夫がおかしい。それとも、おかしいのは私?〜夫が私を監視しはじめました〜
昔はあんなに優しかった夫が、最近おかしい。
そう思い始めたのは、カレドへ越してきて半年ほど経った頃だった。
それまでの私は、本当に幸せだった。
夫の故郷であるカレドの街は、私が育ったリーヴェから馬車で七時間ほどの場所にある。大きな船が行き交うカレド港があり、私たちの家の窓からも、海と港へ出入りする船を眺めることができた。
初めてこの家へ来た日は、荷解きもそこそこに窓辺へ駆け寄った。
「すごい……海が見えます」
「そこに一番喜ぶんだ」
「だって、こんなに近くで見たことないんです。あの船も大きいですね」
「カレドでは珍しくないよ」
「沈まないんですか?」
「毎日ちゃんと浮いてるから大丈夫」
振り返ると、夫はおかしそうに笑っていた。
あの頃は、そんな何でもない会話だけで楽しかった。
夫とは、彼が仕事でリーヴェへ滞在していた時に出会った。どういうきっかけで最初に話したのかは、もうよく覚えていない。気づけば何度も顔を合わせるようになり、そのうち立ち話をするようになって、いつの間にか「明日もこの時間に」と会う約束までしていた。
彼は会うたびに、花を一輪くれた。豪華な花束ではなく、本当に一輪だけ。
「今日も?」
「嫌だった?」
「いいえ。嬉しいです」
そう答えると、彼はいつも嬉しそうに笑った。
リーヴェでの滞在が終わる最後の日も、いつものように一輪の花を渡された。ただ、その日だけは続きがあった。
「俺と結婚してほしい」
驚いて何も言えない私に、彼は少し緊張した顔で続けた。
「俺はカレドに住んでる。ここから馬車で七時間くらいかかるけど……できるなら、一緒に来てほしい」
その時になって初めて、彼が明日からいなくなることを実感した。毎日のように会っていた人に、もう会えなくなる。それが思っていた以上に寂しかった。
いつから好きになったのかなんて分からない。ただ、この人とこれからも会いたいと思った。
だから私は頷いた。
育ててくれた両親へすぐに報告すると、二人とも驚きながらも喜んでくれた。母は笑いながら泣き、父は夫になる人の仕事や家族のことを何度も確認していた。それでも最後には、二人とも少し寂しそうな顔をした。
「いつでも帰っておいで。ここはずっとあなたの家だから」
その言葉に胸がいっぱいになったけれど、私は新しい暮らしを楽しみにしていた。
そして実際、カレドへ来てからの半年間は幸せだった。
夫は変わらず優しく、知らない街に戸惑う私をいろんな場所へ連れていってくれた。時間がある日は一緒に市場へ出かけ、港沿いを歩いた。家には住み込みのお手伝いさんがいて、慣れない土地での暮らしを何かと助けてくれた。
夜になれば夫の腕の中で眠りながら、私は何度も思った。
ここへ来てよかった、と。
だからこそ、最初の違和感は本当に小さなものだった。
「今日は一人で出ないでくれ」
「え?」
「市場に行くなら、俺も一緒に行く」
「でも今日はお仕事でしょう?」
「少しくらいなら時間を作れる」
以前なら、私が一人で市場へ行くと言っても笑って見送ってくれていた。少し不思議には思ったけれど、その日は夫と一緒に出かけた。
ところが、それから同じことが何度も続いた。
私が外へ出ようとすると、夫は必ず行き先を聞くようになった。市場ならどの店へ行くのか、誰かに会う予定はあるのか、何時頃に帰るつもりなのか。それを答えても、一人で出ることを許してくれるわけではない。
「今日は布を見に行きたいんです」
「どこの店?」
「前に一緒に行ったところです」
「何時に?」
「お昼を食べたあとに」
「今日はやめてくれ」
「どうしてですか?」
「俺が行ける日にしよう」
夫の仕事が忙しい日は、そのまま外出を諦めるしかなかった。
最初のうちは心配性になっただけなのかと思っていたけれど、日が経つにつれて制限は増えていった。玄関へ向かえば声をかけられ、庭へ出るだけでもどこへ行くのか聞かれる。夫が家にいる時はまだしも、仕事で出かけている間まで自由ではなかった。
ある日、夫が出かけたあと、私も少しだけ外へ出ようとした。
「奥様、どちらへ?」
「少し散歩に行くだけです」
「お一人では困ります」
「すぐそこですよ」
「旦那様から、奥様から目を離さないようにと言われております」
思わず足が止まった。
「……目を離さないように?」
「はい」
「私が何をすると思ってるんですか?」
「それは、私には……」
お手伝いさんは明らかに困っていた。それ以上問い詰めても仕方がないと分かっていたけれど、胸の奥には嫌なものが残った。
それから意識してみると、本当にいつも誰かの視線があった。
