しは失敗で、今もどこかで暴れてるんじゃねーか……?」
ファッジのどこと無く物怖じした言い分に、
「ちょっと嫌な事言わないでよファッジ君……」
シノも落ち着き払ってはいるが、やはり本心では事態の深刻さにかなり憂慮していると言える。
「でもクラスリーダーだって見ただろ? 帰ってきた講師連中がリラマンとアーサーと腕を失った学院長のたった三人なんだぞ!?」
いきなりファッジが物凄い剣幕で捲し立て、
「そしてお次は学院封鎖ときたもんだ! 意味が分かんねーよなー」
吐き捨てられた言葉にユリトは気圧され、言葉に詰まってしまう。
ファッジの言う通り、昨夜からヴァルハラ魔術学院は緊急閉鎖されている。今後の見通しも立っていない状態だ。
「どうかしてるぜ……危うくラスクも死にかけたんだ!」
南方魔術学院から転任してきたのが巨乳美女じゃなくアーサーだったという事実にファッジは怒っているのかと一瞬思ったが、研修生代表として遠征に出向いた優等生・ラスクの事を話へ持ち出してきた。一見頭が悪く授業にもほとんど出ないような男だが、ラスクとはユリトと同じくらい親しき仲のようである。
そんな友人が大怪我を負って、ファッジは心配な思いと同時に酷く激昂しているのだろう。見る限りそうでもないが、憤っているのは確かだ。
「…………」
シノも言葉が出ず、息を吐くだけ。ユリトは二人の姿を見て、どう声を掛けようか迷ってしまった。ここで彼らに魔王の事を教えても良いのだろうか。皆で団結した方が良いのではないか。そんな事を考えてしまう。しかし意見の食い違いによる仲間割れが怖い。特に今のファッジにこの事実は悪い毒だ。
(タイミングが大事だよなぁ……)
ユリトは顎に手を遣って逡巡する。その時、不覚にも危うく馬から振り落とされそうになって冷や冷やした。何やら後ろでどたばたとした気配を感じたのか、前を向いたままの状態でシノが呆れて息を吐くのであった。
「何してるのユリト君。考え事もいいけど私のお腹にちゃんと腕回しときなさい、振り落とされるわよ?」
「……は、はい」
馬上のユリトは自分の前で跨るシノへ向かって、やや震え気味の声で返した。改めて彼女の背中を見ると、ブラウスの上から下着が透けていることに気付く。少しだけの焦燥感が、しかしじわじわとユリトを襲う。段々と手に汗が滲んできた。
「……」
「ちょっと……?」
ユリトが腕を回してこないので訝ったシノは、数瞬置いてはっとなり、赤面する。あたふたと自分の体を見回している。その時偶然にもどこからか腹の虫が鳴る音が響いてそれぞれ顔を見合わせることになった。
「……ファッジか?」
ギクリとした挙動でファッジが、
「いや、オ、オレじゃねーぞ」
とどぎまぎした面持ちで言った。
「じゃぁ、シノ……だな!」
「違うわよ! なんでそうなるわけ!」
そんなこと聞くな、と背中で語ったシノの胸の下辺りをユリトはようやっと両手でしがみついた。胸の膨らみの感触が腕に伝わってきて、どうしても鼓動が早くなる。さっきから動作や言動が不自然極まりないが、何とかしがみつくことに成功した。心中で密かに胸を撫で下ろす。
「そ、そうか」
それはそうと、腹の爆音は一体誰なのだろうか。思い当たるふしがあるが、それは有り得ない。今朝、爆睡しているのを確認してきたのだ。まず、この考えはないだろう。そこまで思い至り、ユリトはシノの方へ向き直る。
改めて確認するが、ユリトは馬に乗れない。今は強引にシノに引っ付いているお陰で乗馬出来ているが、不慣れなのに変わりはなく、お尻が破壊されるのも時間の問題だったのだ。
「尻も痛いし、この辺りでちょっと休まないか?」
頃合いだとでも言うように、ユリトが神妙に言った。
「仮にも特殊魔術の大先生なのにほんと馬術だけは進歩しねーよなー!」
ファッジのあまりの大笑いっぷりに苦渋の顔をしてみせるが、本当の事なのでここは引き下がってみる。
「……下手で悪かったな!」
自嘲気味にそう呟くと、それに呼応したシノが手綱を引き、馬の足を止めさせた。傍らで並走していたファッジも同じく馬を止め、飛び降りる。二頭の馬は身軽になったことで体を激しく揺すり、それから草を食べ始めた。
余談だが、ユリトは魔術の分類の中でも特殊魔術しか使えないが、それがかなり得意分野であることは周知の事実である。何しろ、前回のこうした任務にファッジが同行したこともあるし、たまに受ける授業で不本意ながら魔術を披露してしまったことだってある。それ以降、クラスのユリトに対する目は大分変わっている。
(一目置かれてるって感じ、俺はあんまり好きじゃないんだよなぁ……)
ユリトは溜め息を吐き、深呼吸する。太陽が山の丁度頂きから迫上ってきて、半分顔を出した光りが目に飛び込んでくる。
草原から少し外れ、草本帯になっている所へ移動する。簡単に言ってしまえば雑草や花等で一面広がった野原のことだ。さっきとは打って変わり、足首までしか草が生えていないためかふかふかしている。
「んぅー、でも流石にオレもちょっと疲れたなー」
生い茂る草原の上でファッジは背伸びをして寝転がった。軽く一八〇は超える背丈なので、地が揺れるような錯覚と圧迫感を覚える。ユリトとシノもその近くで背中を預け、景色を眺めることにした。三人、川の字で空を見上げる。
「たまにはこういうのも良いものね」
切れ切れに伸びた巻雲が、蒼空の奥で浮かんでいる。滑らかに、ゆっくりと左へ流れていく。悩みが吹き飛ぶ壮大な空。自分達はちっぽけな存在だ。
「ああ、そうだな」
率直に美しいとさえ思える山々は、三日月状の山影でユリト達を四方から囲っていた。地上に生える色鮮やかな花々が、朝の露を草に留め光り輝いている。
