第二章 【26】 変化①
〈ヒビキ視点〉
そうして、思いもよらぬ成り行きから。
女蛮鬼の森里での新生活を始めたヒビキが。
半血鬼の少年や、冒険者一行の面々と、立て続けに面識を持つことのなった日から、一週間ほどが経過して。
世界が夜明けを迎えたことで、冷えた空気が引き締まり。
徐々に森の匂いが濃くなっていく、明け方である。
……コンコン。
「はいはい、オビイ様ですか? 今お出迎えいたしますね〜」
「……おはよう、ルルチ。ヒビキもおはよう」
「ええ、おはようございます、オビイ様。本日も良い天気になりそうですね」
「おはよう、オビイさん。今日もご苦労様です」
いつものように、室内で。
柔軟体操や自己負荷鍛錬などを行っていた豚鬼のもとを訪れたオビイが、相変わらず内心が読めない凛然さを保ったまま、朝の挨拶をしてきて。
「ワンワンッ!」
「ええ、ポチマル様おはようございます。今日も素敵な毛並みですね」
「ワフワフ〜♪」
「お、ポチマルさんも、おはようございます。どれどれ……」
「……グルルルッ!」
少女の相棒である銀狼が。
小森人の隷夫には愛嬌を。
便乗しようとした豚鬼には、威嚇の唸り声を振り撒いたところで。
「……懲りないな、ヒビキは。というか本当にどうしてポチマルは、お前に対してこうも頑ななのだろうな?」
「さあ、本当になんででしょうねえ……でも俺は、諦めませんよ! いつか絶対あの毛並みを、思う存分にモフり倒してやるんだ……っ!」
「ガウガウガウッ! グルルルル……ガウッ!」
「う〜ん、この様子では、先行きは相当に険しそうですが……頑張ってくださいね、ヒビキ様!」
いつもの朝の挨拶を終えたヒビキたちが。
隷夫であるルルチだけを、仮家に残して。
いつものように、家の外へと赴くと……
「……あ、おっはよう、ヒビキくんっ♡ 今日もカッコいいね! っていうか日に日にカッコよくなっていくとか、ズルいんだけどっ♡」
「朝露もないのに濡れちゃうからっ♡ 責任とって、ちゃんと種や汁を蒔いてお世話してよねっ♡」
「あ、ポチマルもおはよ〜」
「……オビイも、ち〜すっ」
いつものごとく。
出待ちの女蛮鬼たちに迎えられて。
「おい豚鬼野郎! 今日こそは負けねえからな!」
「リーダーうっさい! ビキっち、おはようだピョン!」
そのなかに。
真新しい冒険者たちの顔が、混ざっているのであった。
⚫︎
「……ヒュー、コヒュー、ヒュー」
それから小一時間後。
いつものように、群がってくる女蛮鬼たちの少女たちを振り切るようにして。
朝靄の漂う森里の周辺を。
汗を滴らせる豚鬼が駆け回っていると。
(……おっ。タウロドンくん、発見!)
途中で力尽きたのか。
地面に大の字で倒れ伏した、浅い喘鳴を漏らす、牛鬼の青年を発見した。
(今日はここまで粘ってたのか。昨日よりもずいぶん距離を稼げてるじゃないか)
ヒビキのように、身体中に砂袋や鉄板、魔力阻害効果のある呪帯などを、巻いていないとはいえ。
巨体というのは、ただそれだけで。
動かすことに、相応の体力や魔力を消耗するものであり。
背丈が二メートル近い巨漢がここまでの道のりを走破していたことに、図らずしもその成長過程を見届けているヒビキとしては、胸にほんのりと、温かな気持ちが宿してしまうのであった。
(俺の修行を見守ってくれていたカエデさんやハクヤさんも、こんな気持ちだったのかねえ……)
時間としては、あれから一月も経っていないはずなのだが。
すでに懐かしさを覚えてしまう。
かつての日々を、思い出して。
ちょっぴり感傷を抱いていると。
「あ、リーダーを発見だピョン! じゃあ今日は、ここまでピョンねえ!」
種族特性もあるのだろうが。
こちらは牛鬼のように、周回遅れになることなく。
今までヒビキが率いる先頭集団に混じっていた、細身で見るからに軽快そうな兎人の少女が、清々しい笑顔を浮かべて速度を緩めていった。
「ビキっち、バイバイだピョン!」
「うっす! お疲れ様です、ミミルさん!」
「……気をつけて、帰れよ」
「ワンワンっ!」