庭へ出ればお手伝いさんも近くへ来る。別の部屋へ移れば、しばらくすると様子を見に来る。私が何をしていたのか夫へ報告しているのではないかと考えるようになるまで、そう時間はかからなかった。
「どうして私を見張らせてるんですか?」
その夜、夫へ尋ねてみた。
「見張ってるわけじゃない」
「じゃあ、どうして目を離さないように言うんです?」
「必要だからだ」
「何に必要なんですか?」
「……」
また、それだった。
理由は話さない。でも、私の行動だけは制限する。
それまで何でも話してくれていた夫が、最近は何を尋ねても肝心なところだけ答えなくなっていた。
さらに気になることが増えた。
夫は夜になると、小さなノートへ何かを書き込むようになった。日付を書き、その下に何行か続けている。最初は仕事の記録だと思っていたけれど、私が近づくと閉じてしまうことが何度もあった。
ある夜、後ろから覗き込もうとした瞬間、夫がぱたんとノートを閉じた。
「何を書いてるんですか?」
「ちょっとした記録だよ」
「仕事の?」
「そんなところ」
「見せてもらってもいいですか?」
「駄目だ」
思わず夫の顔を見る。
冗談を言っている様子ではなかった。
夫がおかしくなってから、まだ一か月も経っていなかった。それなのに、その短い間で、私は外へ自由に出られなくなり、家にいても誰かに見られ、夫が何をしているのかさえ教えてもらえなくなっていた。
ある日の午後、家の窓から港を眺めていると、玄関先に見知らぬ男が立っているのが見えた。
夫が外へ出ていき、男から小さな封筒を受け取る。何か短く話したあと、今度は夫が男へ何かを渡した。男はすぐに立ち去り、夫は何事もなかったように家へ戻ってきた。
「さっきの方、お仕事のお知り合いですか?」
何気ないふりをして聞くと、夫の動きが一瞬だけ止まった。
「……まあね」
「何のお仕事の方ですか?」
「君が気にすることじゃない」
私は黙るしかなかった。
以前なら、今日は誰と会ったとか、仕事で何があったとか、そんな何でもないことまで話してくれていたのに。
それでも夜になれば、夫は変わらず私を抱きしめて眠った。むしろ以前より強くなったくらいで、背中へ回された腕は簡単にはほどけない。
昼間は私がどこへ行くのか、誰と会うのかまで気にするくせに、夜になれば離したくないように抱き込まれる。
嫌われたのなら、まだ分かりやすかった。でも、そうではないらしい。
だから余計に分からなかった。
(何があなたをそうしたの?)
聞きたいのに、聞いても答えてもらえない。その繰り返しが、少しずつ怖くなっていた。
そんなある日、夫と一緒に市場へ出かけた。
最近、一人ではどこにも行けないせいで、夫と一緒に出かけることすら以前のようには楽しめなくなっていた。
いつもの店で買い物を済ませ、帰ろうとしていた時だった。
すれ違った男が突然足を止め、私を見るなり目を見開いた。
「……お前」
知らない人だった。
立ち止まった私を見て、男の顔がみるみる険しくなる。
「よく平気な顔で歩けるな」
「え?」
男がこちらへ一歩踏み出した瞬間、夫が私の腕を強く掴んで後ろへ引いた。
「行くぞ」
「でも、この人が……」
「いいから来い」
いつもより強い声だった。
「待てよ!」
男が追いかけようとすると、夫が振り返った。
「それ以上近づくな」
低い声に、男の足が止まる。
夫は何かを小声で告げた。何を言ったのか、私には聞こえなかった。
男は一瞬驚いた顔をしたあと、悔しそうに私を睨んだものの、それ以上は近づいてこなかった。
帰り道、夫はいつもより早足だった。私はその隣を歩きながら、何度も横顔を見た。
「さっきの人、私のことを知ってました」
「もう忘れろ」
「どうしてですか?」
「いいから」
それ以上、何を聞いても答えてくれなかった。
そのことが、頭から離れなかった。
もちろん、あの男に会った覚えはない。
でも、本当にそうなのだろうか。
自分では覚えていないだけで、どこかに記憶の抜け落ちた部分があるのではないか。
そう考えてしまったのは、夫のせいでもあった。
もし本当に人違いなら、どうしてそう言ってくれないのだろう。
どうして私に何も聞かず、何も説明せず、ただ黙って家へ連れ帰ったのだろう。
数日後には、街で知らない女性からじっと顔を見られた。女性は何か言いたそうに立ち止まったものの、私の隣にいる夫を見ると、そのまま何も言わずに去っていった。
それだけだった。
それなのに、また胸がざわつく。
私の方がおかしいのかもしれない。
そう思い始めると、これまでのすべてが違う意味に見えてきた。
夫が一人で外へ出さないのは、私が何をするか分からないから?