また、大草原にぽつんと大木が一本だけ聳えていて風情があった。見上げると予想以上に大きく、茸のような笠は直径五○メートルくらいあるだろうか。
「ね、あの木の下でお昼にしない?」
上から覗き込んでくるシノの言葉に頷き返し、起き上がる。ほかほかとした肌触りの良い空気は、体を軽くしてくれる。まるで見えない何かに暖かく包まれているようだ。そして同時にこの虚無感と神秘的空間が、心の闇を取り除いてくれる気さえした。耳を澄ませば鳥の囀りも聞こえてくる。ヴァルハラ魔術学院に通っている時とは大違いで、やけにのんびりした時間が過ごせそうだと思った。
「おっ、これ全部クラスリーダーが作ったのかよ! すげえな」
割と二人の準備が良い事にユリトは苦笑し、シノが作ってきた昼食を食べ始めた。この自然の景色を眺めながらパンを頬張るのがまた気持ちが良い。他にも、瓶詰めの林檎ジャムや毎度お馴染みのローストチキン、南瓜と豆スープ、甘いアーモンドの蜜であえたソーセージ、羊肉と赤ワイン、まるで極彩色の食卓だ。
ユリトらの食事は手でがっつり食べるのが当たり前だった。女の子はちゃんと木のスプーンやフォークで食べているが、面倒臭いため庶民はもっぱら手を使う。
「相変わらずよく出来てるよ」
ごつごつした豆が入ったスープを飲みながら、ユリトは称賛の声を掛けた。
「ありがと。褒めても何もでないけどね」
「はぁ、クラスリーダーを嫁に貰ったら毎日こんなのが食べれるのかー」
とファッジが空を見上げて半ば溜め息混じりに呟いた。そんな彼の姿を隣で無意識的に眺めていると、この場所からずっと向こう――北西辺りの森の色が他のそれとは違い、やけに色濃い深緑色なので思わず目に止まる。荒れ果てた感じが強く見て取れるそこは、密林、又は熱帯雨林と言ってもいい。
「なぁ、あれ見えるか?」
あらゆる種類の任務をこなし、各地の街もそれなりに行ったことのあるユリトだったが、あんな場所があるなんて知らなかった。
「あー、あそこな。そもそも居住区じゃねーぜ。昔古代遺跡があったとか何とかで誰も近寄らねえ場所だ。つまり、未開拓地ってわけさ」
ファッジも木陰の中――木に背を預けて骨付き肉を頬張り、肉片を飛ばしながら豪快に言った。
古代遺跡。その昔、竜や小人の精霊が先住民族と共存していたとか何とか。胡散臭い伝え話である。小人の精霊出没情報の出所はどうやらそれだ。しかし古いモノ集めが趣味のファッジは目を輝かせ、興奮して何やら語り始めている。
「オレも何度か探索で行ったことあるんだぜ? 毎回迷いそうになって撤退するんだけどなー。結局何も発見出来ないんだが珍しい素材はいっぱい転がってるぞ。例えばこれだ」
黒い革製鞄から取り出したのは、手の平を上回る大きさの銀色古式銃だった。こちらに放り投げてくる。
「っと。これは?」
「見ての通り古式銃だぜ。ただし、今市場で高騰してる白金が織り込んである。今じゃ造られていないレアモノだ」
アズガルドの市場でたまに見かける白金という物質が、あの古代遺跡の森で取れるらしい。それにしても古式銃は存外重く、手にずっしりとくる。
「どうやって撃つんだ、これ」
古式銃にも二つの種類がある。一つは魔力を弾薬代わりに篭める魔式銃。もう一つは広く一般的な弾薬を篭める古式銃だ。
「それは魔式じゃないから弾薬詰めないと使えないぜー。ほれ」
さらにこちらへと放ってきた革製の弾薬ポケットには、縦にびっしり弾丸が詰まっていた。
「少しの間貸してやる。オレのお気に入りの一つなんだからな、ちゃんと返せよ」
その目の奥で湛える不撓不屈の眼光は、ユリトの心に深く抉り込む。自分でも分からないが、この感覚は前に一度体感しているかもしれない。
(……生きて帰る、か)
師匠の姿と夕日の光景がフラッシュバックし、その回想を額にあてがった右手で掻き消した。そして、ユリトが敢然と口を開く。
「そろそろ話すよ、今回の任務の事」
「……漸く話す気になったみてーだな」
「なに? 任務……? それってどういうこと?」
この場で唯一状況を呑み込めていないのはシノだけであった。それもそのはずで、彼女はユリトの立場を知らないのである。
「あー、それはな……」
「いい、俺が話すよ」
ファッジの声を右手で制すと、ユリトはスープを飲み干して喉の奥から言葉をせり上げた。
自分がエレナの家に拾われて師弟関係を結び、たまに師匠から仕事の依頼を受けている事。それから今回の任務でとある男を生捕にすることを事細かく説明した。しかし一点、魔王の話を除いて。
「あの石、傑柱石なんて名前が付いてたんだなー」
「ああ。どうやらその石には途轍もない量の魔力が無尽蔵に詰まっているらしい。俺達でシルヴァンダークを止める」
「そんな相手、私たちだけで戦えるの?」
「……分からない。でもやるしかない。俺しか太刀打出来ない相手なんだろう」
恐らく、そういうことになる。師匠がこちらに回してくる任務は、大半が特殊魔術を応用すれば解決出来る仕事ばかりだった。
特殊魔術は残りの四系統と違い、天賦の才が非常に強く、使い熟す者が現れるのは稀である。魔術とは元来、生まれながらにして属性の型が決まり、九割型は火・水・雷のどれかに秀でるものだ。と言っても簡単な発光や滑面は誰でも使える魔術であり、数少ない特殊魔術を施行出来る者達の特権という訳でもない。
しかし、例外がある。闇の魔術だ。この世に天才という者がいるとしたら、それを扱える者は異才とでも言うべきか。次元が違う代物だ。だから、人は禁術書という書物から闇の魔術を理解しようとする。結果、幾人もの人間が本に呑み込まれてきた。