「……あ〜、朝からいい汗掻いたピョンっ! きンモヂい゛い゛〜っ!」
ついには足を止めて。
腰に手を当てて、身体を逸らしながら。
少女らしからぬ、野太い声を漏らす兎人に。
「……はあ、はあ、ミミちゃん、ウチらも、もう限界だから、コイツを運ぶの手伝うわ……」
「……テメエこらオビイ! ちゃんと最後まで、ヒビキくんの護衛、見届けろよな……うっぷ!」
「……あ〜、しんど〜っ!」
「……てかなんでアイツ、あんなブルンブルンぶん回しといて、垂れねえのかな……やっぱ豊胸体操に秘訣が……?」
先頭集団から、やや遅れ始めていた。
汗だらけの女蛮鬼たちの少女たちが。
次々と、彼女に合流していく。
「……フン、言われるまでもない。お前たちも精々、身体を冷やすなよ!」
「ワンワンッ!」
背中から聞こえてくる少女たちの声に。
そうした、憎まれ口を叩きつつも。
着実に走力を伸ばしている同胞たちの姿が、オビイとしても嬉しいようであり。
言葉に反して、声音には。
彼女らしい友愛の情を感じてやまない、豚鬼であった。
(オビイさん、根は真面目なんだけど、ちょっとコミュ障っぽいからなあ。これを機にあの子たちと、もっと仲良くなれたらいいんだけど……)
今世の思い出に、胸を疼かせた後で。
今度は前世における、人間関係に思い悩んでいた義妹を見守っていた頃の、義兄としての感情を思い出しながら。
自分でも気付かぬうちに。
凛々しくも美しい、赤髪少女の横顔に。
生暖かい視線を注いでいると……
「……ガオンッ!」
「痛ってえ! ポチマルさん、なんでえ!?」
「……お前がオレを、妙な目で睨んでいるからだ」
しっかりと。
そうした視線には、本人にも気付かれていたらしく。
唐突に牙を剥いた番犬から、必死に逃げようとする豚鬼は。
「……馬鹿者め」
ポツリと呟く、少女の褐色肌が。
いつもより濃く染まっていることに、けっきょく気付けないのであった。
⚫︎
そうした早朝の、走り込みを終えて。
自宅で朝食を取り、食後の瞑想を済ませて。
女族長の屋敷に赴き、マリアンとの面会も終えた後は。
一週間前ならそのまま森里の交流場や訓練場、もしくは里外の狩場などへと足を向けていた、豚鬼たちであるが。
「……ヒビキ。今日もまた、アイツを迎えにいくのか?」
「ええ。じゃないと後で、面倒臭いですからね」
などと、文句を漏らしつつ。
冒険者や商売人など、森里へ訪れる客人たちが逗留している宿泊施設が設けられた区画へ、足を運んでいると。
「……ワフワフ。ワフ〜ン」
その道中で。
主人の不満に同意を示すかのように。
主人に追従する銀狼が、鼻を鳴らしたのだった。
「……おやおや、ポチマルさんも、そう思いますか?」
「グルルルルッ……」
「いやだからなんで、そこまで毎回律儀に威嚇してくんだよ……?」
機会があるごとに。
銀狼のご機嫌を伺うことに余念がない、ヒビキであるが。
残念ながらその想いは、今回も空ぶってしまったらしい。
一向に懐いてくれる気配のない銀狼を前にして。
「う〜ん……俺何か、キミに悪いことしましたかねえ……?」
腕を組み、首を傾げる豚鬼の姿に。
「……もしかしてポチマルは、ヒビキの匂いが気に触るのかもしれないな」
思わず、といった様子で。
ポツリと呟かれた。
オビイの言葉によって。
「えっ!? それもう、どうしようもなくないっ!? っていうか俺、臭いかなあ!? 普通にショックなんですけど!?」
過敏に反応した豚鬼は、フガフガと。
潰れた豚鼻で、全身の匂いを確認していく。
その様子に慌てて見せたのは、赤髪の少女であった。
「い、いや、臭いとは言っていないぞ! べつにオレは、全然アリだと……ッ!? と、というかむしろ! 他の者たちはもっと、濃いほうが好ましいとすら言っているくらいだし! あくまで犬や猫基準の感覚で、という意見だから、そこまで気にする必要はないからなっ!?」
「そ、そうかなあ……そうだといいなあ……」
フゴフゴと、豚鼻を鳴らしながら。
少女の何気ない言葉がよほど、繊細な……精神年齢が……中年男性の心に刺さったのか。