お手伝いさんに目を離さないよう言っているのも、私を見張るため?
あのノートには、毎日私が何をしたのか書かれている?
あの知らない男たちと会っているのも、私のことを調べるためなのではないか。
考えれば考えるほど、怖くなった。
そして一番怖かったのは、自分でも自分を信じられなくなってきたことだった。
「お医者様に診てもらおうと思います」
ある朝、意を決してそう言うと、夫が顔を上げた。
「どうして?」
「私、記憶がおかしいのかもしれません」
「医者に行く必要はない」
「どうしてですか?」
「必要ないからだ」
「でも、知らない人から声をかけられるし。この前だって、知らない女の人にずっと見られてました」
「気のせいだ」
「どうしてそんなことが分かるんですか?」
「とにかく行くな」
強い口調だった。
その言葉に、今まで我慢していたものが一気に込み上げた。
「でも私は怖いんです!」
思わず声が大きくなる。
「私が忘れてるだけかもしれないでしょう? 本当に何かしてるのかもしれない。だからちゃんと診てもらいたいんです」
「駄目だ」
「どうして!?」
夫は何かを言いかけたものの、結局口を閉じた。
また何も教えてくれない。
その態度に、胸の奥が冷えていく。
「外へ出る時はどこへ行くのか聞かれて、一人では駄目って言われて、家にいてもお手伝いさんに見張られてる。私が何をしたか毎日ノートに書いてるんでしょう?」
「……」
「知らない人とはこそこそ会うのに、私には何も教えてくれない。私、何か悪いことしました?」
「違う」
「じゃあどうして!」
夫は何も答えない。
その沈黙が苦しくて、胸の奥が締めつけられるようだった。
「昔はあんなに優しかったのに……」
口にした途端、涙がこぼれそうになった。夫の表情がわずかに揺れたけれど、それでも結局、何も教えてはくれなかった。
その夜も、私たちは同じベッドに入った。私は夫に背を向けたまま横になっていたけれど、しばらくすると、いつものように後ろから腕が回ってくる。
「……離してください」
腕は緩まなかった。
「昼間はあんななのに、どうして夜はこうなんですか」
返事はない。
「私のこと、嫌いになったんじゃないんですか?」
「なるわけないだろ」
迷いのない答えだった。
それなら、なおさら分からない。
私を疑っているように見張り、自由に外へ出ることも許さない。それなのに、夜になれば以前より強く抱きしめて、嫌いになるわけがないと言う。
「じゃあ、どうして……」
夫の腕の中で答えを待ったけれど、やっぱり、その先は教えてくれなかった。
翌朝、夫はいつもより早く家を出た。
窓辺に立つと、港へ向かって歩いていく姿が見える。最近、夫は船が入港する日に港へ行くことが増えていた。
最初は仕事の関係だと思っていたし、そのうち、もしかして船を見るのが好きなのかとも思った。けれど少し前、窓から何気なく様子を見ていて気づいた。
夫は船そのものを見ているわけではない。船から降りてくる人たちを、一人ずつ確かめるように見ていた。
誰かを探している。
そう思った瞬間、胸の奥に嫌なものが広がった。
(誰を待ってるの?)
もしかして、女の人なのだろうか。だから最近、私に何も話してくれないの?
