第二章 【51】 魔人④
〈ヒビキ視点〉
「……貴様らか。我が同胞を、痛めつけた下郎どもは」
怒りに満ちた、男の声を耳にして。
(……ッ!?)
強風に顔を煽られた人間が、咄嗟に庇うような、反射行動で。
ヒビキの肉体が……ピクリと、反応した。
次の瞬間である。
「これだから、虫唾が走るのだ」
男の声が、背後から聴こえてきて。
「どこにでも湧く、人間という害虫は」
今度はそれに反応する時間すら与えられずに。
「……んぎッ!?」
まずはハミュットが。
構えようとしていた金砕棒ごと、その身体を手刀で切り刻まれた。
右肩から腹部にかけて、朱線が滲んで。
血飛沫を噴き出すよりも早くに。
「がハッ!」
一歩を踏み込もうとしていたバオが、強かに地面に叩きつけられて。
肉を潰す音とともに、半身を大地に陥没させてしまう。
「……ンなッ!?」
そのあとで、ついでのように。
前蹴りを加えられたアブラヒムの片手剣が、防御に用いた二本とも、呆気なく砕かれて。
「……ッ!」
そのまま振り戻された足による、後ろ蹴りが。
防御に用いたヒビキの左腕を、バキバキに、粉砕したのだった。
あたかも、その一連の動作は。
目についた蟻の行列に不快感を抱いた人間が、それを蹴飛ばしたような、気安さで振るわれており。
(こ、いつ……まるで俺たちのこと、眼中に入っていやがらねえ!)
行使された絶大なる暴力が、あまりに容易く。
人間たちを、壊滅寸前にまで追い込んでいた。
ヒビキとアブラヒムが意識を保てているのは、たんなる偶然に過ぎない。
まず間違いなく、次の行動で、命を刈り取られる確信があった。
「……ねえー、ラースうー」
ただ、その前に。
「なんかエンヴィーがあー、ぶつぶつと、うわ言を漏らしているんだけどおー、これって大丈夫なのおー?」
妙に間延びした、女の声が。
目の前の男……ラースに、向けられて。
「……意識があるのなら、ひとまずは大丈夫だ。エンヴィーとて我らの同胞。その程度の損傷で、壊れたりはせぬ」
「でもねでもねえー、なんかあー、必死に何かを呟いてるんだけどおー、これってえー、なんなのかなあー?」
「……ちいっ、それくらい自分で判断しろ、スロウ!」
苛立った様子のラースが。
甘ったるい口調の女……スロウの元に、向かったのは。
あと一手間で、確実に摘める命を、見過ごしたのは。
目の前の害虫《自分》たちが、あくまでその程度の存在に過ぎないからだという他に、理由が思いつかなかった。
(……クソッ、んだよそれ……ッ! こんな好き勝手やっといて、俺たちなんて、そんな程度のモンなのかよ……ッ!)
必死になって。
知恵を巡らせ、仲間を募り、力を尽くしたところで。
圧倒的な暴力の前には成す術がないという現実を、まざまざと、突きつけられて。
(……だけどッ! 舐めプ上等ッ! それで首の皮繋がったンなら、いくらでも感謝してやんよッ!)
凄まじい怒りが込み上げてくるものの。
ヒビキはそれを、歯を食いしばって呑み込むことができた。
なにせ、ヒビキにとって敗北など。
これが初めてというわけではない。
不幸自慢をするわけではないが、これまでに散々と味わってきた辛酸が、この場の誰よりも早く豚鬼を再起させたのである。
「…………っ」
そんな『負け慣れた』ヒビキよりも。
よほど大きな衝撃を、受けてしまったのか。
(ヒムっ……は、ちょっと無理そうだな……)
茫然自失とした様子のアブラヒムが。
心配ではあるものの。
(……それより、ハミュットさんとバオさんは!?)
