第6話 届かない星の紋章
スパーダによる『エトワール・メモリア』への本格的な経営指導が始まった。
昼下がりの薄暗い控室。アリシアの小さな執務机には、これまでの巡業でつけられた分厚い帳簿が山積みにされている。その前に座ったスパーダは、常人離れした速度でページをめくり、羽ペンを走らせていた。
「計算ミス、記帳漏れ、経費の二重計上。……呆れて言葉も出ないな。子供の小遣い帳の方がまだマシだ」
スパーダの容赦のない冷たい声が響くたび、隣で立って見ているアリシアはビクッと肩を跳ねさせ、小さくなっていく。
「す、すみません……。父が亡くなってから、見よう見まねでつけていたので……」
「見よう見まねでサーカス団が運営できるなら、国庫管理局の存在意義はない」
ぴしゃりと切り捨てながらも、スパーダの目は紙面の数字を鋭く追っていた。
(……確かに杜撰の極みだ。無駄遣いと赤字の山。だが……)
スパーダの視線は、ただの査察官としてのそれとは違う、別の思惑を帯びていた。彼は数字の裏側に潜む「不自然な金の流れ」を探していたのだ。もし犯罪に加担しているならば、必ずどこかに裏金や、出所の分からない不透明な資金の動きがあるはずだ。
しかし、アリシアのつけた帳簿は、あまりにも馬鹿正直だった。その日売れたチケットの枚数、近隣の農家から買った野菜の代金、魔獣の餌代、機材の修理費。どれも生活感に溢れ、裏の資金どころか、小銭のやり繰りに四苦八苦する涙ぐましい痕跡しかない。
(これほど透明で、隙だらけの帳簿があるのか。偽装だとしたら完璧すぎる……いや、ただ単に無学なだけか)
スパーダは小さくため息をつき、手元の紙に正しい計算結果と、今後の予算配分の計画を完璧に書き上げてアリシアに突きつけた。
「当面の資金繰りはこれで回すんだ。王都公演までの予算だ。一単位たりとも間違えないいように」
「は、はい! ありがとうございます!」
アリシアがパッと顔を輝かせるのを見届けず、スパーダは立ち上がった。
「次は舞台装置の点検だ。ついてこい」
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誰もいない昼の巨大テント内。静寂に包まれた空間で、スパーダは舞台裏の滑車やロープの配置を厳しい目で点検していた。
「高所の命綱の強度が落ちている。滑車の噛み合わせも悪い。こんな非効率な配置で、よく今までやってこれたな」
口を開けば小言ばかりのスパーダに、遠巻きに見ていた団員たちは渋い顔をしている。
「なんだいあの役人。口うるさい姑みたいだね」と、料理長のマグダが腕を組んで鼻を鳴らす。
「俺たちが毎日点検してるんだ、問題ねえよ!」と、ケンタウロスのバルガスも不満げに蹄を鳴らした。
しかし、スパーダは彼らの反発など意に介さず、外套を脱ぎ捨ててシャツの袖を捲り上げた。
「どけ。俺がやる」
彼は足場を軽々と蹴り上げ、あっという間に高所のプラットフォームへとよじ登った。その身のこなしは、ただの文官とは思えないほど洗練され、無駄がない。
スパーダは腰の工具袋からレンチを取り出すと、素人離れした恐るべき手際で古い滑車のネジを外し、新しい部品へと交換していく。ロープの張り具合を調整し、油を差す動作は流れるようにスムーズで、熟練の職人すら凌駕する正確さだった。
「な……なんだあいつ。やけに手際がいいぞ」
バルガスが呆気にとられたように呟く。
その時、舞台の隅からコトコトと石を打ち鳴らす音が聞こえてきた。テントの設営や撤収を担う、膝丈ほどのちびゴーレム集団だ。
普段は自分たちで力仕事を行う彼らだが、リーダー格である特別な魔石を埋め込まれたAゴレが、スパーダの作業をじっと見つめていた。その無駄のない動きと、的確な力仕事のセンスに、ゴーレムたちはすっかり魅了されてしまったらしい。
Aゴレがトコトコとスパーダの真下まで歩み寄ると、自分の頭上にある工具箱から適切なサイズのスパナを取り出し、両手で頭上に掲げた。
「……ん?」
スパーダが視線を下ろすと、無表情な石の顔をしたAゴレが、まるで忠実な助手のように工具を差し出している。
「……気が利くじゃないか」
スパーダがそれを受け取ると、他のゴーレムたちもわらわらと集まってきた。ロープの端を押さえる者、予備のネジを渡す者。言葉を一切交わさないにもかかわらず、スパーダとちびゴーレムたちは息の合った完璧な連携を見せ始めた。
「国から来た嫌な奴」として反発していた団員たちも、その奇妙な共闘と、あっという間に整備されていく舞台装置を前に、ただただ圧倒されるしかなかった。
+++