そんなことまで考えてしまう自分が嫌だった。
けれど、その日はどうしても家にいる気になれなかった。ほんの少しでいい。誰にもついてこられず、自分の好きなところへ行きたい。
お手伝いさんが別の仕事をしている隙に、私はこっそり家を出た。
自由になったはずなのに、気づけば足はカレド港へ向かっていた。
ちょうど大きな船が入ってきたところで、港はいつも以上に人が多かった。その中を歩いていると、少し離れた場所に夫の姿を見つける。
声をかけようとして、やめた。
夫は真剣な顔で、船から降りてくる人たちを見ていた。そして、あるところでぴたりと視線を止めた。
私もつられるように、その先を見る。
一人の女性が、船から降りてきた。
その顔を見た瞬間、息が止まった。
髪型も服装も違う。それなのに、その顔立ちはまるで鏡を見ているようだった。
「……え?」
思わず声が漏れる。
女性もこちらに気づいたらしい。私を見るなり、同じように目を見開いた。
その直後だった。
「おまえー!」
少し離れたところから怒鳴り声が響いた。
振り向くと、一人の男がこちらへ走ってくる。見覚えがあった。少し前、市場で私を見て声をかけてきた男だった。
男の姿を見た途端、女性の顔色が変わった。慌てて周囲を見回したあと、私を見る。
そして、女性の口元に笑みが浮かんだ。
嫌な予感がした。
女性が私を指差す。
「その女よ! 私じゃないわ。全部その女がやったの!」
「え……?」
何を言われているのか分からないまま、男の視線が私へ向く。
その瞬間、夫が走ってきて私を背中へ庇った。
「無駄だ」
いつもよりずっと冷たい声だった。
女性の笑みが消える。
「何よ」
「あんたのことは調べてある」
夫の後ろから、以前家の前で封筒を渡していた男が現れた。
調査屋だったらしい。
「カレドと別の街で、男から金品を巻き上げたあと姿を消していることも確認しています」
女性が顔を引きつらせた。
「知らないわ」
夫は懐から、あのノートを取り出した。
「それから、妻がやったんじゃないことも証明できる。この一か月、妻がどこにいたか記録してある。俺が一緒だった時間も、家にいた時間も、使用人がそばにいた時間も全部だ。被害が起きた日時と照らし合わせれば、妻にはアリバイがある」
頭の中が真っ白になった。
「……ノート」
私を監視するためだと思っていた。
夫はようやく私を見た。
「最初に妙な噂を聞いてから記録してた」
「噂……?」
「君と同じ顔の女が、男から金を取って姿を消したって話だ」
「そんなことしてません」
「知ってる」
即答だった。
「最初から、君じゃないと思ってた」
その一言だけで、膝から力が抜けそうになった。
夫は私を疑っていたんじゃない。
「だから調べた。それで、あの女のことも分かった」
私はもう一度、目の前の女性を見る。
同じ顔。
本当に、同じだった。
「その人は……誰なんですか」
夫が少しだけ言葉を詰まらせた。
「あの女は、君の双子の姉だ」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
「……姉?」
それ以上聞く間もなかった。
「お前のせいで!」
男が突然飛び出した。
その手に何か光るものが見えた瞬間、夫に強く引かれ、私はその胸にぶつかった。
直後、悲鳴が上がる。
振り返ると、女性が顔を押さえてうずくまっていた。指の間から血が流れている。
「離せ! こいつに全部奪われたんだ!」
すぐに調査屋と近くにいた人たちが男を取り押さえ、騒ぎを聞きつけた港の警備も駆けつけた。
女性も、その男も連れていかれた。
私はしばらく何も言えないまま、その場に立ち尽くしていた。
双子の姉。
あの女が?
私と同じ顔をした、あの女が?
何一つ頭の中で整理できないまま、夫に連れられて家へ戻った。
家へ着くと、私は夫と向かい合った。
聞きたいことは山ほどあった。
「……ちゃんと説明してください」
夫はしばらく黙っていたけれど、やがてゆっくり頷いた。
「分かった」
夫が調査屋を通じて調べたところ、私はカレドで生まれ、三歳頃までこの街の教会にいたらしい。生家には双子を忌む考えがあり、後から生まれた私だけが教会へ預けられ、その後リーヴェの両親に引き取られていた。
「あの女も、最近まで君の存在を知らなかったらしい。母親の遺品で双子の妹がいたことを知ったみたいだ」
「じゃあ、私を探して……?」
「いや。カレドで偶然君を見かけたらしい」
自分と同じ顔の妹を偶然見つけ、何かあれば利用できると思った。それだけだったらしい。
あまりにも身勝手な話だ。
私はしばらく何も言えなかった。
後で聞いた話では、あの女の顔には大きな傷が残ったらしい。
同じ顔で生まれた私たちは、もう二度と見間違えられることはない。
それを喜んでいいのかは、今でも分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