今は重傷を負った二人のもとに駆けつけて。
状態を確認する。
「……うっ」
すると、血まみれのハミュットも。
地面に横たわるバオも。
流石というべきか。
咄嗟に即死となるような致命傷は回避したようだが。
それでも胴体を袈裟懸けにされた女蛮鬼の傷は深く、全身を強打した緑鬼も、深刻な重体である。
「……ビッキー! 大丈夫!?」
「メメさん! トトさん! 俺よりも、二人のことを!」
「……っ、これは……すぐに、治癒士のところに運ばないと……っ!」
手持ちの回復薬を使用して、応急処置を試みるものの。
瀕死の彼女たちを救うためには、地上で待機している治癒士たちとの合流が不可欠だ。
とはいえ、現状では。
あの恐ろしいほどの怒りに満ちた魔人が、自分たちのそうした行動を、見逃してくれるとは到底思えないが……
「……おい、人間ども」
そうしたヒビキたちの葛藤など、まるで無視して。
この場における圧倒的上位者が、声をかけてくる。
「ひびき、と、あぶらひむ、などという人間は、どれを指しているのだ? 速やかに名乗り出ろ」
「……ッ!」
この状況で、自らの名を呼ばれて。
頭が真っ白になりかけたが。
生物としての防衛本能を。
戦士としての矜持で、押し殺して。
「……俺だ。俺がヒビキ・アブラヒムってんだ。人様の名前を、勝手にふたつに分けてんじゃねーよ」
すぐさま、魔人と向き合いながら。
堂々とそんな偽名を口にした豚鬼に。
「……ッ!?」
傍らで項垂れていた半血鬼が、小さく震えた。
そして。
「……おイおイ、そりゃねーだろオ、キョーダイ」
ギリギリと、拳を強く握り込んで。
本能に怯える自分を、叱咤するように。
ゆっくりと、己の意思で、立ち上がる。
「ここでそんなカッチョいーイ台詞とかア、おまっ、おっ勃っちまうじゃねーかアよオ!」
「……だよな。お前はそうやって、立ち上がるよな」
「あア、ギンギンフル勃起だアッ!」
いまだ、その瞳に畏怖の感情が宿るものの。
それでもアブラヒムは、己の両足で立ち上がり。
ヒビキと並んで、魔人たちを真っ向から睨みつけた。
「……ふん。たしかに、活きは良さそうだな。これなら手頃な訓練相手にはなるか」
そうした人間たちを。
品定めするように、睨め付けて。
「よかろう、エンヴィーが執心している貴様らだけは、ひとまず生かしておいてやろう。我らとともに来い」
慈悲をもって、与えてやったはずの言葉に。
「ふざけんなクソ魔人、何様のつもりだよ? なんで俺が、テメエの言うことを聞かなきゃなんねーんだ?」
あからさまな、反抗の意思を示されて。
「……あ゛?」
魔人の声音に、苛立ちが混じる。
慌てたのは、ヒビキたちの背後で負傷者を抱える、双子従者だ。
「……ちょっと、ビッキー! ダメだって!」
「……ウチらのことはもういいから、ビッキーたちだけでも――」
「――用事がないんなら、せめて他の人たちは、見逃せよ!」
そんな女蛮鬼たちの声すらも無視して。
圧倒的強者であるはずの魔人に、不敵な発言をする豚鬼は、正気を逸したと判断されてもおかしくない。
だが。
(どのみち、このままむこうの言いなりになったところで、結末はしれてる。……だったら!)