わりと必死な形相で、脇下などの体臭を確認する豚鬼は。
顔を赤らめて早口を並べる、少女の変化に気付いていない。
それどころか。
「あー、くっそ……やっぱ部屋での水浴び程度じゃ、限界あるのかな……? それとも食生活か……? どうやったらオビイさんみたいに、いっつもいい匂いを振り撒けるんだよ……?」
「……ッ!!?」
無意識に漏らしてしまった、本音によって。
油断していた少女の顔色を、さらに茹で上がらせてしまう。
「……グルルルウっ! ガオッ!」
即座にそれを察した番犬が。
すかさず、豚鬼の尻に噛み付いた。
「おいいいいっ!? だからなんでえ、いつもキミは唐突に牙を剥くのかなあ!? そんなに豚のケツは美味しいですかあ!?」
「……ふ、ふん。自業自得だ、馬鹿者め」
そうした己の変化を、誤魔化すようにして。
豊満な腕の下で、それを支えるように腕を組み。
凛々しくも美しい顔を、オビイが引き締め直していると……
「……お姉さま!」
「……ん? なんだ、シュレイじゃないか」
宿泊施設に向かう道中にある、露天商区域で。
偶然にもオビイの隷妹である少女と、遭遇したのであった。
⚫︎
「どうしたシュレイ。こんなところで、何か用事か?」
「はいでありますお姉さま! 今晩の、食事の買い出しをしていたのであります!」
「そうか、それはご苦労だな。それで何か、目ぼしいものは見つかったか?」
「勿論でありますよ! 今日はお姉さまの好きな果実を、たくさん購入できたのであります!」
「おお、それは夕餉が楽しみだな」
「ええ、期待していてほしいのであります!」
などと。
銀狼に噛みつかれたばかりのお尻をさする、豚鬼の眼前で。
黒蜜肌の森鬼が、オビイと楽しげに会話をしていたので。
「……こ、こんにちわ、シュレイさん。今日も精が出ますね」
いつも彼女の主人を、こうして連れ回している身としては。
無視するのも如何なものかと考えたので。
いちおう挨拶をしてみたのだが……
「……はあ」
わざわざ、わかりやすい溜息まで吐いて。
「こんにちわであります、ヒビキ様」
返事こそ、してくれたものの。
ヒビキに対する彼女の態度は、ありありとした、倦怠感を孕んだものであった。
(……ん゛っ!? んん、やっぱり、この子にも嫌われてんのなあ、俺って!)
十代半ばの少女が発する氷点下の瞳は。
少しばかり、耐性がついてきたとはいえ。
それでもヒビキの豚顔を引き攣らせるに、十分な威力を有している。
「……それで、シュレイになにかご用でありますか?」
「い、いや別に、そういうわけじゃないんだけど……」
「でしたら買い物の途中なので、申し訳ありませんが、シュレイは失礼させてもらうのであります」
つい及び腰になってしまう豚鬼に。
冷ややかな態度を崩さぬまま。
左右の肩に垂らしたおさげを揺らして、踵を返した少女は。
「それではお姉さま、また後ほど!」
「あ、ああ、そうだな……」
「……あ、それとポチマル! ご褒美でありますよ!」
「ワンワンワンッ!」
去り際に、何故か。
買い物袋から購入したばかりの腸詰肉を放り投げて。
それをさも当然とばかりに、空中で確保した銀狼が、尻尾を振りながらご馳走に齧り付くのであった。
「「 …… 」」
そうして、遠ざかっていく。
少女の背中を見つめながら。
「……本当に、ヒビキはオレの隷妹たちに、何かやらかしたのか? 心当たりはないのか?」
困惑気味に、問いかけたのは。
彼女の主人である女番鬼であり。
「……それが本当に思い当たらないから、困っているんですよねえ」
答える豚鬼には、やはり。
彼女たちの心境が、まるでわからない。
なんなら身内にここまで嫌われているんだから、本当はその主人であるオビイにも、やっぱり本当は嫌われているんじゃないのか。
などと、訝しんでしまう程度には。
傷心気味な中年精神を宿してしまっている、豚鬼であった。
【作者の呟き】
はたして豚鬼は、森鬼と銀狼による鉄壁ガードを、突破できるのか……っ!?(フラグ)