「特殊魔術の大先生っていう立場所以の依頼って訳か。でも気をつけろよ。相手も相当な手練なんだろー」
「そうだな。だけどこっちには頼もしい仲間がいるぞ」
受け取った銀の古式銃を手で転がし、ベルトのボタンに帯びさせた。思った以上に綺麗に嵌まったことから、これは古式銃専用の留め金部分だろう。
「そろそろ行くか。俺達は案外、進んでいたようだしな」
ユリトは苦笑し、意味深に街の方角へと指を向けた。霧が張っていたように、すーっと濁っていた視界が晴れ、街の巨大な城壁が陰となって浮き上がってきた。
シノはそれを見て少し眉を寄せ、
「最近異常な気象が目立つわね。霧が張っているなんて稀よ」
誰に言うでもなく呟き、荷を纏め始めた。
「面倒なことになってきたぜ」
頭を掻きながらファッジがのろのろと起き上がる。
「皆、街に入ったらいつでも戦闘出来るように準備しといてくれ。どこで何が起こるか分からない」
「ああ。言われるまでもなく万端、ってね!」
微笑を浮かべたファッジは腰の左右に帯剣していた二つの剣を抜き差しし、感触を確かめている。左足の太股には古式銃の形をしたポーチが巻き付けてあった。動き易いようにローブを剥ぎ取り、ユリトと同じように白のブラウスと黒のボトムスへ衣替わった。
シノも両手を頭の後ろに遣って、ポニーテールを結い直している。口で咥えた髪留めの輪で括り、ちゃちゃと立ち上がって馬鹿長い刀を右腰に帯させた。いつの間にそのような得物を携帯していたのかは分からないが、どうやら彼女も少しは剣術が達者なようである。
「いつでもいいわよ」
その声にユリトが頷き、颯爽と馬に跨るシノに手を貸してもらい、後ろへ跨る。
(接近戦に持ち込み、三人で叩く……今出来る戦術はこれしかない)
三人共剣が使えるのなら、その方がいいのかもしれない。
「急ごう。こうしてる内にも魔術騎士が犠牲になってるはずだ」
街に駐屯している魔術騎士なんて、たかが知れた強さだ。実戦経験が少ない兵士ばかりで、ヴァルハラ魔術学院出身の騎士はそういない。彼らは寄せ集めの、魔術がそこそこ使える傭兵でしかない。
手綱を思い切りよく引き、
「はッ!」
シノが高らかな声を上げた。同時に、馬が活気づいて超スピードで駆け出した。馬が地を蹴る轟音が辺りに連続し、蹄から土埃が撒き散らされ、二頭の馬は小道を、大草原を駆け抜けていく。
城塞都市アズガルドは、もう直ぐそこだ。高く上方に聳えたまさに煉瓦造りで組み上げられたかのような城壁は、壮大な円形型で全方位から街を覆っていた。然る事ながら上方部全体は雨ざらしとなっている構造だ。その、さながら要塞張りの大城壁の影が、段々近付いてくる。
後もう少しといった所で、ユリトは街に起きている異変に気付く事になった。
「煙だ!」
「あそこは……まさか王室じゃない!?」
「おいおい、マジでやべー雰囲気だな!」
視野のそれ以上先を遮り、こちらをそのでかさで圧迫する分厚い壁の、一枚向こう側。しかしそこよりさらに奥。アズガルドの王城がある街の中心――その真上から、黒煙が立ち上っていた。火事だろうか、赤い炎が混じっているのもここから視認出来る。
鉄壁の城塞とまで言われた都市部アズガルドを軽々と呑み干す闇の煙だけで、これが異常事態だと改めて身に染みさせるのには十分だった。ばかりか街から聞こえてくる人々の叫喚が三人の心臓にゆっくりと、だが確実に冷たく突き刺さりつつあった。ユリトは胸騒ぎを隠し切れず、心中で思いを巡らせる。
(まずい――!!)
ファッジとシノはそれぞれ焦燥を感じ、手綱を強引に手繰り寄せる。二人が操る馬はそのままの速度を保ってアズガルドの城郭へと猛突進せしめた。城門付近には通行許可証を確認するため常時魔術騎士が駐屯しているはずだが、見る限り人の姿がどこにも見えない。
南側の城門の入り口に到達すると、全長三○メートル・幅五メートルは優にあるであろう鉄橋がユリト達を待ち構えていた。橋先端の両側から鎖で吊り下げられ、城壁の外周に設けられた塹壕の上に堂々と架けられている。それは夜になると引き上げられて完全に塞がるという訳だ。
「突っ切っちゃっていいかしら?」
「俺が了承する! 急げ!」
鉄橋と言っても要の足場は木製で、金具やら外装部は鉄で補強してあると言った具合だ。
馬が木の板を踏み締める音と共に、街の光景が目に飛び込んでくる。ここから見える範囲では王城左側の塔――ランスのように尖った屋根の直ぐ真下の窓から煙が立ち込めていた。
「あそこはどういう部屋だ?」
「分かんねー! けど推測するに王女か、もしくは側近の部屋……、」
唖然しているせいなのかファッジの声が中途で切れ、同時に王城の全貌が見えてくる。煙が上がっているのは城の十分の一と言った所か、意外に被害が小さく吃驚する。
遠目で王城の方角を睨んでいたユリトは視線を戻してきて、城下街の市場を猛進している状況に集中する。
市街の人々は王室の異変に混乱しているのか、大半が呆然と城の方へ顔を向けているだけだった。行商人も早々に店仕舞いをしながら様子を伺っている。これは好都合だ。このまま騒ぎが大きくなればいずれ街から人影は消えるだろう。
一般市民に魔術の存在を知られてはいけないのが、魔術士の絶対無二の掟である。街での戦闘も覚悟していたが、どうやらその心配はしなくていいようだ。
「ユリトォ!!」
突然、柄にもないファッジの大声が横合いから飛んできて、生唾を呑んで前方へ向き直る。
「!!」
眼前、王城まで繋がった一直線の街路の向こうから、何者かが全速力でこちらに走って来ている光景を目の当たりにする。まるで王城から逃げて来ているような構図。ユリトはシノの肩越しから向かい来る男をまじまじと静観する。
(銀髪……!?)
