第1話 開演前の期待感と揺らぐ炎
鉱山街ルベルの冷たい夜風の中、巨大なテントがそびえ立っていた。魔法国家エルディス王国を巡業する移動サーカス団『エトワール・メモリア』。周囲には光る魔石のランプが淡い光を放ち、キラキラとした魔法の粉が夜空を彩っている。夢と至高のエンターテインメントを提供する、優美でロマンチックな空間だ。
開演を間近に控え、テントの周りには少しずつ客が集まり始めていた。
「ほらほら、もたもたするな! きらびやかな夢の世界への入り口はここだぞ。チケットをしっかり握って、その眼に奇跡のショーを焼きつけるんだ!」
入り口に鎮座する命を持った石像、ガーゴイルのゲオルグが、観客に向かってぼやきながら器用にチケットをもぎっている。口は悪いが、どこか憎めない愛嬌のある毒舌に、客たちはクスッと笑いながら列を進めていく。
その横では、ライトグリーンの髪を揺らす小柄な広報係のエルフ、ラットリアが持ち前の明るい声で物販の宣伝をしていた。
「さあさあ、エトワール・メモリア特製の光るペンダントはいかが? これをつければ、あなたも今夜のショーの立派な一員よ!」
わらわらと動き回る膝丈ほどのちびゴーレムたちが、機材の最終チェックをコトコトと音を立てながらこなしている。
賑やかな開演前の風景。だが、その光景を少し離れた物陰から見つめる男の瞳には、一切の熱がなかった。
外套に身を包んだその謎の男は、周囲の熱気から切り離されたように冷え切った鋭い眼光を放っている。彼はテントの裏手で慌ただしく動く団員たちや、機材を積んだ荷馬車の配置を、まるで獲物を品定めするかのように観察していた。
「……これがサーカス団の仕事ってやつか」
男は誰に聞こえるでもなく低く呟くと、外套の襟を立てて、これから始まるショーの客席へとゆっくり歩を進めた。
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一方、テントの裏手にある薄暗い控室では、若き団長アリシアが大きなため息をついていた。
「ああ……今月の資金繰り、どうしよう……。このままじゃ……」
手元にある使い込まれた帳簿の数字は、何度計算し直しても絶望的だった。偉大だった父、グロリアントが事故で急逝してから半年。アリシアは持ち前の純粋で愛情深い性格で、個性豊かな団員たちをまとめてきた。花形スターの空中ブランコ乗りとしては誰をも魅了する一流の腕を持っていても、経営の才能となると話は別だった。
資金繰りや営業活動に不慣れな彼女にとって、莫大な「興行税」の滞納は、細い肩を押し潰すほど重くのしかかっている。この先にある「王都での大公演」を成功させ、利益を出して全額返済できなければ、サーカス団は解散。大切なテントも、一緒に暮らす魔獣たちもすべて差し押さえられてしまうのだ。
「アリシア団長、少しお時間よろしいですか?」
ふいに背後から声をかけられ、アリシアはビクッと肩を震わせて帳簿を隠した。振り返ると、こげ茶色の髪を整え、人当たりの良い柔和な笑顔を浮かべた新聞記者、ダンビローグが立っていた。彼は密着取材と称して同行している外部の人間だが、熱心に記事を書いて客を呼んでくれるため、アリシアにとっては頼れる恩人のように思えていた。
「ダンビローグさん! はい、大丈夫です」
「今日のルベルでの初公演、意気込みはどうですか? お父様が亡くなられてから、あなたが団長としてこの個性豊かな団員たちを引っ張ってきたわけですが」
「父が残した、父が愛したこのサーカスを、私は何よりも大切にしたいんです。観客の皆様の心に一生残る、一夜の輝きを届けるために、今日は最高の空中ブランコをお見せします」
アリシアはハニーブロンドの髪を揺らし、スカイブルーの真っ直ぐな瞳で答えた。ダンビローグは満足そうにうなずき、手帳にペンを走らせる。
「素晴らしい意気込みだ。良い記事になりますよ。ああ、ところで次の街へのルートや、機材を積んだ荷馬車の配置はいつも通りですか? 記事の裏付けとして、少し細かく確認しておきたくてね」
「はい! ルートも配置もいつも通りです。こんなに熱心に記事を書いてくださって、本当にありがとうございます」
アリシアは一切疑うことなく、純粋な笑顔で答えた。ダンビローグは「では、客席であなたの優雅な舞を楽しませてもらいますよ」と穏やかに微笑み、立ち去っていった。
彼が見えなくなると、アリシアの肩から再び力が抜け、その場にへたり込みそうになった。作り物の笑顔が崩れ、隠しきれない不安が顔を出した。
(本当に、私なんかにこの大きなサーカスを守れるのかな……)
父の大きくて温かい背中を思い出し、胸が締め付けられる。もし王都で失敗したら、みんなの居場所を奪ってしまう。経営難という現実のプレッシャーに押しつぶされそうになった、その時だった。
ふっ、と控室の中や、周囲を照らしていた光る魔石のランプの明かりが、一斉に弱々しく萎んでしまったのだ。
「えっ?」
アリシアが顔を上げると、ランタンの中にいる手のひらサイズの炎の精霊、イグニスが、今にも消えそうなほど小さく揺らいでいた。彼はテントの照明技師であり、その感情と炎は、アリシアの心の状態と強くリンクしてしまうのだ。アリシアがひどく落ち込んでいると、イグニスの火まで弱まり、周囲の照明が暗くなってしまう。
「ごめんね、イグニス。私ったら、情けない顔しちゃって。これじゃあ、お客さんを笑顔になんてできないよね」
アリシアは両手で自分の頬をパンッと強く叩いた。気合を入れる音が控室に響く。
「大丈夫。私はエトワール・メモリアの団長、アリシアよ。泣いても笑っても、幕は上がるんだから!」
彼女が顔を上げ、決意に満ちた明るい笑顔を見せた瞬間。
ボワッ!と音を立てて、イグニスの炎が力強く燃え上がった。周囲の魔石のランプも一斉に眩い光を取り戻し、テントの裏手を温かく、そして華やかに照らし出す。イグニスはまるで「その意気だ!」と言うように、ランタンの中で元気に飛び跳ねた。
「ありがとう、イグニス。さあ、行くわよ!」
アリシアは華やかな衣装の裾を翻し、テントの裏口へと向かった。
外からは、開演を告げるファンファーレが鳴り響いている。