私の記憶は、おかしくなかった。
知らない男に声をかけられたことも、知らない人に妙な目で見られたことも、全部私が何かを忘れていたせいではなかった。
そして、あれほど怖かった夫の行動にも、全部理由があった。
「……言ってくれたらよかったのに」
夫は黙ったまま、私を見る。
「私、本当に怖かったんですよ」
「ごめん」
「自分がおかしくなったのかと思って、お医者様に行きたいって言ったのに」
「……うん」
「『必要ない』って言って、外にも出してくれないし、お手伝いさんにはずっと私を見てるように言うし、どこにいたかノートに書くし、知らない人とこそこそ会ってるし」
「調査屋だったんだ」
「今は知ってます!」
思わず声を上げると、夫が少しだけ肩を落とした。
「最初は確証がなかった」
静かな声だった。
「君と同じ顔の女がいるかもしれないって分かっても、本当にそうなのか分からなかった。それに調べていくうちに、君が実の親から教会へ預けられたことまで分かった。そんな話を、半端な状態で君に言えなかった」
「だからって、何も言わなくていい理由にはなりません」
「分かってる」
夫が私の前へ膝をついた。
「やり方を間違えた」
その声には、今までの強さがなかった。
「君があの女と間違えられてるって分かってから、怖くなったんだ。もし恨んでる相手に何かされたらって思ったら、一人で外へ出せなくなった」
だから夫は必ず一緒に出かけ、家にいる時もお手伝いさんに私から目を離さないよう頼んでいた。
ノートには私の行動を残し、何かあった時に、私がそこにいなかったと証明できるようにしていたのだ。
「港へ行ってたのも?」
「あの女が船で別の街とカレドを行き来してることが分かったから。戻ってくるなら船だと思って、入ってくる人を見てた」
「……船が好きなのかと思ってました」
夫が一瞬、きょとんとする。
「俺が?」
「その次は、誰か女の人を待ってるのかと」
今度は本当に驚いた顔をした。
「なんでそうなるんだ」
「船から降りる人ばっかり見てたからです!」
「あの女を探してたんだよ」
「私は知りませんでした!」
しばらく黙ったあと、夫が小さく笑った。
その笑顔を見たのは久しぶりだった。
それだけで、張りつめていた胸の奥が少し軽くなる。
でも、まだ一つ聞きたいことがあった。
「……夜は」
「夜?」
言ってから急に恥ずかしくなり、目を逸らした。
「なんでもないです」
「最近、前より強く抱いて寝てたこと?」
顔が熱くなる。
「自分から言わないでください」
夫は少し困ったように笑った。
「それは……君がここにいるって確認したかっただけ」
「確認?」
「昼間ずっと、何かあったらどうしようって考えてたから。夜くらいは、ちゃんと無事でここにいるって思いたかった」
ずるい。
散々怖い思いをさせておいて、最後にそんなことを言うなんて。
「次からは、ちゃんと話してください」
「分かった」
「守ってくれるのは嬉しいです。でも、何も知らされずに自由をなくすのは嫌です」
「もうしない」
「本当に?」
「本当に」
私は少し迷ってから、夫の肩へ額を預けた。
結局、嫌いにはなれなかった。むしろ好きだったからこそ、この一か月が苦しかったのだと思う。
その後、リーヴェの育ての両親へ手紙を書いた。
自分がカレドで生まれたこと。双子の姉がいたこと。そして、その姉が起こした騒ぎに巻き込まれたこと。
返事は思っていたより早く届いた。
母の字で、突然そんなことを知ってどれほど驚いただろう、怖い思いをしただろうと、私を気遣う言葉が何度も綴られていた。
三歳の私を家族として迎え、ここまで育ててくれた。
私にとって父と母は、あの二人だけだった。
手紙の最後には、昔と同じ言葉が書かれていた。
――いつでも帰っておいで。ここはずっとあなたの家だから。
読み終えたところで、夫が仕事から帰ってきた。
その手には、小さな花が一輪あった。
「どうぞ」
懐かしくて、思わず笑った。
「久しぶりですね」
「たまにはいいかと思って」
花を受け取る。
この人と最初にどうやって知り合ったのかは、今でもよく覚えていない。ただ、いつの間にか顔を合わせるようになり、いつの間にか話をするようになって、気づけば「明日もこの時間に」と会う約束をしていた。
そして、いつからか毎日のようにこの人から一輪の花を受け取るようになっていた。
好きになった瞬間なんて、分からなくてもいいのかもしれない。
「イレーナ」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「今度の休み、船に乗らないか?」
私は少し驚いて夫を見る。
窓の向こうには、今日も大きな船がゆっくりと港へ入ってきていた。
「……いいですね」
今度は疑うことなく、笑って頷いた。
イレーナさんの昔のお話でした