咄嗟に、昨夜リリスが言っていた大神殿の件を思い出してくる。
『……目が覚めたら、銀髪の男が立っていたんじゃ』
ユリトは下唇を噛み、確信した。こいつがその男だと。次の瞬間、一も二もなく大声で叫んだ。
――はずだった。
それを刹那の差で遮る怒声が頭上で轟いたため、声を中断せざるを得なかった。
「――あいつがシルヴァンダークじゃ!!」
一瞬、自らの頭で回想していた少女の声だとばかり思ったが、ファッジの不審がる挙動でそれが違う事を示していた。
そして、つまりこれがどういう状況かをユリトは狼狽しながらも考える。
何故、頭上に浮かぶ少女はここにいる――――!? そのことを思い、また戸惑い、
『しかし人間と力を合わせなければ同じ種のシルヴァンダーク・ドラクロワを止めることは出来ません』
五番目の傑柱石であるミシェルの声が甦った。頭の中で上手く嵌まり込んでいなかった欠片が再び組み合わさっていく気がした。
あの時、ミシェルは何を言っていた!? それを瞬時に脳内で反響させ、答えを引っこ抜いてくる。そもそも考え違いをしていたらしい。答えは、上に佇んでいるではないか!!
「一人で勝手に無茶をしおって! わしがいなければ魔力を吸い取る以前に奴を倒すことは出来んと言うとるじゃろ!」
「リ、――――リリス!!」
漸く喉の奥でつっかえていた声を吐き出せた。リリスは……ユリトだけでシルヴァンダークを倒す事は不可能と既に見切っていたらしい。だから、心配して自分達を追って来た。
「案ずるな。これでもお主が考えている事は手に取る様に分かるんじゃぞ。それにお主言ったじゃろ……『俺が守ってやる。だから、泣くな』と」
「……!」
深く考えず口にした昨夜の言葉を引用してきたリリスは、得意気にこちらを見下ろして笑う。どうやら少女の精神は想像以上に強かったらしい。
ユリトはそれを見て、肩の荷がどこかへぶっ飛んだような感覚を覚えていた。まさに吹っ切れたとでも言わんばかりの表情を浮かべ、独りごちる。
(俺は無駄に心配してたってことかよっ)
再び自分を封印するような事はしない、という形にリリスの想いは収束していったのだろう。これでユリトも気兼ね無く戦えるという訳だ。
驚くことにここまでの確認から決断を僅か五秒でやって退け、一方、その間にも無意味に詰まっていたシルヴァンダークとの距離は、幸いにも未だ一○メートルはあった。
驀進する全身白銀の男・シルヴァンダークへ再度注視を浴びせてやる。リリスの封印を解いた張本人が、今、そうして、目の前に接近している。
すると、向こうも敵視を向けられていることに気付いたのか、怪訝な顔で睨んできた。いざ面と向かって対峙するとここまで恐怖の念が違うのか、と思うくらい体に激震が走り、
「だ、誰……ユリト君の知り合い?」
妙に緊張感の無いシノのズレた声が聞こえてきてそれを打ち破った。やはりリリスとのやり取りが気になるようで、
「おいどうなってるんだよー!?」
似たように、こちらに顔を少し向けてきたファッジが切羽詰まった様子で喚いた。
もはや魔王の存在を隠し通すのも限界が訪れたとさえ思えたが、この切迫感で充満した状況と折り重なった今なら凌げるはずだ。
「言ってなかったな、こいつは助っ人だ!」
二人はほぼ同時に目を見開いてユリトの顔を見詰め、少しの間沈黙が続いて……その後、何も言わずに頷いてくれた。その、たった数瞬。
シルヴァンダークはもう、釈然とした顔で、ギラついた猛禽類のような真っ赤な瞳をリリスに向けていた。
「まさかそちらから出向いてくれるとはな、リリス」
ほくそ笑む嫌らしい右唇が、上に向かって歪んでいる。
先陣を切らんとユリトは剣の柄に手を遣り身構えたが、それよりも一歩、シルヴァンダークの起こした行動の方が早かった。
しかし突如とした光景に理解が及ばない。奴の左腕が、いきなり伸びたように見えた。はっとなって気付いた時には、既にリリスはシルヴァンダークに抱き抱えられていた。
「――踏み砕いてやるよ、銀髪ー!!」
鼻にツンとくる獣の臭いが一瞬したかと思うと、向かい来るシルヴァンダークにファッジの馬が突進して、前足蹴りが見事に炸裂した。
――かのように見えたが、馬はシルヴァンダークの鼻先擦れ擦れの所で前足を浮かせたままかちかちに固まる。さながら透き通った氷のように、正しく琥珀状態になっていた。
その拍子にファッジは転げ落ち、直後、ユリトの乗った馬がシルヴァンダークと擦れ違う瞬間、
「私の邪魔をするな。目障りだ餓鬼」
左真横からそう吐き捨てられたかと思うと、間髪入れずに真下で何かが一線した。顔へ飛び散ってきた冷たい液体に背筋が凍る。
連動して、唐突にユリトの体がガクッと下に落ち、疾駆していた速度のせいでそのまま前のめりに倒れて蜻蛉返る。また、シノも受け身こそすれど殆ど彼と同じ状態に強いられた。
余りの青天の霹靂な様に呆気を取られ、転がる遠心力に逆らう事も出来ず、シルヴァンダークを背に三人は地面で平伏していた。
走り去る白銀のマントを視界の反転した目で追うも、地面で擦れた顔の痛さと目に入って来る土埃が邪魔をして無茶苦茶になる。
その、俄に倒れたユリトを踏ん付けて、さらに奥から桔梗色の髪をした女が走り去っていく。まるでシルヴァンダークに追従しているような慌てっぷり。
(クソ――っ! 仲間か――!?)