強気な態度を演じるヒビキの胸中に、思い返されるのは。
かつて師匠から与えられた、魔族に関する情報のひとつ。
その頂点たる魔王にすら適応されるという、創造神によって設定された、魔人の本能に近い『習性』であった。
「俺は……俺たちは、この場に残ってやるから、他の人たちは見逃しやがれ。それが『取引』ってもんだ」
「……っ! そーだなア、そーだよなア、そうこなくっちゃなア、キョーダイ! ヒャハハハッ!」
「……なんだ、貴様ら。狂っているのか? この状況が、わかっていないのか?」
空気を読まず、あくまで『契約』を持ちかけてくる豚鬼と。
その隣で心底愉快そうに、狂喜の笑みを浮かべる半血鬼に。
はじめて、魔人の業火のような瞳に、敵意以外の感情が混じった。
「いったい何者だ……貴様ら?」
「あ? 俺か? 単なるマザコン豚野郎だよ! それに自分の価値くらい、テメエらに品定めされるまでもなく、わかってらあ!」
「……いや、わかっていないな。貴様らの命はすでに、我らの掌にある。生かすも殺すも我ら次第だ」
「アー、アー、そうだなアそうですねエその通りでございますよオ………………ンでもなア」
アブラヒムは折れた片手剣の一本を、ヒビキに手渡して。
もう一本を、己の首元に突きつけながら。
「命は強者に弄ばれてもオ、血とオ、魂はア、そんなモンには縛られねエよオッ!」
「……だな。どうせ好き勝手に弄ばれる命なら、使い所ぐらいは、自分で決めてやるさ!」
ヒビキもまた、己の首筋に、半ばで折れた片手剣を押し当てて。
刃の断面に血を吸わせながら。
強く魔人を、睨みつける。
「……やはり、狂人か。話にならん」
そうした二人の態度に。
魔人は、心底不愉快そうに眉根を寄せて。
「もういい。戯言はそこまでだ。今すぐに死にたいのならお望み通り、殺してやる」
ゴオッと、爆発したかのように。
膨大な魔力圧を解き放った魔人が。
指先を、強情な人間たちに向けたところで……
「……ひび、きい……あぶらひ、むう……」
男の背後から、寝言じみた、そんな声が聴こえてきた。
「……」
「うふふー。エンヴィーったらあー、すっかりあの人間が、気に入ったみたいだねえー。かっわいいなあー」
「……」
「ねえー、ラースうー? 本当に、それでいいのおー? ここでこの子の機嫌を取っておかないとおー、あとでとっても、大変じゃないー?」
「……」
「ねえねえー、ラースうー。ねえってばあー?」
「……ちっ」
背後からまとわりつく甘ったるい声音を、振り払うかのように。
舌打ちした紅蓮髪の男は、指先をヒビキたちから逸らす。
「もういい。さっさとそこの人間どもは、散れ」
そして、吐き捨てるように口にした言葉を、確認してから。
ヒビキは喉元から、刃を降ろして。
固唾を呑んでいた双子姉妹に、向き直った。
「……たしか伝承によれば、魔人ってのは契約を重要視する存在のはずですから、おそらくこれで、背後から撃たれることはないはずです」
朧げな知識を元手として、賭けに出るには。
あまりにも頼りなくか細い、綱渡りであったが。
どうやら自分はなんとかそれを、渡り切ることができたようだ。
「今のうちに、皆さんは地上に転移してください」
「でも!」
「それじゃあ、ビッキーたちは……っ!?」
「……すいませんが、今はこれが精一杯です」
とはいえ最低限の出費は、致し方ない。
自らの命を交渉台に乗せた以上は、その責任を果たさなければならない。
「マリーのこと、頼みます」
「……うん、任せて」
「女蛮鬼の名にかけて、受けた恩は、必ず返すから……っ!」
瞳を潤ませながら。
双子姉妹はヒビキの要望に、力強く頷いてくれた。
(よかった……これで、最低限の保険はできたな……)
もちろんこのまま、無意味に死ぬつもりなど微塵もないが。
それでも最大の懸念事項に保険がかけられたことに、少しだけ、豚鬼の顔から強張りが取れる。
その変化を、どう受け取ったのか。
「……でも絶対に、ビッキーたちも、生きて帰ってきてよね! 待ってるから!」
「はいこれ、あげるから! ビッキーの童貞はウチらでもらうんだから、それまで絶対に、死んじゃダメだよ! 約束だかんね!」
などと、顔を赤くして。
ギザギザの歯を噛み締めながら。
矢継ぎ早にそう告げた、左右対称の双子姉妹は。
ヒビキとアブラヒムに自分たちの呪巻物を押し付けてから、負傷者たちを背負って、この状況でも転移魔法陣を維持し続けていた女族長のもとへと駆け去っていった。
「……っ!」
無言のまま。
最後に一度、大きく頭を下げて。
双子従者を伴ったレイアが、転移魔法を発動させて、その姿を地下空間から消失させる。
「……これで、満足か? では次は、貴様らが契約を遵守する番だ」
それらを黙って、見届けたのちに。
腕を組んだまま語りかけてきた、紅蓮蓬髪の魔人に向けて。
「……は? 何言ってんだ、お前?」
心底、馬鹿にしたように。
豚鬼は、挑発の表情を浮かべるのであった。
【作者の呟き】
ママ「ちょっと聞いてない! 私それ聞いてないですよ、ヒビキくんっ!!?」