夕方。すべての機材の再整備を終えたスパーダは、額の汗を手の甲で拭いながらテントの裏手へと降りてきた。
完璧に調整された滑車と、新しく張り直された強靭な命綱。アリシアは頭上のプラットフォームを見上げ、その仕上がりの美しさに感嘆のため息を漏らした。
「すごい……スパーダさん。これなら、どんな大技でも安心して飛べます」
「安全管理は経営の基本だ。役人の俺に言われる前にやっておくように」
相変わらず冷たい言葉を返すスパーダだったが、その呼吸はわずかに弾み、やり遂げた後の充実感が微かに漂っていた。
「ちょっとアンタ、なかなかいい腕してるじゃないの」
不意に、オネエ言葉と共に甘い香りが漂ってきた。スライムのメイクアップアーティスト、シルヴィだ。彼は半透明のラベンダー色に輝く人型の艶やかな姿を揺らし、マゼンタの瞳でウインクしながらスパーダの前に進み出た。
「口は悪いけど、仕事は完璧。それに、汗を流すその横顔……アタシの美意識センサーにビンビン来るわ。気に入ったわよ、査察官のお兄さん」
シルヴィはそう言って、背手に隠し持っていた布の束をスパーダの胸に押し付けた。
「なんだ、これは」
「アタシ特製の、裏方用の作業着よ。アンタの分も仕立ててあげたの。ほら、胸のところを見てごらんなさい」
スパーダが布を広げると、そこには丁寧に刺繍された『エトワール・メモリア』の星の紋章が輝いていた。生地は丈夫で動きやすく、スパーダの体格にぴったり合うように仕立てられている。
団員として、家族として迎えるというシルヴィなりの不器用な歓迎の印だった。アリシアも「わあ、シルヴィが徹夜で作ってたんですよ! ぜひ着てください!」と期待に満ちた目を向ける。
だが、スパーダの表情はスッと冷たく引き締まった。
「……受け取れないな」
スパーダは作業着をシルヴィの腕に無造作に突き返した。
「俺は王立国庫管理局から派遣された査察官だ。お前たちを監視し、税を取り立てるのが仕事であって、馴れ合うつもりはない。それに査察対象からこのような物を受け取るわけにはいかない」
冷たく、明確に引かれた一線。
その言葉に、アリシアの顔からスッと笑顔が消えた。
「そ、そうですよね……。ごめんなさい、出過ぎた真似をしました」
アリシアは俯き、キュッと唇を噛み締めた。昼間の優しい腕の温もりや、完璧なサポートをしてくれたことで、少しだけ心の距離が縮まったと勘違いしていたのだ。彼にとっては、あくまで「仕事」でしかないという現実を突きつけられ、胸の奥がチクリと痛んだ。
スパーダは一瞬だけアリシアの傷ついた表情に視線を向けたが、何も言わずに背を向け、足早にその場を立ち去っていった。
「はぁーあ。可愛いげのない男ね。せっかくアタシが丹精込めて縫ってあげたのに」
残されたシルヴィは、突き返された作業着を抱えながら大げさにため息をついた。そして、隣でしょんぼりと肩を落としているアリシアをジロリと睨んだ。
「ちょっとアリシア、アンタいつまで落ち込んでんのよ。こっちにいらっしゃい!」
シルヴィは強引にアリシアの腕を引き、テント脇の仮設メイク室へと連れ込んだ。そして彼女を鏡の前に座らせると、パフやブラシを素早く構えた。
「えっ、シルヴィ? どうしたの急に」
「アンタのその情けない顔、アタシの最高傑作として許せないのよ! とびきりキラキラにしてあげるから、じっとしてなさい!」
シルヴィの鮮やかな手つきで、アリシアの頬にほんのりと赤いチークが乗せられ、目元には星屑のように輝くラメの粉が散りばめられていく。
「あのねぇ、アリシア。いくら相手がお堅い役人だからって、ちょっと突き放されたくらいでそんな顔しないの」
シルヴィは鏡越しにアリシアの目を見つめ、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「アンタ、あの冷血査察官に、完全に『恋する乙女』の顔になってるわよ!」
「えっ!?」
アリシアの顔が、メイクの赤みを超えて一気に熱を持った。
「ち、違うよ! 私はただ、サーカスを助けてくれるから感謝してるだけで……!」
「はいはい、そういうことにしておくわ。でもね、あんなに頑なな男ほど、一度落ちたら激しいのよ。アタシの目に狂いはないわよ」
シルヴィは最後の仕上げにリップを塗りながら、楽しそうにウィンクをした。
鏡の中に映る自分は、普段の団長としての顔とは違う、戸惑いと熱を帯びた見慣れない少女の顔をしていた。スパーダに線を引かれた寂しさと、彼への止められない感情。
アリシアは熱くなった両頬を両手で押さえながら、鏡から目を逸らすことしかできなかった。