ユリトは起き上がろうとして、さらに頭を踏ん付けられてうつ伏せに倒れ込んだ。
「くっそ! 今度は何だってんだ一体……!」
さらにもう一人、蒼い修道服姿の金髪男が二人を追う形で颯爽と駆けていった。果たして奴の仲間かどうかは分からない。
「いてー……おいクラスリーダー、それにユリト大丈夫か?」
場が落ち着いてきて、どうしてもんどり打ったのかが分かった。ユリトの乗っていた馬の四肢が全て太股から切り落とされていたからだ。無惨にも打ち捨てられたそれは、血の海と化していた。
鼻と口を抑えて起き上がったシノが苦い顔で言う。
「なんだか騒々しいわねぇ……他に追ってる人もいるみたいだし」
「そうだな、ここはとにかく追おう。見失ったらまずい」
一旦引き返して作戦を立て直すなんてこと、リリスが攫われているのに出来るはずがない。奴の目的は魔王を手に入れて世界を蹂躙することかもしれない。何をしてくるのか、まるで予測がつかない。
足を失った三人は仕方なく自分の足で走って追い掛けることにした。
まだ辛うじて前方――修道服姿の男が見えている。市場を逆走し、息巻くユリト。
捨て置いた血だらけの馬のせいで、人々の恐怖たる喚きが街に響き渡っている。足元に転がる林檎を代表とした柑橘類がファッジの靴で砕け散った。酷い惨状、或いはこれを戦場と言ってもいい。それ程、常軌を逸している。
「見て! 右に曲がるわ!」
シノの言う通り市場がそこで切れた。曲がり角の先は一直線の街路と交差するその巨大さで第二街路とまで呼ばれるウルフ通り・四街区。
立ち尽くす街の人々を掻き分け、幾らか煉瓦敷きのを第二街路を忙しなく疾走すると、不意に視界に城壁が迫っていた。
「この先は行き止まりだぜー! あの野郎、絶対ぶん殴ってやる!」
憤慨するファッジの声を耳に留めつつユリトは修道服の男を追い続け――さらに城壁の手前の左方、細く入り組んだ路地に駆け込んだのを確認する。
「どこまで逃げる気だ。くっそ、想定外だよ全く」
心の中で今畜生、と叫んでユリトも路地へ進入し、薄暗い通路を追走する。周りの建物はほぼ市街の人家であるため、こんな所に入られたら色々厄介だ。
そして、少しも経たない内に直ぐ辺りが拓けた。街外れのちょっとした広場だろうかに出てくる。芝が生えている所から空き地のようにも見えるが。
「なんだここ……? それにあの金髪野郎もいねーぞー」
見て、とシノが指を指した方向で探していた全身蒼の……恐らく神父だろう男が隅にあった井戸の中へ飛び込んでしまう。それは異様な光景だった。井戸と言うのはそもそも水を汲むための施設であり、人間がそこへ入る事はほぼ無い、と言うか絶対無いだろう。
「は!? ちょ、嘘だろ!」
思わず苦く笑うファッジを押し退け、ユリトはどこか遠い目付きで渋面し、もう何だかよく分からない心境に噛んで吐き出すように言った。
「どうも行くしかないようだぞ、これは……ッ!」
古井戸の底に飛び降りてきた三人は、眼前の光景に唖然する。体を横にすれば大人一人通れるかくらいの狭い横穴と、頭上からこちらに向かって剣を突き立てんとする無数の鍾乳石。まるで小規模な洞窟だった。もっと言えば地面から天井までは約三メートル弱で、管状に前と後ろでかなり奥深くまで続いているように見えた。
また光を一切通さないのか真っ暗闇で視界が悪く、壁が近いせいで左右からの圧迫感に気分が悪い。ばかりか身震いしてしまうくらいのひんやりとした風が吹き抜けている。井戸の穴は元々地下水が溜まる帯水層まで掘削されているため、足元に水溜りがあったり天井から水滴が落ちてきたりと本来の名残はあるようだが、その所一体どうなっているのだろうか。
「井戸だよな、ここは……」
「でも地下水道って訳でも無さそうだぜー、見ろよこれ」
粗い土の壁を指したファッジは、その場にしゃがみ込んで言葉を続ける。
「地下水道なら壁は煉瓦敷きか……もしくは鉄のはず。それに隧道の形状ってのもおかしい。ま、何よりこんな規模の地下空洞があったんならそれこそオレ達も知ってるはずだろ。知らないって事はつまり――」
彼の言っている事は最もだった。そうなれば考えられる事は、
「――何かの抜け道ルートってところだな。あの銀髪が咄嗟の逃走に使ったって事は、事前にここを知ってた可能性が高いぜ」
「やけに冴えてるじゃないか、ファッジ」
うるせぇ、と頭を掻いてファッジが立ち上がる。彼の推察が正しいとしたら、明らかに誘い込まれている。敵の罠だ。
「立ち止まって模索してても何も始まらないわよ、どうするの?」
腰に両手をあてて屈み込んだシノがユリトの顔を見詰める。
「いやまぁ、行くけどさ。けっこう入り組んでるから足元気を付けてな」
渋々と言った顔で仕方なくユリトは前に出た。足音の響いている方角へ顔を向けると、斜め上から光が差し込んでいる一点を見つける。吹き込む風の向きも合わせて考慮すれば恐らくあれは出口だ。そこに行けば全て判然となるだろう。
「暗いなー、クラスリーダーお得意の発光魔術でもやってくれよー」
「……。しょうが無いわねぇ」
「俺からも頼むよ。暗くてよく見えない」
懇願し、まごつくユリトの視界が段々明るくなってきた。加えてゴツゴツした剥き出しの土の壁から複雑な陰影が作り出される。その光源はシノが突き出している杖からだ。
発光魔術は光を生み出すだけでなく光球を飛ばせば目眩ましの代用も出来るため、正直言って戦闘ではかなり重宝する。
そして頭上の円状部から滴り落ちてきた水の弾ける音と共に、ユリトは二人を引き連れて歩き出した。
とても出口があるような道とは思えないが、慎重に緊迫感を抱きつつ壁と壁の隙間を通り抜けていく。
「王城で火付けがあって、それに傑柱石の存在でしょ。もしかしてあの男……シルヴァンダークはそれを盗んできたんじゃない!?」
後方のシノの丁寧な解説に今更感が否めず、ユリトとファッジは肩を竦めた。
「リリスを助けてあわよくば奴も倒す。最悪傑柱石だけでも回収しないと事態の悪化は免れない、目先の問題はこんなとこか」
「なぁちょっと質問いいか? さっきの助っ人って言ってた女はウチの生徒なのかよ? 格好が変だったし、まさかとは思うが娼婦じゃねーよな……」
気の抜けたファッジの言葉にユリトは呆れて、
「ファッジ……娼婦が宙に浮いてたらびっくりすると思うぞ」
狭い洞窟の壁に手を遣って伝いながら、同時に額にも手を遣って煩悶する。
「ま、彼女は身分的にヴァルハラ魔術学院に入学出来なかった知り合いの魔術士だ」
身分、という言葉を出した瞬間からそれ以降何か聞いてはいけなかったような沈黙が続き……こちらまで動揺してしまう。まさかこれ程までに効果のある一言だとは思いもしなかった。
「そ、そうか。鈍感でごめんな、ユリト……」
「あ、ああ? いやまぁ気にするな」
そう言った直後、やや広めの空間に辿り着いた。ここから出口まで同じ幅で続いている。ユリトはこれを好都合だと思い、小走りになりつつ振り返った。
「よし、そろそろ滑面でも掛けないか?」
目下、洞窟のような場所に入り込んだため、もう周囲の目を気にしなくていい状況だ。そうとなれば、走るより魔術を使って移動速度を上げた方が良いに決まっている。
「そうだな。って、そういやなんでユリトは魔術使わねーの? 昨日の朝も特殊魔術苦手なオレに使わせるしさー」
怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでくるファッジに一瞬狼狽える。もう彼は勘づいているのかもしれない。ユリトは仕方なくリリスに魔力を吸い取られた事を吐露した。
「は、吸い取られた!? ちょっとまて、だからあん時その事について聞いてきたのか……!」
「ちょっとリリスは特別でな……入学出来なかったのが信じられないくらいなんだ」
苦い顔でファッジにそう伝えてから、サスペンダーやその他の乱れた部分を整え直してシノへ顔を向ける。
「分かったわ。それなら私が全員に掛けてあげる」
既にこちらを見ていたシノが頷くと、発光を出し続けていた眩い杖を並走するユリトとファッジに向け、力無く無軌道に横薙いだ。そして、流麗に呪文を唱える。彼女の黒髪が意味無くはためいたかと思うと、さらにこちらの足元が煌いた。
「滑面魔術!」
走っている最中、突如として足が数センチ宙に浮き始める。力を入れずとも自動で立ったまま床を滑ってくれる特殊魔術の一種だ。これで消費される魔力はシノの全魔力の内の、約一○○分の一と言った所か。
「それにしても吸い取られた、か」
門外不出の古い文献の中に魔力を吸い取る術があったのは覚えているファッジだが、それを現代で使う人間に会ったことは未だかつてない。ましてやあんなただの女の子にそれが使えたら大変な事だ。しかし、彼のように無断で第三書物庫へ侵入し、勝手に読み解きその"魔力を吸い取る術"を習得していたのかもしれないが、ヴァルハラ魔術学院の生徒ではない少女には無理な話だろう。
「何にせよまたユリトは問題を一人で抱え込んでるみたいだなー」
ファッジは力走して息を切らすこちらを後ろ背にちらっと見てきて、意味深な顔付きで口を滑らした。これは少し彼のほうが先導して走っているからであるが、何か、ユリトの顔を見ないよう配慮しているのかもしれない。
またシノも、ユリトが何かを隠している態度に気付いたのか、眉を寄せて覗き見る。そんな注視を浴びせられたユリトは言葉が出ず、口籠もる。
「……」
恐らく魔王の事を話す時はいずれくるだろう。それも、近いうちに。ユリトはその事を逡巡し、だが躊躇い、そして、数瞬置いてから口を開く。
「まだ答えられない……だから聞かないで欲しい。いつか話すその時まで待っていてくれないか」
「……はぁ。ったく毎回臭い言葉吐きやがって、やってらんねーぜ。なぁクラスリーダー」
ユリトはぐうの音も出なかった。けれど、二人を巻き込む訳にはいかない。だがその心配性と一人で抱え込む癖のせいで、リリスの思惑の時も行き違いになっている。言い換えれば仲間想いであると言えるだろう。
それから話を振られて顔を俯かせていたシノが、ファッジの言葉を継いでようやっと呟き始めた。
「ユリト君の悪い所でもあるし良い所でもある、のかな……? いっつも一人で戦って、結局生きて帰ってきてるんでしょう?」
二人共呆れ返ってはいたが、そんなユリトの決意は嫌いじゃないとでも言わんばかりの苦笑を浮かべ、本人へ視線を送り返した。
ユリトは彼ら二人に胸を打たれて泣きそうになったが、それを堪えて気持ちに応じる。
「ああ、そうだな……でも――」
どっと息を吐くように、その目覚ましい雰囲気をユリトはたった一言で打ち壊した。
「――何度も言うようだが俺は今、魔術が使えないんだ」
「あん? ……何だってそんなに何回も言うんだよユリトよー」
魔術が使えない。その台詞を二人の頭へ再び染み込ませる。魔術が使えないと言う事は、つまり剣術しか使えないと言う事だ。改め直って言われ、漸くファッジは事の重大さに気付いた。
「ちょっと待て、じゃぁなにか? 全体上昇も使えないし、何から何まで全部って事なのか!?」
「だからファッジ、お前の白虎モードは使えない。それを言っておく」
ユリトの得意技である全体上昇を掛けなければ、ファッジが得意とする白虎化は使えないのだ。その新事実に彼は愕然となり、打ち拉がれるかと思いきや――いつもと何ら変わりないけろっとした表情のままだった。
「別にいいんじゃないか? オレにはまだ雷の魔術とこの古式銃があるしよー」
ファッジはあらゆる事に優れている言わばオールマイティーの節が少なからずある。全て、心配ご無用と言う訳だ。
「……。ならいいんだ。皆俺が思っているよりずっと……本当に頼もしい」
言ってから『こっちには頼もしい仲間がいるぞ』と言った前の自分を憎らしく思う。またどこまでもお人好しで、心配してしまう己を殴ってやりたいとさえ思う。
ユリトはそんな自分に苦笑した。もうそんな事どうだっていい。ただこの守ると誓った信念に突き進むのみだ。
そしてから、光の一点目掛けて顔を上げ――ユリト達は満を持して洞窟から飛び出した。視界が一気に明るくなると共に訪れたのは、体の開放感と鼻を突き刺す青臭い匂い。目を開けるとそこは、深い樹海の中だった。奇っ怪な鳥の喚き声が耳障りで仕方ない。
「クソッ! なんてこった、やっぱり誘導されてたか! しかも最悪な事に"ここ"とはな……」
「この森、そういえばどっかで見たような……」
「ああユリト、見たことあるのも訳無いぜ。ここは来る途中で話してた熱帯雨林なんだからな」
他とは桁違いの濃緑色たる大樹海。街から北西に突き進んだ辺りにそれが広がっていたはずだ。ユリトは昼食時にそれを見ていたので覚えている。
「確かファッジ君も迷ったとか何とか言ってなかった?」
「一旦入ったらそう簡単には出られない。それこそ並の魔術士や探険家には攻略不可能の森だ。それで白金の値段が高騰するって寸法さ。だから危険なんだ、ここはよ」
ファッジは苦虫を噛み潰したような顔で深く濃い森を見渡した。樹木の上からぶら下がった大量の蔓が蔓延る光景と、足元一面をびっしり覆う深緑の苔の絨毯。まさに針の筵だ。
さらに巨木の根が地面から突き出ており、そのでかさを物語っている。優に人間三人分はあると言っていい。それらが行く手を阻むように点々と、しかしなんの法則性も無く無為に聳え立っている。
「一番この樹海に詳しいのはファッジだし案内役頼むぞ! 恐らくここで戦うことになる。そろそろ作戦を練ろう。題して奪還作戦だ!」
蒼い修道服姿の男の距離的に小さくなった背を頼りに、滑面を効かせたまま樹海を駆け抜けていく。高い樹木のせいで蛇行に追尾するその様は、まさにこれこそが魔術士の最たる姿だろう。
「オレの白虎化とユリトの全体上昇が初っ端から封じられているとなると、いつもの連携技は使えないなー。クラスリーダーは何か案あるか?」
「悪いけど私優等生って言っても実戦経験はほとんど無いのよ。だから作戦立てたことがないし、魔術も火系統か特殊魔術を少し程度しか使えないよ。この刀だって」
シノは溜め息を吐きながら自分の右腰に帯させていた長刀を指した。
「親から受け継いだただの骨董品だしね……」
「ハハ……」
ユリトは苦笑するしかなかった。ここに来て戦闘力の無さに溜め息が出る。
「とりあえず俺が前衛で斬り込む。二人は様子を見ながら後方から魔術なり古式銃なりで援護してくれればいい。ま、俺の持ってる剣は殆ど付け焼刃だけどな」
いくらミスティル家に拾われ、師匠に鍛え上げられたと言っても剣が鈍刀では話にならない。そう、今手に掛けている突剣のことだ。
以前の戦いで強敵と対峙した際に愛用していた業物を折られてしまったため、ユリトは鈍刀しか持ち合わせていないのである。早く良質のものを買えばいい話だが。
「出たとこ勝負みたいなもんか。それで、銀髪相手に自信は?」
「自信は――無い。だけど、秘策はある」
「……秘策?」
空を切るように木々を抜けていく最中、ファッジはこちらを見て聞き返した。
「さっきリリスは魔力を吸い取れる術を使えるって言っただろ? それを使うんだ。これこそまさに一発逆転の作戦だとは思わないか?」
「でもお前、彼女は攫われたんだぞ!? どうやって――」
それが愚問だ、と言わんばかりにユリトが彼の声を遮って答える。
「――奪い返すのさ。だから題して奪還作戦なんだ」
得意気に言った直後、ユリトの頭蓋の側頭部を物凄い速度の何かが通過した。早過ぎて反応出来なかったが、ファッジだけは咄嗟に気付いて驚愕の声を上げる。
「ッ――銃弾だ!! 皆伏せろっ!!」
いきなり頭を鷲掴みにされて強引に下へ抑えつけられたかと思うと、直ぐ真上を弾丸が通り過ぎた。遅れて甲高い銃声が辺りに響き渡る。あの高鳴りは心臓に悪過ぎる。
ゆっくり後ろを振り返ると、樹木の太い根に弾痕が刻まれていた。また木の破片が飛び散って悲惨な事になっている。元の形すら残っていないではないか。
「ちょ――おいおい銃とか反則臭くないか!? よっぽど魔術より危ないぞこれは!」
「しっ、静かに。何か聞こえない?」
隣で似たように樹木の根に隠れて身を屈めるシノが言い、
「え……?」
ユリトは前方に向き直る。修道服姿の金髪の頭上から何かが太陽に反射して、眩い光を灯している。見間違えはない。完全に、鋭利な刃物がギラついていた。怒涛の勢いで空気を切り裂き、中空を舞いながら弧を描くようにこちらへと投擲せしめた。
「行けファッジ!」
「ファッジ君!」
「えぇ!? なんでオレなんだよ!」
やおらファッジは左右の腰にそれぞれ帯剣していた二本の一メートルない剣を抜き放った。自然な動作で交差させ、その飛んできた大鎌を受け止めて前方へ弾き返す。
ビリビリと痺れる両手に苦痛の顔を浮かべながらも、やはりファッジがいち早く声を上げる。
「どうやらお偉いさんも重い腰を上げたようだぜー!」
苔の地に深々と突き刺さった大鎌を、向こうから現れた桔梗色の髪のスラっとした長身女が悠然と抜き取った。一瞥をくれてくる。
「ヴァルハラ魔術学院の二年生が三人、と言った所ですか」
やけに落ち着いた、冷徹な声だった。人殺しも仕事と割り切った感情の無い瞳を薄ら開け、ギロリと真横に滑らせる。
「シルヴァンダークの側近の女か!」
ユリトはその場でじりっと歩幅を開け、砂利を踏み締める。そして心中で舌打ちした。
(陣形とその展開作戦も何も考えれたものじゃないな。やっぱりファッジの言う通り出たとこ勝負だ!)
膠着状態の中、女の方が先手を取った。ゆらりと手中にある大鎌を軽く持ち上げる。華奢な体躯とは裏腹にかなりの腕力があるようで油断ならない。
「毒が滲み出る大鎌」
女は誰に言うでもなく独りごちて、その言葉に呼応したのか大鎌を抜き取った地面から紫の液体が沸騰していた。苔や草を容赦無く溶かしているそれは、紛れもなく沼気。つまり毒沼だ。
「うぇ、何だよあの鎌!」
ファッジの鼻を摘みながら言った呻きが聞こえていたのか、
「これがわたしの、魔術でして」
女は機械的に笑みを作って、問答無用だとでも言わんばかりに突如として地を蹴り出した。脱兎の如くこちらへ飛び込んでくる。
「ッチ、二人共行け!」
「あ? ファッジ!?」
「ここはオレがやる!」
その臭い台詞に思わずユリトは吹き出してしまう。
「……っ。おいファッジ。お前も臭い言葉吐いてるって事忘れるなよ! 後でしっかりご馳走してやるから、頼んだぞ」
「っへ、それだけあれば十分だ」
そんな一瞬のやり取りの後、二人はこちらに猛進してくる大鎌女と入れ替わるように抜き去った。一瞬だけ視線が交錯する。
「ユリトォ!」
その瞳に吸い寄せられ、少し気を取られて反応が遅れる。
「――あ、ああ?」
「眼鏡には気を付けろ!」
「……? どういう意味だ?」
ファッジは頭でシノの方を指すと、目付きを変えて女に向き直った。後ろで再び剣と鎌の激しいぶつかり合いが聞こえ始め、ユリトとシノは前方へ向き直って改めて睨み据えた。
(なんかよく分からんが、必ず戻ってこいよファッジ――!!)
結局ユリトには何も伝わっていなかったらしい。
それにしてもあの紫色の髪をした女性……以前どこかで見たことがあるような気がしてならない。けれど、あんな特異な魔術を使うなら覚えていてもいいはずだ。
(……まさかな)
有り得ない事を思い浮かべてそれを掻き消す。今は目の前のことに集中しよう。
「知り合いなの?」
心配気な顔でこちらを覗き込んでくる。そういえばシノは眼鏡を掛けている。ファッジの示した暗示はそのことについて気を付けろということなのか。
「いや、まぁそうだな。似てただけだよ、どっかの誰かにさ」
「……そう」
「ありがとな、シノ」
ユリトのやけに落ち込んだ声。
「――えっ、突然なに? ちょっと状況を考えてよねこんな所で」
そう返されてユリトは冷め切った声になり、
「悪い」
渋くたったそれだけを呟いた。
幾らか樹木を掻き分けて進んだ先に、今までの景色に見覚えのないものが現れ始めた。それは古びた柱。横倒しになっていたり傾いて立っていたりと、行く先々で壊れた遺跡のような姿を連想させる。
「流石未開拓地。古代遺跡があるとかって噂は本当っぽいな」
「そうみたいね」
「止まれ!」
左手を後ろへ回し、シノの滑面の勢いを殺す。
「あれは……」
五○メートル先の樹木が開けた広い空間で、シルヴァンダークは蒼の修道服姿の男と対峙していた。耳を澄ませば、小さいが声が聞こえてくる。
「何の用だ。確かデュランと言ったか」
こちらに気付くこともなく、修道服を着た金髪に向かって奴が叫んだ。